クゥクゥは地面に近いところを、常に鼻を引っ張られているようにズンズン進んでいく。首に食い込む首輪も何のその、まるで目の前に、会いたくて会いたくてたまらなかった恋人でもいるような勢いだ。 「そんなに急ぐなよ」 僕の言葉に、クゥクゥは少し耳を動かして僕を見上げ、しかし再び前方にジャンプでもするような勢いで歩き出した。 冬の冷えた空気が、クゥクゥの鼻先で白い煙のようになって舞っている。 午前9時。まだ商店街はシャッターの下りたところの方が多くて、家々からは掃除機の音や洗濯機の音がもれてくる。 朝の少し落ち着いた時間。 それがクゥクゥの朝の散歩の時間だった。 「クゥクゥ、こら、引っ張るな」 家を出たばかりなのにこんなハイペースだと、散歩を終える頃にはヘトヘトに疲れてしまいそうだ。 と思って、僕が少し強く言うと、クゥクゥのやつ、今度は振り向きもしなかった。 言葉は聞こえたようだけれど、構うものかと思ったのか、理解ができなかったのか、僕にはどうも前者のように思えてしようがなかった。 銀色がかった冬独特の太陽の光が、クゥクゥの白と茶色のぶち模様を照らしている。柔らかそうな毛は、実は撫でるとそうでもなくて少しゴワゴワしているくらいなのだけれど、1本1本が太陽の光を吸い込んで光っているように見えた。 クゥクゥは雑種だったけれど、毛並みはとても美しくて、撫でてやるといつも太陽のにおいがした。 「おーい、そんなに急がなくたっていいだろ」 クゥクゥの爪がアスファルトを引っかく時の、シャカッというのかチャカッというのか、そういう急き立てるような音を聞きながら僕は言った。 クゥクゥは僕を引きずってあちこち連れ回すことこそ自分の使命だと思っているのか、僕の歩調に合わせようなんて気持ちは微塵も見えなかった。 僕ももうそれに慣れて、引っ張られたり引っ張ったりしながら、クゥクゥとの散歩を続けている。 3年間、1日も休むことなく。 そしてそれは信号機のない小さな横断歩道の前に差しかかった時だった。 クゥクゥが電信柱に鼻をくっ付けて、いつもより念入りにそこのにおいを嗅いでいる。行くよ、と言ってリードを引っ張っても、四つの足で踏ん張って動かない。 「なに、新参者のにおいでもするのか?」 いつもなら、この横断歩道の手前を左に折れて公園の方へと突っ走るように進むクゥクゥだったけれど、今日はその電信柱のにおいが気になって仕方がないようだった。 このあたりは最近になって開発された新しい地区だった。 新築だと一目で分かる住宅やマンションに、どこかから響いてくる工事の電動ドリルの音が、以前にはなかったもの。僕が小さかった頃、この辺り一帯はほとんど畑だった。 執拗ににおいを嗅ぐクゥクゥに付き合って、僕はボンヤリと辺りを見回した。 そのとき、ふと、あるマンションに目が行った。そのマンションがちょうど横断歩道の真ん前にあったせいかもしれない。 それほど規模の大きくないマンション。むろんまだ新しくて、外壁は鏡で出来ているようにピカピカ光ってみえる。 その5階建てのマンションの最上階のベランダに、何かが見えた。 ピョコンと、手すりから顔を出しているもの。 蜂蜜色の、大きなクマのぬいぐるみだった。 それがまるで、子供がベランダから顔を覗かせているように見えて、僕は思わずしげしげと眺めた。ベランダに椅子を置いて、その上にクマのぬいぐるみを乗せているようだった。 若い女の人でも住んでいるのかな。 そんなことを思いながら、ようやく鼻を電信柱から引き剥がしたクゥクゥに引っ張られて、僕は公園へと足を向けた。 * それから僕はクゥクゥと散歩に行くたびに、マンションのベランダへと視線を向けるようになった。クマのぬいぐるみは、いつもベランダで日向ぼっこをしている。 僕はそのクマのぬいぐるみの持ち主に、少し興味を覚えていた。毎日のように、ぬいぐるみに日向ぼっこをさせる人。きっと几帳面な人に違いない。 一方クゥクゥは、あんなに気にしていた電信柱のにおいを、まるで気にしなくなっていた。 