+-++-++ ケーキ屋さん 4 ++-++-+

このお話は『ケーキ屋さん』の続編です。
   
 
 

 シャンパンのクラッシュゼリーを思わせるような、透明で、大粒の雨が降っている。
 柚子はショーケースに肘をついて、窓の外を、色を変えながら重たそうにぼとぼと落ちていく雨を眺めていた。
 夏休みの終わりにきてこんなに雨続きだと、子どもたちは退屈だろうなと、柚子はアクビをかみ殺しながら思った。
 ポワンも今日は暇だった。
 午前中に常連客が何組かやってきた後は、湿った雨音だけがお客さんだった。
 奥から蓮太郎がオレンジ色のネッカチーフをいじりながら出てきた。柚子と目が合うと、少し困ったように首をすくめた。
「雨だから仕方ないとは思うけど、暇だよね」
「でも、れんくん、午後から出かけるんでしょう?」
 雨の中を出かけなければならない蓮太郎を気遣いながら、柚子はしかし、こんな退屈な雨音だけの世界に取り残される不満を声の調子に少し含ませた。
 蓮太郎は窓の外に目をやって、それから柚子の顔に視線を注いだ。その瞳は光の加減なのか、ココア色に光っていた。

「大曽根さんのところで万引きがあってね。犯人は分からないんだけど、ほら、今、ちょうど夏休みだろう。子どもたちの気持ちが悪い方向に進まないように、商店街はなにができるのか、そういうことを話し合うために集まることになったんだ」
「大曽根さんのところって、たしか、本屋さんよね?」
 ブックスおおそねは、商店街でも古株の店だ。
 未だに入口に防犯センサーを取り付けていないし、未だに立ち読みにはハタキで応戦している。昔ながらの、なぜか醤油のにおいでもしてきそうな味わいのある小さな本屋さんである。
「そうなんだよね。それも万引きされたのが子ども向けの国語のドリルだっていうんだから、変な話だよね。万引きしてまで勉強したい子どもがいるなんて、僕はちょっと、不謹慎ながらも感心しちゃったけど」
 雑誌や漫画本ならともかく、国語のドリルを万引きするなんて。仮に何でもよかったにしても、おかしな話だ。
 柚子と蓮太郎は顔を合わせて、思わず一緒に首をひねった。

 そのとき、ポワンのドアの開く気配がした。
 柚子は反射的に「いらっしゃいませ」と声をかけた。それも雨でずっとお客さんが来なかったから、いつも以上に熱烈に。笑顔だって増量して。
 けれどその柚子の笑顔も、相手を確認するとすぐに元に戻った。
 入ってきたのは二階堂だった。ポワンのライバル店、コロネの雇われ店長だ。二階堂は入口で、まるで生クリームでも絞っているような姿勢で、傘をたたんでいる。
「あれ、先輩。どうしたんですか」
 隣で上がった蓮太郎の声。柚子は二階堂がなんて返すのか予想した。きっと、大曽根のじいさんめ、とかなんとか、ブツブツ文句を言うに違いない。
 ところが二階堂は、柚子の予想に反してさわやかな笑顔を向けてきたのだ。

「やあ、蓮太郎。あいにくの雨だな」
 またお前が集会のことを忘れていてはいけないから呼びに来たと、二階堂は笑顔のまま言った。もとの造作が悪くない分、その笑顔は色とりどりのフルーツを乗せたタルトのように華やかだった。
 柚子は咄嗟に、ショーケースのケーキたちに視線を移した。
 どうしてそうしたのか、柚子にもよく分からない。
 何故か見てはいけないものを見てしまったような気持ちだった。柚子はコロネでも働いていたけれど、二階堂のそんな笑顔は一度として見たことがない。よほど嬉しいことでもあったのだろうか。
 そして極めつけは、そうなのだ、二階堂の奇行はタルトな笑顔だけでは終わらなかったのだ。
 極めつけに、二階堂は柚子に向かって「元気そうだな」などと声をかけてきたのだ。ケーキ以外には見向きもしない、あの二階堂が。
 隣の蓮太郎は、そんな二階堂の様子を見て急にソワソワし始めた。

