チクチクチク。 赤い毛糸のチョッキを着た、ひとりの少年が針仕事をしていました。もう何日もずっと、休むことなく銀のサーベルにも似た小さな針を純白のサテンに突き刺しては、白い絹糸を通しています。 少年の名前はルールー。銀色の巻き毛の美しいお針子さんです。 ルールーが休まずに縫っているのは、ルールーの住んでいる街で1番のお金持ちの家のお嬢さんが、結婚式で使うための純白のベールです。 その結婚式を3日後後に控えて、ルールーはベールを完成させようと夜もほとんど眠らないで頑張っていました。 なにせこの仕事は、ルールーにとってとても大切な仕事だったからです。ルールーはもう何日もパンを食べていません。新鮮なミルクも飲んでいません。とてもとてもおなかがすいていました。 このベールが完成さえすれば。 ルールーは自分の仕事を誇りに思っていましたが、世間はそう思ってはくれませんでした。男のくせにお針子なんて。誰もが鼻で笑います。確かに生活は厳しく、パンを買うお金にも、ミルクを買うお金にも不自由することがありました。 けれどルールーは、純白のサテンに小さな銀色の針を通しながら思うのです。 もしも結婚式でお嬢さんが輝いて見えるなら、そのベールを縫った僕にもその輝きを手助けした栄誉が与えられる。与えられてもいいはずだ。 ルールーは純白のサテンに白い花の刺繍をしながら、その栄誉を与えられた時のことを想像してうっすら微笑みました。 ようやくほとんど完成し、今度は純白のサテンに金色の花を刺繍するために、ルールーは黄金色に染められた糸に手を伸ばしました。 この黄金の糸は、雲まで届く高い山にひっそりと生えている金色の花からとった搾り汁で、何日も何日もかけて染められた、とても高価な糸でした。 ルールーはこの糸のあまりの美しさにうっとりとしていました。 その時です。 ルールーの細くて小さな手から、糸巻に巻きつけられていた黄金の糸が転がって落ちたのです。 コロコロ……と、釣鐘形の糸巻ごと黄金の糸が転がっていきます。 ルールーは慌てて糸を追いかけました。どこまでも、どこまでも、黄金の糸は転がっていきます。 「待って、待ってよ!」 黄金の糸はルールーの小さな部屋を飛び出して、埃っぽく暗い廊下を転がり、ところどころ板の腐った階段を転がり落ち、石畳のでこぼこした道を転がっていきます。 「お願い、誰かその金色の糸を止めて」 ルールーは必死で助けを求めましたが、夜遅くのことで、道には誰も歩いていませんでした。 どこまでも、どこまでも、黄金の糸を巻きつけた糸巻は転がっていきます。 ふと気付けば、ルールーは深い森の中にいました。街の明かりはまるで見えません。それでも黄金の糸はポンポン跳ねるように、森の中を転がっていきます。 「お願いだよ、待って」 ルールーは泣きそうになりながら黄金の糸を追いかけました。そのルールーの前に、ガサッと藪を震わせて、立ちふさがる人がいました。 「ここからは通さないんだぞ」 それは大きな大きな、まるでクマのような、クマそのものに見えるのですが、話す言葉は人間の言葉で、声は大人の男の人のものでした。 ルールーは怖くて立ち止まりました。けれど、黄金の糸はクマのような男の人の、まるで太い幹のような足の間を転がりぬけていきました。 「お願いします、通してください」 ルールーは頭を下げてお願いしましたが、クマのような男の人は頑として首を縦に振りませんでした。 「この先は立ち入り禁止だぞ。誰も通しちゃいけないんだぞ」 「でも糸がどうしても必要なんです」 「糸のことなんか知らないぞ」 男の人はとても大きいので、自分の足元を転がりぬけていった黄金の糸が見えなかったのです。ルールーは困り果ててしまいました。 あの黄金の糸はとても高価なので、他で代用することはできません。 どうしても、あの糸でなければならないのです。 ルールーはどうしてよいか分からず泣き出してしまいました。メソメソと泣いているルールーを見て、クマのような男の人は戸惑った顔をしました。 「泣いたって、通しちゃいけないんだぞ。