子供の頃、なりたかった職業はなんですか? 柚子(ゆずこ)は、アルバイトで入ったケーキ屋のウィンドウを覗き込み、目の前の木苺のタルトに目を据えた。ケーキを挟む巨大なピンセットのようなトングの扱いにもずいぶん慣れてきて、今はケーキを潰すことなくトレーに載せられるようになった。 「こちらでよろしいでしょうか?」 柚子の声に、客である中年女性はニッコリ頷いた。 「ええ、それとね……」 まだ買うようだ。木苺のタルトで、もう8個目になる。 柚子は客の視線を追っていきながら、次にどれを選ぶのか頭の中で予想していた。夏はさっぱりしたゼリー寄せのケーキが売れ筋で、それと同じようにツルリと喉に入っていくプリンやブリュレも人気だった。 「このブリュレを2つ。以上で、おいくらかしら」 「はい、ありがとうございます」 柚子は素早くブリュレを2つトレーに載せると、手早く箱に詰めた。会計の合間に、保冷剤は必要かどうか尋ね、三角帽子をかぶった妖精の絵のついた箱を客に手渡す。 「どうもありがとうございましたー!」 ケーキの並んだウィンドウの中から声を出すと、客はふっくらした頬を緩めて店を出ていった。 大学を卒業して、首都でOLをやっていた柚子は、人事にかかわる人間関係のゴタゴタに疲れて、幼少時代を過ごした地元に戻ってきていた。 戻ってきた当初は、柚子もケーキ屋でアルバイトをしようなんて考えてもいなかった。小さな会社で事務でもやればいいや、なんて考えていた。ところが、首都と違って柚子の育った小さな町では仕事がなかった。求人誌すら売っていなかった。 それでもどうにかこうにか面接に漕ぎ着けたとして、横から社長の知り合いの娘だとか、専務の親戚の知り合いだとかが割り込んできて、なかなか採用してもらえない。 首都で積んできた経験もキャリアも、この町ではまったく役に立たなかった。 柚子がこの町で過ごしたのは小学校に上がるまでのことだった。幼稚園の卒園式の次の日、親の仕事の都合で引越しをすることになったのだ。それから柚子が大学生のとき、両親はまたこの町に転居することになり、それ以来、両親だけはこの町に住んでいた。 けれど、ずっとこの町に住んでいたわけでもない柚子一家には、頼れるツテがまるでなかった。両親が自分たちの人脈のなさを嘆き、柚子が首都を離れたことを激しく後悔し始めた頃だった。 偶然、ケーキ屋の前を通りがかったとき、店員募集の広告を見て柚子はフラリとケーキ屋に足を踏み入れた。もう働けるならなんでもいい、という心境だった。 なんでもいい、という気持ちだったはずが、柚子は案外この仕事が好きになっていた。 ケーキを買っていく人たちの笑顔が、やわらかいホイップクリームのような喜びを柚子に与えてくれた。 それと、もうひとつ。 「クリームブルレ、ふたつくださーい」 夏に咲くひまわりのような元気な声に、柚子はいつも以上の笑みを浮かべた。毎週土曜日になると現れる常連さん。――と言っても、10歳くらいの男の子だ。 いつもその男の子は、名前を間違えて覚えているのか、クリームブリュレのことをクリーム"ブルレ"と言う。それも元気いっぱいに言うものだから、柚子は敢えて訂正しようとは思わなかった。 男の子はいつもお釣りの出ないようにぴったりの金額を柚子に渡す。それも、男の子の身長とほぼ同じ高さのウィンドウから、手を柚子の方にめいっぱい伸ばして。 その様子に、柚子はいつも笑顔になるのだ。 「はい、どうぞ」 柚子が小さな箱を男の子に渡すと、男の子は満面の笑みでありがとうと笑った。いつもはこれだけのことだが、柚子はふと思い立って、男の子に話しかけてみた。 「お母さんと食べるの?」 柚子に話しかけられて、男の子は大きくて丸い目を一度だけパチリと瞬き、ううんと首を横に振った。 「じゃあ、妹さんがいるの?」 その柚子の質問にも、男の子は首を横に振った。まさかひとりでふたつも食べてしまうのかと柚子が考えたとき。 「お父さんと食べるんだよ」 男の子が元気いっぱいに答えた。 