子どもの頃、誰が始めたのか、なんとも不思議な遊びが流行った。 ぼくがまだ子どもの頃は、住んでいた街にも緑があふれ、ちょうど不景気の真っ只中だったせいか、造成されたまま放置されている土地もかなりあった。 そういう土地には雑草が、まるで緑の島をつくるように、ポツリポツリと寄り集まって生えていた。それは子どもの目線からでも、本当に内海の小さな島々のように一種独特の立体感を持っていた。 ぼくたちは、そこで、午後の日差しを浴びながらある遊びに興じた。 * 「祐吾、あれ持ってきたか?」 近所に住むタッくんに言われて、ぼくはへへへーと鼻をこすって笑った。もう片方の手は身体の後ろに回していたのだけれど、タッくんの急かすような視線をうけて、サッと前に持ってきた。 ずんぐりと丸いぼくの手に、真っ白いコーヒーカップが握られている。 それを見たタッくんは、でかしたというようにぼくに笑ってみせて、顔を四方八方に向けてキョロキョロさせた。 ぼくたちがいるのは、近所にある小さな空地。大人からはここに入ってはいけません、と言われるような場所だった。そういうようなことの書いてある看板も、道路に面したところには立っているみたいだった。 だけど、それ以外にぼくたちの足を止めるものはなかった。たとえば、柵とか手を引っかけたら血の出る針金のやつとかは。 それでぼくたちは、ここで小学校から帰ってから晩ごはんまでの大切な時間を過ごすことができた。 「まずはあれをやってみようぜ」 顔をキョロキョロさせていたタッくんが、緑の島の遊園地みたいになっている濃いピンク色の花を指差した。その色はとても目立っていた。 ぼくは歩き出したタッくんの後ろについていきながら、急に胸の中にモクモクと入道雲のように盛り上がってきた不安を口にしていた。 「でも本当なのかな」 「本当だって。おれ、見たことあるもん」 タッくんは本当じゃないことを言うとき、ほんの少しだけアゴを反らす。今も少しだけアゴを上にあげてそう言った。 「ふぅん、じゃあ、どんなのが見えたわけ?」 ぼくは少し意地悪くタッくんに聞いた。いつもぼくのことを子分のように扱うタッくんへ、ほんのちょっとの仕返しだ。 タッくんは決して日差しのせいじゃない、何か内側から炎を吹いたみたいに、カッと顔を赤くさせてぼくを睨んできた。唇がとんがる。 「お前が見る前に、おれがどんなのだったか言ったら、お前の楽しみが減るじゃん」 ちょっと飛び出しているようにも見えるグリグリまん丸のタッくんの目が、顔と同じように赤くなっていた。だからぼくはそれ以上何も言わず、タッくんの指差した濃いピンク色の花をみた。 なんていう名前の花なのかは知らなかった。小さな花だった。 タッくんはそれを乱暴に、茎の途中から折ると、ぼくの持ってきたコーヒーカップの中に入れた。そうして、そっと地面にひっくり返して置く。 それからゆっくりと、さっき茎を折った時とはまるで違う、優しい手つきでコーヒーカップのお尻をなで始めた。そのとき、これを言わなきゃいけないんだと、タッくんが変な呪文を唱えた。 「えーぼーしー、えーぼーしー、花のえぼしはまっくろけっけ」 その呪文を聞いて、ぼくの持ってきたコーヒーカップの白さに思わず吹き出しそうになってしまった。まっくろけっけ、なんて言いながら、日差しを浴びたぼくのコーヒーカップは、海を行く白いヨットのように眩しかった。 吹き出すのをこらえているぼくを見て、タッくんは怒った顔をした。不真面目すぎるって、学校の先生がぼくたちを叱ってくる時と同じ顔だった。 「ごめん、まじめにするって」 ぼくはタッくんの横に座り込んで、地面から不自然に盛り上がったコーヒーカップを見下ろした。それは本当に不自然だった。内海に突如として出現したお化けクラゲ、もしくは内海まで流されてきた東京ドームみたいだった。 そんな東京ドームみたいにプカリと地面に浮き上がっているコーヒーカップを、タッくんはとっても真面目な顔で見つめていた。 「もういいかな」 「いいんじゃないの?」 「まだ早いかな」 「さあ、ぼくには分からないよ」 タッくんはコーヒーカップを前に、ちょっとびびっているみたいだった。 それもそのはず。 この遊びを教えてくれた時のタッくんの言葉を思い出す。 『花をコーヒーカップの中に入れて、呪文を唱えて少し待つだろ。それから、地面からほんの少しだけカップを持ち上げて中を覗くと、うまくいけば、花の精が見えるらしい』 タッくんは“うまくいけば”という言葉を大きな声で言って強調した。だからぼくはその流れに乗って、『うまくいかなかったら?』なんて聞き返した。 