ちょうどその日の夕方の散歩の時に、あの電信柱のところに犬を抱いた人が立っていた。おそらくその犬のにおいだったのだろう。丸い目が印象的なポメラニアンだった。飼い主は初老の女の人。 目が合ったので、こんばんは、と僕が声をかけると、その初老の女の人はまるで宝物でも貰ったように顔を輝かせて挨拶を返してきた。 きっとここの土地に新しく引っ越してきた人で、まだ声をかけあう知人もいないのだろうと思った。 僕はちょっと善いことをしたような気分になって、くすぐったいような嬉しいような気持ちで、もう一言くらい何か喋ってみようと思った。 けれど急ぐクゥクゥにとってはその少しの遅れさえ恨めしかったのか、ワンと意地悪くポメラニアンに吠えかかって、女の人の腕の中にいたポメラニアンを慌てさせた。抱えていた犬が急に暴れ出して、女の人はまるでお手玉を転がすように手を上下させていた。 僕は「すみません」と言いながら公園の方へと足を向けた。 そのすぐあとで、駄目だろ、とクゥクゥを叱ったけれど、クゥクゥはまたいつもの聞こえないフリをして尻尾を揺らしただけだった。 * 僕が最初にクマのぬいぐるみを見つけて、何日目のことだったろう。よく晴れた小春日和の日。今日はあのベランダに人の姿があった。 クマのぬいぐるみが置かれているところの、反対側、ベランダの端っこに置かれている植木に水をやっている。 僕は驚いて目をこらした。それほど距離が離れているわけでもないのに、僕は目を凝らして何度も瞬きをしてしまった。 なんと、ベランダで植木に水をやっていたのは、真っ白い髪をしたおじいさんだったのだ。 片手を腰に当てて、もう一方で小さなジョウロを動かしている。その光景には別段変わったところもなく普通だった。普通だったのだけれど。 僕はクゥクゥが引っ張っているのも構わず、おじいさんとクマのぬいぐるみの間で、視線を何度も動かした。 あのおじいさんがクマのぬいぐるみの持ち主なのだろうか。 ちょっと意外だった。てっきり若い女の人のものか、子供のいる家庭のものなんだろうと思っていたから。 おじいさんとクマのぬいぐるみ。そのちぐはぐな印象が、僕をその場から去りがたくさせていた。不意に、この間会った初老の女の人を思い出した。 いつからだろう。 犬を抱いている初老の人がよく目に付くようになったのは……。 新しく開発された地区、ピカピカのマンションや住宅、ひとりで犬を抱いて立っていた初老の女の人、クマのぬぐるみに日向ぼっこをさせるおじいさん。 そこに何か、あるような気がした。 ワンとクゥクゥに恨みがましく吠えられて、僕は何度もマンションのベランダを振り返りつつ、いつもの公園へと向った。 * クゥクゥとの散歩はもちろん、日曜日も休まず行われる。 けれど今日は僕が寝坊してしまって、散歩に出たのが10時近い時間になってしまっていた。 「ごめん、ごめんってば、クゥクゥ」 クゥクゥは僕の寝坊を咎めるように、いつも以上に急いで歩く。鼻先を舞う白い息も、今日はいつもより多く感じた。その様子を後ろから見ていると、まるで頭から湯気を立てて怒っているように見えた。 クゥクゥの爪がアスファルトを引っかく音が、いつものポップス調ではなく、ロック系の激しいビートになっていた。もうほとんど小走りにも近かった。 僕はクゥクゥに引っ張られながら、いつもだったら引っ張り返すところを、黙ってついていくことにした。 そしていつもの横断歩道にさしかかって、またいつものように僕がマンションのベランダに目を向けた時だった。 「あれ?」 あのクマのぬいぐるみがなかった。 僕は空を見上げて、青く澄んで晴れ渡っていることを確認すると、もう一度ベランダに目をむけた。やっぱりクマのぬいぐるみはそこになかった。 あんなにいつも、毎日のように日向ぼっこをさせていたのに。 おじいさん、風邪でも引いたのかな。 少し気にはなったけれど、クゥクゥの機嫌をこれ以上損ねたくなくて、僕はそこに立ち止まることなく公園へと向った。 公園は色んな人で賑わっていた。