甘いものは子どもと女の人のもの、という偏った認識を持っていた柚子は、その答えに意外なものを感じながら笑みを浮かべた。 「そうなの、良かったわね」 「うん。ぼく、お父さん、今でも大好き」 それだけ言って、じゃあね、なんて柚子に手を振って店を出ていく男の子。手を振り返して見送っていた柚子は、もう片方の手に握っていた小銭が10円多いことに気付いた。 「やだ。私ったら確認もしないで」 柚子は一瞬迷ったあと、店長に声をかけて男の子を追いかけることにした。ちょうど、もうすぐ柚子の休憩時間だった。 * 夏の日差しをまともに受けて、柚子は自分がオーブンに入り込んでしまったように思った。ミントの葉のような新緑、スライスされた果物のような道路標識、ホワイトチョコレートで線を引いたような横断歩道。 どれもこれも、オーブンで溶けていってしまいそうだった。 柚子は男の子が進んでいったと思われる方向を目指した。店の前は一本道で、しばらく小走りで行けば、男の子にすぐに追いつけると思われた。 ところが、どこまで行っても男の子に追いつけない。人っ子ひとり歩いていない一本道。柚子はこっちの方向じゃなかったのかと不安になってきた。キョロキョロと周囲を見回す。手には男の子から渡された10円玉を握り締めて。 そのとき。 道沿いにある一軒の家、柚子は柵を通り抜けようとしている男の子の姿を見つけた。 「あっ、おーい、ねえ、ぼく」 柚子は小走りになってその家に近付いた。男の子は柚子の声が聞こえなかったのか、さっさと中に入っていってしまう。 「ちょっと待って」 男の子の消えた家の前で、柚子は声を出した。その声が聞こえたのか、玄関のドアが開いた。柚子はホッと胸を撫で下ろしたが、出てきた相手を見て驚いた。 「あれ? 柚子、ちゃん?」 「れんくん……」 柚子が幼稚園の頃、よく一緒に遊んでいた手島蓮太郎がそこに立っていたのだ。 「やだ、久しぶり!」 「うん本当に。20年ぶり、だっけ? いつこっちに帰ってきたの」 「去年よ。両親は4年前からこっちにいるの」 「そうだったんだ」 手島蓮太郎は、ニコニコと笑って柚子を見下ろしている。幼稚園の頃からヒョロリと背が高くて、優しくて、女の子に人気があった。 柚子も密かに、蓮太郎に淡い恋心を抱いていた。思えば初恋だったかもしれない。 「それにしても奇遇だね。どこかに出かけるところだったの?」 蓮太郎に聞かれて、柚子はハッと我に返った。お父さんと食べるんだよ。男の子の声を思い出して、柚子の胸がチクンとした。 柚子も蓮太郎も26歳。もう結婚していても不思議ではない年齢だった。 沈んでしまう気持ちをなんとか奮い立たせて、柚子は明るい口調を装って言った。 「あのね、さっき息子さんがうちのお店にきて」 「息子?」 「そう、あの子、とっても元気ね。れんくんが子どもの頃はもっと大人しい感じだったけど。……奥さんに似たのかしら」 「え?」 蓮太郎は困惑したように柚子を見下ろしてくる。ばっちりと目があって、柚子は自分の胸がドキドキしていることに気付いて、うろたえた。汗が吹き出してくる。今さら初恋の相手を意識している自分に、柚子はいたたまれないほどの恥ずかしさを覚えた。 もうちょっと早くこの町に戻っていれば、と考えてしまったのだ。あんなに首都を離れたことを後悔していたというのに。 しばらくして、蓮太郎が落ち着いた声で言った。 「あの、息子とか奥さんってなんのこと? 僕はまだ独身なんだけど」 「えっ、でも、さっき……」 柚子は男の子の消えた玄関のドアを見詰めた。そう言えばさっき、玄関のドアは開いていただろうか。ドアの閉まる音は聞いただろうか。何度思い出そうとしても、柚子の頭の中はまるで粉砂糖をかけられたように何も思い出せなかった。 「ね、ちょっとこっちに来てくれる?」 蓮太郎は柚子の手を引いて、玄関ではなく庭の方に歩き出した。蓮太郎が柚子をつれてきたのは、可愛らしい花の咲いている花壇の前だった。 