それは遠い遠い昔のこと。ある小さな村に、フロラというパン焼き名人が住んでいました。村の外れ、山に最も近い場所に建っている赤い屋根の小さな家がフロラの住む家です。フロラは早くに両親を失い、たった一人でパンを作って生活していました。 フロラの作るパンはどれも好評でしたが、中でもくるみのたっぷり入ったパンはとても人気があり、朝に焼いてもお昼には売り切れてしまうほどでした。 そんなある日のこと。 突然、フロラはパンを焼くのをやめてしまいました。村の人たちは当然、フロラのパンが食べられなくてガッカリしています。 「どうしたんだい、フロラ。くるみが手に入らなかったのかい?」 いつもパンを買ってくれるヘンデル婆さんに尋ねられ、フロラは首を横に振りました。 「いいえ、ヘンデルさん。くるみはあるのだけれど、どうしても作れないの」 「どこか具合が悪いのかい?」 「いいえ、そうじゃないわ。でも、どうしても作れないのよ」 どんなことを聞かれても、フロラはただ「どうしても作れない」と繰り返すだけで、その理由を誰にも話しませんでした。 一日たち、三日たち、次第に村の人たちはイライラしてきました。何人かの村人は、フロラがどうしてもパンを焼かないことに腹を立てて、もう二度と買ってやらないからなと怒鳴りつけたりもしました。 村にはフロラほど上手ではないけれど他にパンを焼く人がいて、村の人たちはフロラのパンを諦めて、そちらのパンを買うようになりました。 それでもフロラは一向気にすることなく、誰にせがまれてもパンを焼くことはありませんでした。 ところで、フロラはとても立派なパン焼きかまどを持っています。それは昔ながらの石造りのもので、一見するとエントツの付いた石の家のようでした。かまどの中は二段になっていて、下で薪を燃やして上の段でパンを焼くのです。 家の中庭にあるパン焼きかまどを覗き込んで、フロラは小さく微笑みました。 「ここにいれば大丈夫よ、ゆっくり傷を治してね」 そっと、さっきヤギから絞ったばかりの新鮮なミルクをかまどの中に入れながら、フロラは優しく中のものに話しかけました。 中のものはパン焼きかまどの中で窮屈そうに、大きくてフサフサした尻尾を揺らしました。 なんと、フロラのパン焼きかまどの中には、一匹のキツネが入り込んでいたのです。キツネは左足を怪我していました。 「かわいそうに、キツネ狩りに遭ったのね」 その頃、フロラの住んでいる地方ではキツネの襟巻きが流行していて、少し離れた町からも、猟銃を持った男たちがキツネを狩りにやって来るほどでした。 このキツネも恐らくは、猟銃を持った男たちに追われて山から逃げ出し、村で一番山に近いフロラの家の、そのパン焼きかまどに逃げ込んだのだと思われました。 フロラはキツネを不憫に思い、パン焼きかまどをキツネの怪我が治るまで使わないことにしたのです。そしてそれを村の人たちに正直に話してしまうと、キツネが襟巻きにされてしまうと思い、誰にも理由を話さなかったのでした。 それから一週間がたった頃。 いつものようにフロラがキツネにミルクを持っていってやると、キツネはパン焼きかまどの中から出て、フロラが来るのを待っていました。 「まあ、駄目じゃない」 キツネの姿を誰かに見られたら大変です。こんなところにキツネがいると知れたら、村中の猟銃を持った男たちが一斉にやって来るかもしれません。フロラは周囲を見回して、誰もいないことを確かめるとホッと胸を撫で下ろしました。 「もしかして、足が治ったの?」 フロラの声に応えるように、キツネは少し歩いてみせました。けれど、左足を少し引きずっています。フロラはすぐに気付きました。 「いいえ、いいえ、まだ治っていないわ。私のことは気にしなくていいのよ。一人だから、あなたがいてくれて嬉しいくらいだもの」 村から離れたところで、長い間ひとりぼっちで暮らしてきたフロラは、こんな風に誰かの世話をすることも久しくなかったのです。 フロラは淋しげに笑いました。フロラは、足が治ったらキツネが出ていってしまうのだということに気付き、たまらなく淋しくなったのです。 