誰も……はっ……へっ……ひっ………」 突然、クマのような男の人が鼻のあたりをムズムズと動かしました。 その直後。 ハックションと、ルールーが飛び上がって驚いてしまうほどの、大きなクシャミがクマのような男の人から飛び出しました。 ズズッと、鼻からたれた鼻水をすすると、クマのような男の人はルールーに言いました。 「この先は、誰も通しちゃいけないんだぞ。通したら、おれが怒られるんだぞ」 実はここ数日、とても寒い日が続いていたのです。今日も糸を追いかけているルールーの顔の前には、白い息が舞っていたくらいです。 クマのような男の人は、どうやら風邪を引いているようでした。 ルールーはこのクマのような男の人が不憫になってきました。ここを通すと怒られるということは、誰かに言いつけられてこんなに寒い中ずっと、この暗い森の中にいるのでしょう。そう思うと、かわいそうに思えたのです。 ルールーは涙を拭くと、赤い毛糸のチョッキを脱ぎました。 「このチョッキをあなたにあげるよ」 それはルールーにとって唯一の防寒着でしたが、黄金の糸を追いかけて走ってきたルールーは寒さをそれほど感じなかったのです。 クマのような男の人は、ルールーからチョッキを差し出されて戸惑っているようでした。一瞬は断ろうという素振りを見せました。けれども、暖かそうなチョッキの誘惑には逆らいがたいものがあったのです。 「すぐに戻ってくるか?」 急にクマのような男の人にそんなことを言われて、ルールーはキョトンとしました。クマのような男の人の言っている意味が分からなかったのです。 クマのような男の人はもう一度、今度はゆっくりと分かりやすく言いました。 「ただで何かを貰うのはイヤなんだぞ。だから、少しだけ、通してやるんだぞ。でも怒られるのはいやだから、すぐに戻ってきてほしいんだぞ」 その言葉を聞いて、ルールーは嬉しくなって何度も頷きました。赤いチョッキを受け取ったクマのような男の人は、そっと、ルールーが通るための道をあけてくれました。赤いチョッキを着た男の人は、まるでサーカスで人気者の、曲芸をするクマのようでした。ルールーのチョッキでは小さすぎたのです。 ルールーはクマのような男の人にお礼を言って、黄金の糸を追いかけました。 けれど、どこまで行っても黄金の糸に追いつけません。 そのうちに、ルールーは森の奥深くに迷い込んでしまいました。 どこをどう通ってどうやって来たのか、後ろを振り返ってみても分かりません。ルールーは心細くなったのと、クマのような男の人とすぐに戻ると約束したことが気がかりで、目に涙をためて歩いていました。 どのくらい歩いてきたのか、ルールーは透明な水の湧き出る泉にたどり着きました。その泉のほとりに、黄金の糸が見えたのです。 「あった、あったぞ!」 ルールーは嬉しくなって、つい大声を出して黄金の糸のところまで駆けていきました。 すると、その声を聞きつけたのか、泉の中から真っ黒い、魚とも言えないような、鳥とも言えないような、奇妙な黒い影がぬうっと現れたのです。 「ここで何をしている。どこから入ってきた」 黒い影はルールーに向かって威圧的に言いました。けれども、その声は怒っているというよりも、悲しそうな、苦しそうな響きを含んでいたのです。 ルールーは黄金の糸を握り締めて、その黒い影を見詰めました。 魚のようなうろこが全身を覆い、鳥のような羽を持ち、足は人間のようで……その足の先、足首のところに、まるで切り絵で切り取るところを失敗したように大きな裂け目が出来ていたのです。 そのせいか、黒い影はヒョコリ、ヒョコリ、と足を引きずっているようでした。 ルールーは黒い影のつらそうな様子を見て、ゆっくりと黒い影に近付いていきました。黒い影は最初警戒していましたが、ルールーの穏やかな表情を見て、立ち止まってルールーの来るのを待っているようでした。 ルールーは黒い影の前まで来ると、そっとしゃがみこんで、黒い足の裂け目に手を伸ばしました。裂け目を触ると、黒い影が大きく震えます。 「痛いんだね。かわいそうに」 ルールーがそう言うと、黒い影は驚いたように聞いてきました。 「わたしが怖くないのか?」 