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小さな町の、小さな商店街。その商店街から少し外れたところに、お菓子の店『ポワン』はある。 「あら、まただわ」 開店準備のためにお店の前を掃きにきた柚子は、店先に置いてあるプランターの中に光るものを見つけた。夏の日差しを受けてまるで透明なシロップのように光るそれは、何度取り除いても朝にはいつも置かれているのだ。 「どうしたの?」 白いコック服にオレンジのネックチーフを巻いた蓮太郎が、入口のドアをあけて顔を覗かせた。 「またあれがあったのよ」 柚子が振り返って訴えると、蓮太郎はヒョロリとした身体を上下に揺らすように歩いてきた。その顔には困惑が張り付いている。 「またあったの。もう何日くらい続いているんだっけ?」 「今日で2週間よ」 「うーん。こんなに続くってことは、何か意味があるのかな」 いつもは穏やかな笑みを浮かべている蓮太郎の顔が、少し曇っている。あごの下に拳を当てて再び「うーん」と唸った蓮太郎は、次にポンと手を合わせた。 「2週間っていうことは、柚子ちゃんがうちに働きに来るようになってからだね」 「まあ、まるで人が怪奇現象を連れてきたみたいな言い方!」 柚子が叩くふりをすると、蓮太郎は慌てて首を横に振った。 「違う違う、そういう意味じゃないよ。たださ――」 「ただ?」 蓮太郎は途中で言葉を切り、柚子の傍を通ってプランターの前にしゃがみ込んだ。ヒョロリと背の高い蓮太郎がしゃがむと、何かメレンゲの角を立てそこなった時のように、ヘタリとして見える。 柚子も蓮太郎の隣にしゃがみ込んだ。 「これって、あれだよね」 「そうね、あれだと思うわ」 柚子と蓮太郎はプランターを覗き込んだ。そこにはまぁるくて、透明で、卵のような形をした、よくおもちゃの景品が中に入っている、あの容器があった。100円を入れてレバーを回すと出てくる、あれ。 今、容器の中はからっぽだ。 「子どものいたずらかしら?」 柚子の声に、蓮太郎は「うーん」と唸った。その瞳は何か別のことを考えているような色をしていた。 * 「わたしはねぇ、普段はショートケーキを買うのね。苺が好きだから。でも今の旬でいったらやっぱり桃よねぇ」 目をせわしなく右にやったり左にやったりさせながら、白髪を薄い紫(パープル)色に染めた夫人がケーキの入っているウインドウを覗き込んでいる。 「そうですね、こちらの"桃のムースのケーキ"はお勧めです。色もピンクでかわいらしいですし」 「まぁほんと。かわいいケーキねぇ」 柚子の指し示したケーキを見て、パープル夫人はうっとりとその瞳を柔らかく細めた。 何でも今日の午後、遠いところに住んでいる孫が遊びに来るらしく、その孫のためにケーキを買いにきたのだが孫の好みが分からないようで、さっきからもう20分は迷い続けている。 柚子は辛抱強く、パープル夫人の相手をした。 「この桃のムースのケーキ、子どもにも人気なんですよ。かわいらしくて、桃の味がしっかりしていて美味しいって。最近のうっとうしい天気を吹き飛ばすような爽やかな甘酸っぱさも、人気の理由かもしれませんね」 「そうねぇ、これにしようかしらねぇ」 と、パープル夫人の気持ちが決まりかけたとき。ふと、パープル夫人の目が別のものをとらえた。顔を右に向け、それを指差す。 「これは? ちょっとみない形だけど」 パープル夫人が指差したのは、小高い山のようになっているシフォンケーキだった。いくつか種類がある中で、パープル夫人が指差したのは少しオレンジがかっているものだった。 柚子は笑みを浮かべて答えた。 「それはユズのシフォンケーキです」 「へえ、ユズの。そうね、ユズも旬と言えば旬よねぇ。へええ、ユズもお菓子に使うのねぇ」 「そ、そうですね」 何もうろたえることなどないはずなのに、柚子はユズと言われるたびに、ドキンと胸が弾むのに気付いた。 このユズのシフォンケーキは、柚子がポワンで働き始めた記念にと、蓮太郎がわざわざメニューに加えてくれたものだった。 今までポワンでは、ユズのジュレは扱っていたけれど、シフォンケーキは扱っていなかった。 ポワンはいわゆる町のケーキ屋さんで、店舗がそれほど広くない。