するとタッくんは、まるで怪談話でもするみたいに、わざと小さな声を震わせて言った。 『たいていは何も見えないだけ。でも悪くすると、そこから黒い手が伸びてきて、覗こうとしたやつの目玉を取っていくんだって』 普段だったら、バカみたいって笑うだけだと思う。でもその時のタッくんの顔があんまりにも真剣だったから、ぼくは試したくなった。心の中のほとんどは、そんなの信じられないと言っていたけれど、ほんのちょっとの部分が、もし本当だったら面白いなと言っていた。 「じゃあ、カップを上げるぞ」 タッくんに言われてぼくはハッとなった。タッくんはもう地面スレスレにまでほっぺたを近づけている。ぼくもタッくんを見習って、地面に顔を近づけた。 真っ白いコーヒーカップは、こうやって目線を同じにすると、真夏なのに溶けない雪を背負った大きな山みたいだった。 「いいか、本当に上げるからな」 タッくんがぼくの顔を見て、それから、指先にささくれのできた手でゆっくりゆっくり、そっとカップを上げた。 最初は何も見えなかった。地面とカップの縁のほんのわずかな隙間からは、黒い空間が見えるだけ。中にある花すらも見えない。 それでタッくんが、もうちょっとだけカップを傾けた。 ぼくはきっと、その瞬間のことを忘れないだろうと思った。その時の草のにおい。花のものなのか分からない甘い香り。顔の片側は日差しを浴びてヒリヒリするみたいに暑くて、顔の片側は細かく砕けた石ころたちに突付かれ、舌はまるで乾いた粘土みたいに固くなって、埃っぽくて、すぐに声を出すこともできなかった。 カップの中に一瞬だけ、本当に一瞬だけ、どこか淋しそうに笑う女の子が見えた。 ぼくとタッくんはすぐに上半身を起こして、それから意味もなくお互いの肩や腕やおなかのあたりを叩いたり、くすぐったり、とにかく一言も喋らずに、どこかちょっと乱暴に、お互いの存在を確かめ合った。 「見たか?」 「見た!」 ぼくたちは興奮していた。とてもとても。 たった今、自分たちの目にしたもの、その一瞬の与えてくれた興奮をまた体験したくて、ぼくたちは次の花を選んだ。 次はだめだった。何も見えなかった。その次は見えた。 そうやって何度も何度も、その遊びを繰り返した。その間、黒い手が現れることはなかった。 夕暮れも近くなって、ぼくは空地の隅にポツンと咲いている花を見つけた。それはところどころ黒くなっている花だった。よく見ると、葉っぱもところどころ黒くなっている。 「あー、それ、病気になってるやつだ」 タッくんはコーヒーカップの遊びに飽きて、ぼくの方をチラリと見ただけでそう言った。ちょうど空地の前の道を、同じクラスの女子が通りかかったものだから、何か話している。 その子は、たぶん、タッくんの片思い相手。学校にいる間、タッくんはしょっちゅうその子のことを見ている。 女の子と話すのが苦手なぼくは、楽しそうに笑っているタッくんとその子に背を向けて、コーヒーカップの中に、病気になった花を入れた。 どうしてそんなことをしようと思ったのか。 ただなんとなく、その子がどこかに行くまでの時間つぶしをしようと思ったのか。 とにかくぼくは、コーヒーカップの中に病気になった花を入れた。黒い斑点が不気味な、小さな白い花だった。 そしてぼくは手順を守って呪文を唱えると、コーヒーカップの中を覗いた。 その一瞬は、また違う意味でぼくの記憶に残り続けるだろうと思った。陽は傾いて、カップの縁から伸びる影もずっとずっと長くなっていた。空地はカップの中と同じくらい、薄暗い。 ぼくは息を止めていた。 カップの中に現れたのは、ガリガリにやせた骨と皮だけの女の子だった。だけど、その女の子はぼくに向かって、にっこりと、なにか開放されたような、これで安心して眠れるという風な、嬉しそうな笑顔を向けてきた。 急にぼくは、胸を掴まれたように思った。 今まで見た花の精たちは、笑ってはいたけれど、それはどれも淋しそうな悲しそうな笑顔だった。見た目の華やかさとは違う、湿った笑顔だった。 不意にぼくは気づいた。 ぼくたちは花の精を見るために、今日、どれだけの花を折っただろう。どれだけの花の精が消えていっただろう。 やせた女の子が嬉しそうな顔をしたのは、これで楽になれると思ったせいなのだろうか。 「おーい、祐吾、帰ろうぜ」 タッくんが空地の外から呼んでいる。隣にはさっきの女子が立っている。ぼくはコーヒーカップを地面に置いたまま、ノロノロとタッくんたちの方に歩いていった。 黒い手なんて現れなかったのに、そこにはまるで、黒い手で締め上げられたみたいなぼくがいた。 * それから十年とちょっと。 タッくんは中学を卒業するとすぐに、知り合いの建設会社で働き始めた。