その声に、ルールーは正直に答えました。 「怖いよ」 ルールーの答えに、黒い影は少しムスッとしたようでした。けれどルールーは明るい声で続けました。 「さあ、足を出して。痛いところを治したら、きっと楽しく笑えるようになるよ。そうしたら、怖くなくなる」 にっこり笑ったルールーに、黒い影は大人しく足を出しました。足首は切り取られているわけではなく、本当にはさみで切られてしまったように、ざっくりと切れ目が入っているだけでした。 これなら縫えばきっと元に戻る。 縫えば……。 そこでルールーはしばらく迷いました。今、ルールーの持っている糸と言えば、この高価な黄金の糸しかないのです。針はいつもズボンのポケットに刺してあります。 迷いはありましたけれど、結局ルールーは、高価な糸を使って黒い影の足をチクチクと縫い始めました。 痛いのか、痛くないのか、黒い影は足をルールーに預けたまま、じっとしています。 ようやく足首をグルリと一周縫い終わって、ルールーが歯で糸を切ると、黒い影はその足を大地につけました。しっかりと、どっしりと。 すると。 見る見るうちに黒い影が姿を変えていきます。 あっと驚いたルールーが、地面に尻もちをついたとき―― * ふと気付くと、ルールーは小さな机に突っ伏して眠ってしまっていたようでした。いつの間にか窓の外は白く、夜が明けていくところでした。 「なんだ、夢だったのか」 それにしてもおかしな夢だったと、ルールーが針仕事に戻ろうとすると……。 ないのです。ルールーは必死で机の上を探しました。机の上だけでなく、机の下も、床も、狭い部屋の隅々まで探しました。 けれど、ないのです。 「なんで? どうして? あれは夢だったんじゃないの?」 ルールーは落ち着きを失って、何度も顔を手で覆いました。 あの高価な黄金の糸が、どこを探してもないのです。それに、ルールーの赤いチョッキも。 チョッキはともかく、あの黄金の糸がないと大変なことになります。何より、ベールを完成させることができません。それどころか、黄金の糸を盗んだと思われてしまいます。 ルールーは絶望的な気持ちになって、じっと椅子に座っていました。 夕方になって、ルールーの部屋のドアを叩く音がしました。ルールーはびくりと肩を震わせて立ち上がりました。 今夜なのです。 ベールを完成させる期限が。 ルールーがドアを開けると、はたしてそこにはお金持ちの家の執事が立っていました。陰険そうな丸い金色の眼鏡を光らせて、ルールーを見下ろしてきます。 「さあ、ベールを渡してもらおうか」 ルールーは涙をこらえて、信じてもらえるとは思えませんでしたが、昨夜のことを一部始終話して聞かせました。 黙って話を聞いていた執事は、ルールーが喋り終わった途端、ルールーの首根っこをつかんで部屋から引きずり出しました。 「この盗人め! 誰がそんな話を信じるものか!」 執事はルールーを警察署まで引きずって行ったのです。そこでもルールーは正直に昨夜の出来事を話しましたが、警察の人も信じてくれませんでした。 そしてとうとうルールーは、黄金の糸を盗んだ罪で牢屋に入れられてしまいました。 とても寒い夜のことでした。ルールーは赤いチョッキもなく、シャツ1枚でブルブルと震えていました。牢屋には窓ガラスがなく、ぽっかりと開いた小さな四角い穴からヒュウヒュウと風が吹き込んできます。 ルールーは冷たい風に頬も鼻も指先も真っ赤にさせて、寒さに耐えていました。 どのくらいの時間が経った頃でしょうか。 牢屋の鉄格子の向こうが急に騒がしくなりました。何かを言い争うような声、怒鳴りつけるような声。けたたましく床を踏み鳴らす靴の音。 ルールーが何事かと鉄格子に近付くと、栗色の髪の背の高い男の人がルールーの前に立ちました。 「ああ、何てことだ!」 その栗色の髪の背の高い男の人は、ルールーの顔を見て叫びました。 「すぐにこの子をここから出しなさい」 「その子は盗人なんですよ。出すわけにはいかないのです」 警察署の署長さんが、立派なヒゲを撫でながら言いました。けれど、その栗色の髪の男の人はまったく怯みませんでした。 