「先に出て待っているよ」
 二階堂が先に店を出ていって、続こうとした蓮太郎の腕を、柚子は掴んだ。
 退屈なだけならばまだいい。けれど、不気味な空間にひとりで取り残されるのはいやだった。まるで二階堂が、ポワンに不気味なものを連れてきたように柚子には思えた。
 もっと言えば二階堂が不気味だった。いつもと違いすぎる。
 このまま蓮太郎を行かせたら、戻ってこないのではないかという不安さえ持ち上がった。
 柚子が二階堂の様子について疑問をぶつけると、蓮太郎はもごもご言いにくそうに言った。
「たぶん、スランプに陥っているんだと思う」
「え? スランプって、あの、うまくいかなくて落ち込むっていう、あの?」
「うん。何故か昔から先輩って、スランプに陥ると礼儀正しくなるんだよね」
 なにそれ……という柚子の心の声は、蓮太郎がドアを開けた途端に入り込んできた雨音に溶けていった。

*

 降り続いていた雨がようやく止んだその日。柚子はまだ濡れている道を歩いていた。
 舗装された道路はラムに漬け込んだレーズンのようにしっとりと濡れていて、ムッとする夏特有のにおいが立ち込めていた。
 T字路を左に曲がった柚子は、背後になった方に延びている道から甲高いブレーキ音を聞いた。
 驚いて振り返ると、自転車に乗っていた小学生くらいの男の子が「すみません」と言いながら走り去っていくところだった。
 道にはもうひとり、着流し姿の青年が、ペタンと尻餅をついている。ぶつかりそうになって転んだらしい。
「大丈夫ですか?」
 柚子は着流し姿の青年に駆け寄って、走り去っていく自転車に「曲がり角は気をつけないとダメよー!」と大声で叫んだ。
 その間に着流し姿の青年は腰を上げて、濡れてしまった腰のあたりを気にしている。その足元に、柚子は、まだ真新しい国語のドリルを見つけてドキリとした。まさか。この青年が……?

「あの、落ちていますよ」
 柚子が国語のドリルを拾い上げると、着流し姿の青年は屈託のない顔で笑った。
「ありがとうございます。あー、ちょっと濡れてしまいましたね」
 まだ二十歳そこそこの幼さの残った顔つきだった。国語のドリルを手渡された時も、後ろめたそうな雰囲気はない。
 それじゃあ、と去っていく着流し姿の青年を、柚子はじっと見送った。道の真ん中に立ち尽くしてしばらく逡巡したあと、やはり直感に従って尾行してみようと思った。

 青年は道の壁際に沿って歩いていく。もう少しで肩が触れてしまいそうなほど、道の端に寄って。着流しの着物はそうとう年季の入ったものらしく、ところどころで擦り切れが出来て繕われた跡が見える。
 今どきの若者が着流しなんて珍しい。
 柚子は青年との距離を保ちながらついていった。

 五分も歩いただろうか。不意に青年が角を曲がった。柚子も追いかけて曲がると、そこには小さな公園があった。
 こんなところに公園があったかしら。柚子が首をひねりながら公園に入っていくと、青年は急に左右を気にし始めた。柚子はすぐに、ミントのように青々とした葉っぱをつけている木に隠れた。
 青年は、そろりそろりと進んでいく。見ると、公園のベンチに座って刺繍をしている女性がいた。青年はその女性に近づいていった。
 けれど声をかけることはなく、後ろからそっと、あの国語のドリルをベンチに置いて後退っている。

 柚子はもう好奇心が抑えられなくなって、後退ってきた青年に「あの」と声をかけた。青年は飛び上がって逃げようとしたけれど、柚子の顔を見てホッと力を抜いた。
「驚かさないでくださいよ」
「ごめんなさい。ちょっと気になったものだから。あの、どうしてあの女性に国語のドリルを? それも手渡しするんじゃなく、こっそり置くなんてことを」
 柚子が聞くと、青年は顔を赤くした。それだけで、もっとも重要な事情が飲み込めた。この青年は恐らく、あの女性が好きなのだ。柚子は自分の顔が笑顔になるのを感じた。
 青年は女性の方に視線を向けた。
 女性はベンチの上に国語のドリルを見つけて、キョロキョロとあたりを見回している。その髪の毛が、薄雲から覗いた太陽の光を浴びて金色に光った。