小学校を卒業してからぼくたちは、ほとんど話すことがなくなっていた。 でも最近、タッくんが連絡をくれた。とても久しぶりに。 「あの空地にさ、今度うちの会社が家を建てるんだよ」 その前にちょっと、あの空地で思い出話でもしようぜというのが、タッくんからの電話の趣旨だった。 その時にもらった電話で、タッくんが面白いことを話していた。 「俺さ、昔、めちゃめちゃ虚言癖あっただろ。俺の家、貧乏で、親がまさに貧乏暇なし状態でさ、ほとんど家にいなかった。働き詰めでさ。構ってほしかったんかなー。それで嘘ついていたのかもしれないって思った、つい最近」 タッくんが急に何を言い出したのか、ぼくはしばらく状況を把握できないでいた。 そんなぼくに構うことなく、タッくんは続ける。 「俺の家、コーヒーカップすらない家でさ、お前に親分風ふかしてカップ持って来いって言ったの、覚えてるか? あの空地で、ほら、変な遊びをやったじゃん」 うん、と発声されたぼくの言葉は、それ以上のものをたくさん含んでいた。懐かしい。そんなこともあったね。花のえぼし、まっくろけっけ、だったっけ。 それと、美しくて儚い花の妖精。 「それでさー、小学校の卒業文集があるだろ、あれにお前がさ、将来の夢は花のお医者さんとか書いてて、男子連中からめちゃめちゃからかわれたの、覚えてるか?」 覚えていた、とは言えなかった。タッくんから言われて思い出したようなものだった。覚えてはいなかったけれど、ぼくにそう書かせたものは、あの時に見た、病気になった花の精の笑顔だったと思う。 それについての話が続くのかと思ったら、タッくんは意外なことを言い出した。 「俺はあの頃からこんなんで、俺の嘘を誰もとがめなかった。祐吾だけだったよな、俺の嘘に真正面からそんなの嘘じゃんって態度を取ってたの。覚えてるか?」 今度は、覚えていると言えなかった。そのことは覚えていた。タッくんがよく嘘をついていたことは。でも、自分の態度がそんなものだったとは思ってもいなかった。 タッくんは電話の向こうで笑っている。 「俺さ、未だにたまに嘘つくんだけど、そのたんびにあの空地を思い出すんだ。あの時、もしお前が一緒じゃなかったら、あの妖精を見ても信じられなかったかもしれない。俺は自分の目にも嘘つきフィルターをかけたんじゃないかって、自分で自分を疑ってしまっていたかもしれない。でもあのとき、あの瞬間、俺の嘘を許さないお前がいたから、あれは本当だったんだなって思える。馬鹿みたいだろ。まぁ馬鹿なんだけどさ」 柄にもないことを言ったと笑っているタッくんに、ぼくは当時を思い出して言ってみた。 「ねえ、タッくん。あのとき、空地にぼくを誘ったのは、コーヒーカップがなかったからじゃなくって、本当はひとりで見るのが怖かったからじゃないの?」 しばらく間が空いてから、タッくんは言った。 「そんなわけないだろ」 どこか声が遠く、送話口から唇が離れてしまうほど、アゴが反り返ってしまったのかなと想像させるような声だった。 昔と同じだ。 ぼくが吹き出すと、タッくんもたまらなくなったのか吹き出した。久しぶりに思い切り笑ったような気がした。 それからしばらく世間話をして、空地で会う約束をしてから電話を切った。 今、ぼくの前には一枚の用紙が置かれている。提出予定は迫ってきているのに、空欄になったままの用紙。一番上には進路希望調査書と書かれている。 新しい学年になって、ついでのように大学受験を控えて、ぼくは自分の進路に迷っていた。こんな紙切れ一枚に、自分の将来をどんな風に描いてみせればいいのか分からなかった。 だけど今は―― ぼくはシャープペンシルを動かして、第一志望のところにこう書いた。思わず声に出して読んでみる。 「花のお医者さん」 笑い出しそうになったけれど、ぼくはそれを我慢した。今は笑わずに、これをタッくんに見せようと思った。 あの懐かしい空地で。 その時に思いっきり笑おうと思った。
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| 箔斗さんからのリクエストは 「色黒い話」でした。 箔斗さん、16961番、おめでとうございました! えぼし(烏帽子)は、元服した男の子のかぶる 黒い色の袋形のかぶりものだそうです。 大人になる儀式として、武家では 烏帽子をいただいていたみたいですね。 子どもから大人へと変わる瞬間、 そんな意味を込めて。 (2007.05.16) |
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