「すぐに出さないと……、どうなるか知らないんだぞ」 その一言に、ルールーはハッとしました。栗色の髪の背の高い男の人も、ルールーにウインクをしてきました。 「この子はポレミック家の恩人です。この子を牢屋に閉じ込めるなんて、とんでもないことです。ひどいことです。もしこのままであれば、ポレミック家はこのたびの婚礼を取りやめることも辞さないと、当主から言い付かっておりますが?」 その言葉に、警察署の署長は顔を青くしてルールーを解放しました。 牢屋から解放されたルールーは、栗色の髪の背の高い男の人から事の顛末を聞いたのです。 この栗色の髪の背の高い男の人はポレミック家の従僕でした。ルールーの住んでいる街で1番のお金持ちのお嬢さんと結婚する人が、ポレミック家の子息なのです。 結婚式を控え、少し早めに街を目指していたポレミック家の子息とその従僕は、あの深い森で迷ってしまいました。そして不運なことに、悪い魔女につかまって魔法をかけられてしまったのです。 従僕はクマに。子息は奇妙な黒い影に。 何とか魔女に魔法を解かせようと、子息が戦いを挑みましたが、魔女に足を切られてしまいました。 どうしても魔法は解けず、日は過ぎていくばかりでした。 足を切られた子息は、せめてこの姿を誰にも見られずにひっそりと暮らすしかないと、従僕に見張りをさせて沈み込むばかり。 そんなとき、ルールーが現れたのです。 あの黄金の糸には、高い山にひっそりと生えている不思議な金色の花の汁がたっぷりと使われていました。その金色の花が、魔法を解くための薬草だったのです。 「礼を言うためにきみの家を訪ねたら、警察に捕まったと聞いて慌てたよ」 まるでクマのように背の高い男の人が、肩をすくめて言いました。男の人はルールーをとても立派な車に乗せて、どこかへ向かっているようでした。 「でも、どうして僕のことがすぐに分かったんですか?」 ルールーが不思議に思って聞くと、背の高い男の人は少し笑って答えました。 「男の子のお針子さんなんて、他にいないからね」 ルールーの見事な針さばきを見て、ポレミック家の子息は、きっとルールーはお針子だろうとピンときたのです。そして、街に来て男の子のお針子を捜し、ルールーに行き着いたのでした。 そうこうしているうちに、車がゆっくりと停まりました。 そこはとても大きな別荘のようでした。ルールーを車から降ろすと、背の高い男の人がルールーを玄関ポーチに促しました。 そこにはひとりの男の人が立っていました。黒い髪が印象的な、スラリとした人でした。 その人はルールーが目の前に来ると、そっと黄金の糸を差し出しました。ルールーが黄金の糸を受け取ると、ちょっぴりすまなそうな顔をして言いました。 「明日の婚礼までに、間に合うかな」 そして背の高い男の人、ポレミック家の従僕が、縫いかけのベールを持ってきました。ルールーに、ベールの続きをやってほしいということです。 ルールーは自信満々に頷きました。 「絶対に間に合わせてみせます」 その言葉を聞いて、ポレミック家の子息は静かに笑って頷きました。 「きみの腕は、身をもって承知している」 子息がズボンを上にたくしあげると、黄金の糸で縫った痕が表れました。それは本当に見事で、まるで純金のアンクレットをしているように美しい縫い目でした。 「どうだ、当家の専属として働いてみないか?」 ポレミック家の子息は、とても楽しそうにルールーに笑いかけてきました。ルールーも笑いました。 「ああ、やっぱり」 「何が"やっぱり"だ?」 ポレミック家の子息の問いに、ルールーは笑って首を振りました。ルールーは心の中でそっと、やっぱり痛いところを治したら、楽しそうに笑えるようになってる、と呟きました。 それからルールーは急いでベールの刺繍を完成させ、結婚式は大成功のうちに幕を閉じたのでした。 |
| 刺繍は針と糸で作り出される魔法です。 その魔法は人に笑顔を与え、 人に幸せを与えるのです。 (2006.10.01) |
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