「彼女、日本語が不自由なんです。ご主人と一緒に海を渡ってこの地にやって来たらしいのですが、そのご主人に先立たれてしまったようで。本当はわたくしが、彼女の話す言葉を覚えられたらいいのですが、わたくしには彼女がどこのお国の言葉を話しているのかさっぱり分からないので、せめて日本語を覚えられるように、と」
 話している間、公園を横切る人たちと、青年は会釈を交わしている。一方、ベンチに座っている女性に話しかける人は、ひとりもいなかった。
「わたくしにも、身に覚えがあるのです。この公園に初めて来た日は、誰にも話しかけてもらえず、会釈だって、ここ最近ですよ、返してもらえるようになったのは」
 だから彼女の孤独が分かるのです。
 青年はそう言って、夢みるように付け加えた。彼女の話す言葉がどこのお国の言葉か分かったらなぁ。
 柚子は青年のその眼差しに、好感を持った。何とか力になってあげたいと思った。ちょうどそのとき、道を歩いている二階堂の姿を見つけた。

「店長!」
 まだコロネに勤めていた時のくせで、柚子は二階堂をそう呼んでしまった。
 いつもなら少し手を上げてとっとと行ってしまう二階堂だが、まだスランプ中らしい。その証拠に、柚子たちの方へ笑顔で歩み寄ってきた。
「こんなところに公園なんかあったかな」
 首をひねって不思議がっている二階堂に、柚子は単刀直入に言った。
「あの、てんちょ……二階堂さん。あそこの女性に話しかけてきてください。彼女、外国の方らしくって、何語が分かるのか、私たちじゃあ判断できないんです」
 蓮太郎の話では、二階堂はパティシエの修行のために留学していたという話だ。それなら、彼女の言葉が分かるかもしれない。柚子はそう考えたのだ。
 二階堂は不審そうな顔をしながらも、さすがスランプ中、素直に女性の方へと歩いていった。
 青年は不安そうに二階堂と女性を見つめている。

「大丈夫よ、あの人――」
 ケーキ以外には興味なさそうだから、という言葉を飲み込んで、柚子は続けた。
「あの人は、留学経験があるの。彼女の言葉がどこの国のものなのか、きっと突き止めてくれるわ」
 二階堂はベンチの前に立ったまま女性に話しかけている。女性は小首をかしげていたけれど、二階堂が何か言ったとき、わずかではあったけれど反応した。
「あの、それでちょっと聞きづらいんだけど、あの国語のドリルは」
 柚子が様子を見ながら尋ねると、青年は事も無げに答えた。
「ああ、あの本は鈴ちゃんにもらったんです。ご存知ですか。大曽根さんのところの」
「ブックスおおそね、の?」
「ええ、そうですそうです。彼女、とっても姉御肌のようで、わたくしのようなものにもよくしてくださって、面倒をみてくださるんですよ」
 柚子は大曽根のところに鈴という娘がいるとは知らなかった。
 なんだ、じゃあ、内部犯かもしれないんだ。柚子はそんなことを考えて、これであの女性の話す言葉さえ分かれば万引きもなくなるだろうと思った。

 しばらくして二階堂が戻ってきて言った。
「あれはロシア語のようだね。同僚にロシア出身の男がいたから、聞いたことがある」
「オロシャの!」
 着流し姿の青年は、それだけで感激してしまったように二階堂に深々と頭を下げた。それからホウッと息を吐いてベンチの女性を見つめている。
 柚子は気になって、二階堂のシャツを引っ張った。
「てん……二階堂さん。彼女にどういう風に話しかけたんですか?」
 二階堂は柚子の質問に首を横に振った。話しかけたわけじゃない、と。
「常識的に考えて、見ず知らずの女性に馴れ馴れしく話しかけるわけにいかないだろ。だからただ砂糖という言葉を、違う言語で言ってみただけだ。あとは反応した言語で、知っている単語を並べたてて……ん? 様々な国の言語で……様々な国の……まぜて……」
 途中から二階堂はまるで夢遊病者のように、短い距離を行ったり来たりし始めた。そしてそのまま、柚子のことなど忘れ去ったようにスタスタ歩いていってしまった。
「ちょっと、なに、なんで途中で」
「わ、わ、どうしましょう、彼女がこっちに」
 上ずった青年の声にふと振り返ると、ベンチに座っていた女性がこちらに気付いて歩いてくるところだった。青年はまるで飴で固められたみたいに、起立の状態で立ち尽くしている。
 邪魔をしてはいけないと思い、柚子は慌てて立ち去った。