ジョギングをしたりウォーキングをしたりする人や、風景をスケッチする人、そしてそれを覗き込む恋人たち。 僕は公園の中で、ベンチに座るあのおじいさんを見つけた。あのおじいさんとは、あのベランダにいたおじいさん。クマのぬいぐるみの持ち主のおじいさんのことだ。 おじいさんはベンチに座り、その隣には髪の長い女の人が座っていた。おじいさんは微笑んで何かを見ていた。 何だろうとおじいさんの視線をたどれば、孫だろうか、5歳くらいの女の子がおじいさんに向って何かを一生懸命言っている。その腕の中には、あの大きなクマのぬいぐるみが、落っこちそうになりながら抱えられていた。 僕はクゥクゥに引っ張られながら、おじいさんとその女の子の近くを通った。その時、たった一言だったけれど、女の子の声を聞き取れた。 「わあ、この子、お日様のにおいがするね」 そのたった一言で、僕は思わず笑顔になった。振り返ってみたら、女の子も笑っていた。クマのぬいぐるみを抱えて、本当に嬉しそうに。 それを見ているおじいさんは、もっと嬉しそうな顔で笑っていた。 僕は前を歩くクゥクゥに目をやった。 まるで誰かに鼻を引っ張られているように、ズンズンと鼻から先へと進むクゥクゥ。白と茶色のぶち、くるんと丸まった尻尾。 公園を出て、町内を1周すると散歩は終る。 やがてクゥクゥの犬小屋が見えてきた。小さな庭の、もっとも日当たりの良い場所にそれはある。緑色に塗られた屋根。 その犬小屋の前に、おばさんが立っていた。 「おかえり、勇次くん。今日もご苦労さま」 僕はおばさんにクゥクゥのリードを渡しながら言う。 「今日は少し小走りになってね、きついかなと思ったけど、大丈夫だったよ」 クゥクゥを犬小屋につなぎながら、人の良いおばさんは「まあ」なんて声を出した。 「まあ、それじゃあもうすぐ大学にも戻れるわね」 おばさんは、僕がどんな報告をしてもそれを言う。 僕は3年前の冬、バイクに乗っていて事故に遭った。医者からはもう歩けないだろうと宣告されていた。 つらいリハビリを支えてくれたのは、僕の家の、隣の家で飼われているクゥクゥだった。 歩けないと宣告されていたものの、病院でのリハビリの甲斐もあって、僕は何とかゆっくりと歩けるようになった。それでもやっぱり元通りというわけにはいかなくて……。 落ち込んでいる僕に、おばさんが一緒にクゥクゥの散歩に行かないかと声をかけてくれた。気分転換になるかなと思って、僕は足を引きずりながらもついていった。 最初は半分も行かない内に脱落した。その次の日はもう少し頑張れた。そして少しずつ少しずつ、クゥクゥと一緒に散歩する距離を伸ばしていった。 そしてずいぶん歩けるようになってからは、僕とクゥクゥだけで散歩に出るようになった。 僕にさぼることを許さず、僕を引っ張ってでも前へ前へと力強く進んでいく。クゥクゥのその姿に、僕は本当に励まされてきた。 僕は今日も感謝を込めて、クゥクゥの頭を撫でてやった。 散歩のときは僕の声を無視してばかりいるクゥクゥも、散歩を終えた今は、少し甘えるような声で「クゥン」と鳴く。 その声がまるでお疲れ様とでも言っているようで、僕はいつも嬉しさのあまり泣き出しそうになるのだ。 その照れ隠しのため、僕はますますクゥクゥを強く撫でる。片手だけじゃなく、両手で。 クゥクゥからは、いつも優しい太陽のにおいがした。
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| plane さんからのリクエストは 「動物が出てくるハッピーエンドのお話」でした。 planeさん、6000番、おめでとうございました! 太陽のにおいって、どこかホッとしますよね。 胸があたたかくなるというか。 冬のように厳しい季節のときには特に、 そのにおいが宝物のように感じます。 (2005.11.28) |
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