ひとつメニューを増やせば、ひとつメニューが減ってしまう。それでも連太郎は、わざわざユズのシフォンケーキを加えてくれた。 まさに特別なケーキなのだ。 「決めたわ。このユズのシフォンケーキと、桃のムースのケーキを2つずついただくことにするわ」 「ありがとうございます」 柚子が屈みこんで桃のムースのケーキをトレーに載せていると、パープル夫人が思いついたように話しかけてきた。 「そう言えば、駅に近い方にもう1軒、ケーキ屋さんがあるでしょう?」 「え、ええ」 柚子は声が裏返りそうになった。この間まで柚子の働いていたケーキ屋のことだ。 「隣の奥さんはあそこでよく買うって言っていたし、美味しいって評判だけれど、あなたは食べたことがある?」 「い、いえ、私は」 まさか働いていたなんて言えない。言っても問題はないかもしれないが、柚子は何となくあまり積極的には言いたくなかった。 「あら、そうなの。でもそうねぇ、ライバルのお店に買いにいくなんて変かしら。喧嘩になっちゃったりしてねぇ?」 どんな風に答えようかと柚子が頭を悩ませていると、奥から足音と声が近付いてきた。 「僕は食べたことありますよ」 「まぁ、こんにちは」 奥から出てきた蓮太郎と、パープル夫人は面識があるのか、挨拶を交わしている。その挨拶もそこそこに、パープル夫人が聞き返す。 「さっき食べたことあるって言っていたけど、ライバルでしょう? 喧嘩になったりしないの?」 パープル夫人の言葉に、蓮太郎は穏やかな笑みを浮かべて答えた。 「僕の方が3つ年下ですけど、彼とは幼馴染ですから喧嘩なんて」 「あらそう? でも向こうは」 パープル夫人がまだ何か探ってきそうな気配のところで、柚子はサッとケーキの入った小箱を差し出した。 「どうも大変お待たせしました。生ものですので、なるべく早くお召し上がりください」 小箱を差し出されたパープル夫人は、何度も振り返りながら店を後にした。笑顔で見送っていた柚子と蓮太郎の2人は、パープル夫人の姿が消えた途端、顔を見合わせた。 「ねえ、ご近所で何か変な噂が立っているような気がしない?」 「うん、そんな気がするね」 柚子が前のケーキ屋からこのポワンに移ったことを、この町の噂好きな人は知っている。 「ねえ、あのいたずらも、あの店長の仕業だったりして」 「まさか」 柚子の言葉に笑いかけた蓮太郎は、しかし口を閉じて「うーん」と唸った。 「決めた! 明日は定休日だし、私、今夜は一晩中あのプランターを見張るから」 「見張るって、どこから?」 蓮太郎が驚いて聞き返すと、柚子は決まってるじゃないという風に笑った。 * 「ねえ、柚子ちゃん。もう遅いし、帰った方がいいよ」 蓮太郎の声に、柚子は頬を膨らませた。 「帰ったら見張れないじゃないの」 柚子と蓮太郎がいるのは、ポワンの正面にある二階建ての建物、蓮太郎の家だった。その二階の窓辺に2人は立っている。 「でも家の人が心配するよ?」 「あのね、れんくん、私をいくつだと思っているのよ」 もう両親には今日は帰らないと連絡済だった。 両親といっても電話に出たのは母親で、柚子が今日は帰らないと言うと、母親は何もかもお見通しという風な口調で『お父さんにはうまく言っておくからね』と言った。それは柚子の信用と、やっぱり幼稚園で幼馴染だった蓮太郎の信用も、その言葉には含まれていたかもしれない。 「でもさ、なんて言うか、そのさ」 蓮太郎は窓辺に立つ柚子の隣で、ヒョロリとした身体を落ち着かなくユラユラさせている。 「私のことだったらお構いなく。れんくんはいつも通りにしていて」 「いつも通りって……」 実は柚子の立っているのは、蓮太郎の部屋の窓の窓辺だった。蓮太郎の部屋はこざっぱりと整頓されていて、本棚にはお菓子関連の本と、それと同じくらい園芸の本が置いてあった。 それに気付いた柚子は、 「れんくん、植物も好きなの?」 聞いてから、蓮太郎の家の庭にあった花壇を思い出す。朝顔やヒメジヨンやゼラニューム、それにひまわり。店先のプランターにも、柚子の名前の知らない花たちが並んでいる。 蓮太郎は少し苦笑いするように「うん」と頷いた。 「僕の将来の夢って、お花屋さんだったからね」 「えーっ?」 