朝顔やヒメジヨンやゼラニューム、少し離れたところにはひまわりも咲いていた。 「きれいね」 柚子がそう言うと、蓮太郎は少し頷いてからひまわりの花の方へと歩き出した。柚子も後に従った。 「ここにね、犬小屋があったんだよ」 蓮太郎はポツリとそんなことを言った。 「中型のミックス(雑種)犬で、困ったことに甘いものが大好きだった。親がお客さんから貰ってきてさ、うちの商売のせいもあるのかもしれないけど、かわいい女の子も大好きで、散歩なんかに行くと、女の子のいるところに突進するからまいっちゃうんだよね。コラッと怒っても、まるで言うことをきかないし反省しないし」 笑みを浮かべていた蓮太郎は、次に一言だけ言って言葉を切った。 「今年の冬に、死んじゃったんだ、その犬」 柚子は、蓮太郎が急に始めたその話に戸惑った。どうして今、蓮太郎が犬の話を始めたのか、その真意がつかめなかった。 無言の時が流れた。 空に浮かぶ雲が1メートルも進んだ頃。 「それからなんだよね。何故か、よそのケーキ屋のブリュレがうちに届けられるようになったのって」 「え? どういう、こと?」 柚子は戸惑いを大きくして、隣に立つ蓮太郎を見上げた。蓮太郎の顔には再び笑顔が戻っていた。 「ねえ。柚子ちゃんって幼稚園の卒園アルバムに、将来ケーキ屋さんになるって書いていたけど」 蓮太郎は柚子の質問には答えず、そんなことを言い出した。大きく身体の向きを変えて、今は柚子と向き合うような格好になって。 「そ、そんなこと、書いていたかしら」 柚子は顔が火照ってくるのを感じた。蓮太郎に言われるまで、柚子はすっかり忘れていたけれど、思い出したのだ。蓮太郎の家がケーキ屋だったことを。れんくんのお嫁さんになると始終言っていた自分を。 柚子はオズオズと言葉を口にした。 「あの、れんくんの家って、まだ――」 「ケーキ屋だよ。今は僕が後を継いで、売り上げはそこそこかな。でも僕は内気なたちだから、あんまり接客には向いてなくって」 蓮太郎が恥ずかしそうに笑う。 柚子もつられて笑った。 「そうだ。せっかくだから、ふたりであのブリュレを食べようよ」 蓮太郎に言われて、柚子は思い出した。店を出てからずっと、男の子に貰った10円玉を握り締めていたのだ。 柚子が手を開いて見てみると、手のひらにベッタリと黒いものが付いていた。ギョッとして柚子が顔を近付けると、プンと甘い香り。 柚子の手のひらにはチョコレートがついていた。握っていたはずの10円玉は消えて……。 「それでレジのお金が合わなかったのね」 柚子はつい独り言を呟いた。最近、よくレジのお金が合わなくなるので、柚子はむきになって男の子を追いかけたのだ。お金が合わなくて、柚子が店長に疑われたりもした。 それでも怒る気にはなれなかった。 柚子は、先を歩く蓮太郎の隣に並んだ。 蓮太郎が微笑んで柚子を見下ろしてくる。 一陣の風が吹いてきて、花壇で咲いているひまわりが揺れた。サワサワと、葉っぱをこすらせながら。それがまるで明るい笑い声のように聞こえた。 蓮太郎がひまわりの方を振り返った。柚子もつられて振り返る。 それからポツリと。本当に小さな声で蓮太郎が呟いた。 「もしかしたら、あいつがお嫁さんを探してきてくれたのかな」 「えっ?」 柚子が聞き返すと、蓮太郎は顔を真っ赤にさせて柚子の手を握ってきた。柚子はあっと思ったけれど、手を引っ込めはしなかった。 蓮太郎が握ってきたのは、チョコレートの付いた方の手だった。 ふたりの手には、まるで犬がお手をして足跡をつけたように、チョコレートが付いた。 |
| あまーいケーキと、あまーい恋。 どちらがお好みですか? なんて。 ケーキ屋さんでケーキを選ぶのは、 どこか理想の相手を探すのに似ている、かも。 このお話の続編が完成しました。 (2006.06.24) |
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