キツネはそんなフロラの様子に気付いたのか、小首を傾げ、フロラをじっと見上げます。キツネのとび色に近いつり上がった瞳は、皆の言うほど意地悪そうではありませんでした。 そして、キツネはフロラの前で傷付いた足を懸命に蹴って、青い空へと高く飛び上がると、クルリと空中で一回転しました。 するとどうしたことでしょう。 次にキツネが着地した時、そこには、とても髪の美しい青年が立っていました。その髪は金色に輝き、身体つきはスラリとしていて、少し目の細い、二十代半ばの青年。 フロラは驚いて、ミルクの入ったお皿を取り落としてしまいました。 「ぼくはあなたにとても迷惑をかけた」 青年はフロラに向かって人間の言葉で話しかけました。少し発音の危なっかしいところもありましたが、その声はとても響きの良いバリトンでした。 「まあ……まあ……」 フロラはあまりのことになかなか言葉を発することができず、キツネの青年をパチパチと瞬きしながら見詰めました。 目の前に立っている青年は、どこからどう見ても人間の男のようでしたが、フロラはあるものに気付き、我慢できずにクスクス笑い出してしまいました。 「お尻から尻尾が出ているわ」 フロラに指差されて、青年は慌てて後ろを振り返りました。その動きに合わせて、尻尾がプルンと揺れます。 その様子がおかしくて、フロラはいっそう楽しそうに笑いました。 「ちょっ、ちょっとまだ今は、本調子じゃないから」 青年はギュウギュウと尻尾を身体の中に押し込み、ようやく尻尾が見えなくなると、自分でも可笑しかったのか、フロラと一緒に笑い出しました。笑うと、とても優しそうに見えました。 「キツネの男の子も、人間に化けるのね」 フロラの知っているこの地方に伝わるお話では、人間に化けるのはほとんどが雌の狐でした。 キツネの青年は首をすくめてみせて、それからまるでどこかの王子様のように上品にお辞儀をしました。 「ぼくはあなたにとても迷惑をかけたので、あなたのお手伝いをさせてください」 フロラに断る理由はありませんでした。 * 次の日、とても久しぶりにフロラの家のパン焼きかまどのエントツから白く細い煙が立ち昇り、村の人たちはたいそう喜びました。 キツネの青年はフロラに、くるみのたくさん落ちている場所を教えてくれて、それはいつもフロラが一生懸命になって集めるより早くいっぱい集められる上に、上等なくるみでした。 そのくるみをたっぷり使ったパンはとても美味しく焼きあがりました。村の人たちは久しぶりのフロラのパンを喜び、またその味にも大満足のようでした。 けれどそれ以上に村の人たちの評判になったのは、フロラの家でパンを並べるお手伝いをしている美しい青年のことでした。 キツネの青年はせっせと休みなくパンを並べ、本当によく働きました。村の人たちはキツネの青年の働きぶりに感心し、これでフロラもひとりじゃなくなって幸せになれると思っていました。 ヘンデル婆さんなんかは、もうキツネの青年をフロラのお婿さんだと思い込み、何度も何度も青年の前で頭を下げるのでした。 「どうかフロラと、ここの美味しいパンをよろしくね。ミスタ、えぇと……」 「キルンです」 キツネの青年は、ヘンデル婆さんの前でとても丁寧にお辞儀をしました。ヘンデル婆さんはキツネの青年――キルンを、しょぼしょぼした目で見詰めます。 「キルンとは、この辺の人じゃないのだね」 「はい。ずっと遠くの方から来ました」 キルンとヘンデル婆さんの会話を、フロラはハラハラしながら聞いていました。けれど、しばらくするとそれは心配する必要のないことだと分かりました。 キルンはさすがにキツネだけあって、誤魔化しの天才でした。正直に答えながらも、詳しいことはすべて曖昧にすませてしまうのです。ヘンデル婆さんはそのことにまるで気付きません。 フロラはホッとする一方で、少しヘンデル婆さんに対して申し訳ない気持ちがありました。正直に話してしまえばキルンが捕まってしまうし、嘘をつき続ければ気持ちがつらいのです。 腰の大きく曲がったヘンデル婆さんの手を、左足を少し引きずりながら、キルンが店のドアまで引いてあげています。