柚子は驚いて蓮太郎を見上げた。柚子が将来ケーキ屋さんになりたいと書いた、あの卒園アルバムに、蓮太郎は花屋さんになりたいと書いたのだ。柚子は無意識の内に、花屋の娘が幼稚園の同じ組にいなかったかどうか、思い出そうとしていた。 「柚子ちゃんってば、それを見てものすごく怒ったんだよね」 蓮太郎の声に、柚子はその時のことを思い出そうとしたけれど、頭の中は飴細工で出来た細かい網でもかかったようにそれより先に進めなかった。 「そうだった?」 「うん、そう。れんくんの家はケーキ屋さんなのに、お花屋さんになりたいなんてひどい。柚子、れんくんのお嫁さんになってあげないんだから、とか言って」 言われて、思い出した。 柚子は顔中が火になってしまったように熱くなった。 あのとき、柚子は蓮太郎が将来の夢にケーキ屋さんと書くだろうと思っていた。だから柚子はケーキ屋さんと書いた。ふたりともケーキ屋さんになるの、仲良しね、と言われたかったのだ。 柚子が顔をポッポッとさせている間、蓮太郎は窓の外をずっと眺めていた。 それは甘酸っぱい思い出に浸っているような顔ではなく、何かに惹き付けられているような顔だった。 柚子も気付いて、窓の外に目を向けた。 最初は何が起きているのか分からなかった。ただ、この2週間、夜になるとこぬか雨が降っていて、今夜もまた雨が降っていた。 その雨の中で、何かが動いているのだ。 けれど、それは人間の形をしていない。 動物の形もしていない。 「れんくん、あれ……」 柚子は蓮太郎の腕にすがり付いた。蓮太郎は何か予想でもしていたように、落ち着いた声で言った。 「ほら、あそこを見て」 蓮太郎が指差したのは、店先のプランター、いつも透明なプラスチックの容器が置かれているところだ。 そこにはオレンジの花が咲いていた。 「クロサンドラだよ」 蓮太郎が柚子の耳に花の名前を囁いた。そのクロサンドラの隣、ブーゲンビリアという花だと少し前蓮太郎に教えてもらったピンクの花が、スルスルとツルを伸ばしている。 隣の、おもちゃ屋さんの軒先に。 驚いている柚子の目の前で、ブーゲンビリアは器用にツルを使って軒先に置いてあるガチャポンと呼ばれる箱の中から、あの透明な容器を取り出した。それをまた器用に開けて中のおもちゃを取り出すと、容器だけ持ってまたツルを戻した。 「ブーゲンビリアは薔薇ほど鋭くないけど、トゲを持っているからね。そのトゲを器用に使っているのかな」 蓮太郎が感心したように言った。 けれど柚子はほとんどその声を聞いていなかった。とにかく目の前で起こっていることが信じられなかった。 ブーゲンビリアは持ってきた透明な容器を、まるでカサのようにして、オレンジ色のクロサンドラの上にかぶせた。 「クロサンドラはね、寒さに弱いんだ。たぶん、雨で気温が下がったせいで震えているクロサンドラのために、ブーゲンビリアがああやってカサを持ってきてあげていたんだね」 蓮太郎のその声はとても優しくて、とても普通のことのような響きがあって、柚子は思わず頷いていた。 目の前の光景は信じられないことだけれど、蓮太郎がそう言うのなら、そういうことがあってもいいような気がしていた。 柚子は蓮太郎の腕に自分の腕を絡ませて、優しいブーゲンビリアの花とその隣で守られているようなクロサンドラを眺めた。 その内に、柚子はまるで自分たちを眺めているような気がしてきた。そっと寄り添って、雨に打たれている。近所の噂、人々の無遠慮な好奇心。それでもそっと寄り添っていけたら。 柚子は知らず笑顔になっていた。 隣の蓮太郎も笑顔だった。 「明日、お隣りのおもちゃ屋さんにケーキをお届けしないとね」 「そうね。せっかくの定休日だけど、うんと美味しいケーキを持っていってあげましょうよ」 これから先も、雨の日に、ブーゲンビリアがクロサンドラを守ってあげられるように。 |
| 小さな町では、噂は雨と同じように 自分たちではどうにもできない困ったものです。 けれど蓮太郎と柚子のふたりなら、 ブーゲンビリアとクロサンドラのように仲良く 寄り添っていけることでしょう。 (2006.07.23) |
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