店のドアの前でヘンデル婆さんがフロラに手を振ってきて、フロラも振り返しました。 「フロラはとてもいい子だろう?」 ヘンデル婆さんの言葉に、キルンは大きく頷きます。 「はい、とても優しくて、それに美人です」 美人という言葉を聞いて、フロラは頬が熱くなるのを感じました。これまでにも、パンを買いに来る村の人たちからお世辞を言われたことは何度かありましたけれど、こんな風にポッと頬が熱くなることはありませんでした。初めてのことです。 フロラは慌てて両手を頬にやり、誰にも見付からないように手で包んで隠しました。 そんな平和なひと時を、一発の銃声が引き裂いたのです。 パァンという音は、何か紙袋が破裂したような軽い音でしたが、山の木々は鳥たちの羽ばたきによって一斉にザワザワと揺れました。 フロラはその音を聞くと、すぐに走り出しました。 「キルン! キルン!」 店の外に走り出ると、猟銃を持った男たちの一団がいました。フロラが走り出てすぐに、森の中から一匹の犬が走ってきて、その口にくわえていたウサギを先頭の男の前に置きました。 「よーし、よくやった」 動かないウサギを、男は無造作に皮の袋の中に入れます。男たちの中には肩にキツネをかついでいる者もいました。 店のすぐ横には、真っ青な顔をして震えているヘンデル婆さんとキルンがいました。キルンは驚いたせいなのか、尻尾がプルンと出てしまっています。 「やっ、そいつはキツネじゃないのか」 男の一人がキルンの存在に気付き、キルンに猟銃を狙い定めました。ヘンデル婆さんはあまりのことに腰が抜け、その場にへたり込んでしまいます。 「だめっ!」 フロラは全力で走り、キルンを狙う猟銃の前に立ちふさがりました。男は苛立って叫びます。 「女、そこをどけ!」 「いやよ!」 この男たちはどうやら、町の方から来たハンターのようです。森を案内するために雇われたのでしょう、村の老人がオロオロしながらフロラに声をかけます。 「フロラ、あぶないから、怪我をする前にそこをどきなさい」 「いやよ! 絶対にどかないわ!」 その間に、騒ぎを聞きつけてやって来た村の人たちの手によって、ヘンデル婆さんが助け出されました。ヘンデル婆さんはキルンがキツネだったことにショックを隠しきれず、フロラに向かって叫びます。 「フロラ、そいつはキツネなんだよ。人間じゃない、そら、その大きな尻尾をごらん。おまえは騙されているんだね。かわいそうに、いいからこっちへおいで」 けれども、フロラは大粒の涙を流しながら言いました。 「私は知っているわ。彼がキツネだと知っていて手伝ってもらったのよ」 村の人たちは一斉に口を両手で覆いました。この地方では、あまりのことに言葉を失ったとき、両手で口を覆う習慣があるのです。 しかしフロラはひるむことなく、猟銃を構えている男に向かって言いました。 「撃ちたいなら、私も一緒に撃てばいいわ!」 そこまで言われてしまうと、さすがのハンターたちも引き下がらざるを得ません。渋々猟銃を下ろし、地面にペッとつばを吐いてからフロラたちに背を向けました。 村の人たちは好奇の目で、フロラとキルンを眺めています。ヒソヒソと、特に悪口の好きな女たちの口からは、二人を非難するようなことが囁かれていました。 ようやく、本当にようやくのことで、銃を持った男たちが完全に見えなくなると、キルンは恐怖から我に返りました。そして周囲の様子を見るなり、深くうなだれます。 「ごめんなさい。ぼくはあなたにもっと迷惑を……」 シュンとしているキルンに、フロラは微笑みかけました。 「いいえ、いいえ、キルン。あなたは何も悪いことをしていないのよ。何一つ、よ。謝ることなんて何もないわ」 そんな優しいフロラの言葉も、村の悪口好きな女たちの耳には届きませんでした。 翌日から、村の中ではヒソヒソと、フロラを"キツネの男を誘惑した魔女"だと中傷する声が囁き交わされました。 |
| 後半も楽しんでいただけると幸いです。 (2006.04.13) |
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