*

「よいしょ、っと!」
 ドサッという音をさせて、柚子は両手で抱えてきた包みを下ろした。ポワンの、店内から奥に入った休憩所のテーブルの上に。
 その隣室でもう秋の試作品作りをしていた蓮太郎が、その音を聞きつけたのか顔を覗かせた。
「ずいぶん買い込んできたね」
「うん、ほらどうせそのうち読書の秋になるし」
 柚子がテーブルの上に置いたのは、ブックスおおそねで買い込んできた文庫本や雑誌やハードカバーの小説本などだった。
「あ、これ懐かしい。文庫本になっていたんだ」
 蓮太郎は一冊の文庫本を手に取った。それは柚子たちが幼稚園児の頃に夢中になった童話だ。柚子も「そうそう懐かしいでしょ」と蓮太郎の横から文庫本を覗き込んだ。
 それから柚子は、何気ない風を精一杯装って蓮太郎に尋ねた。

「ねえ、鈴さんって知ってる?」
「うーん?」
 実は、柚子は本を買い込むためにブックスおおそねに行ったわけではないのだ。昨日の着流し姿の青年の話に出てきた、鈴という子に会うために行ったのだ。
 それがどうしてもそれらしき女の人が見つからずに、結局大量の本を買い込んでくることになった。
「ねえ、れんくんったら。鈴さんって知ってる? ブックスおおそねの」
「うーん? あー、うん、知っているよ」
 蓮太郎は文庫本の字面を目で追いながら答えた。童話を読みながらのせいか、どことなく反応が鈍い。
「どんな子?」
「どんなって、普通かな」
「普通って?」
「だから、目がクリクリと大きくて丸くて、耳はちょっぴり尖っていて、器量のいい、普通の三毛猫だよ」

「―― 三毛猫? 猫なの?」
 柚子は驚いて、傍にあった雑誌をテーブルの下に落っことしてしまった。蓮太郎に「それがどうしたの」と聞かれて、柚子は何でもないと答えるのが精一杯だった。
 ちょうどそのとき、店の電話が鳴り出したので、蓮太郎は文庫本を置いてそっちに歩いていった。
「まさか、じゃあ、あの人……」
 猫又?
 そう言えば、自転車とぶつかって転んだとき、やけに後ろを気にしていた。あれは尻尾が出ていないか確かめるため?
 そう言えば、あの人はロシアのことをオロシャと呼んだ。今どきの若者でそんな呼び方をする人がいるだろうか。
 柚子が心の中の疑問にうなっていると、電話を終えた蓮太郎が休憩室に戻ってきた。
 ところが、その蓮太郎の様子がおかしい。なにか全身にババロアでも乗せてしまったみたいに、小刻みに揺れているのだ。
「誰からだったの?」
 柚子が声をかけると、蓮太郎は小さな声で「先輩から」と答えて黙り込んでしまった。
 変だなと思いながらも、柚子も心の中の疑問で手一杯だった。あの青年は本当に猫又だったのだろうか。
 その疑問は、ポワンのドアが開いた音で中断された。柚子は休憩室を飛び出していって、いつものように笑顔で対応した。

 そしてつつがなく一日が終わろうとしている、そのとき。
 ショーケースを丹念に拭いている柚子のところに、蓮太郎が硬い表情でやってきた。
「あの、昼間の電話のことなんだけど」
「うん、なに?」
 柚子はショーケースを拭く手を休めないで聞き返した。どうせまた二階堂が、蓮太郎を困らせるようなことを言ったのだろうと予想していた。
 けれど柚子の予想はまたしても外れた。
「先輩から柚子ちゃんにさ、昨日はありがとうって言伝を頼まれたんだよ。柚子ちゃんのおかげで忘れかけていた情熱を思い出したって、そんなこと、言っていたんだけど、ね、それってどういうこと?」
 忘れかけていた情熱?
 柚子はショーケースを拭いていた手を止めて首をかしげた。
 昨日のあの出来事とどんな関係があるのだろう。そう言えば、急にブツブツ言いながら立ち去ったのは、何かスランプを吹っ切るようなことを思いついたのだろうか。
 そんなことを考えている柚子の顔を、蓮太郎は食い入るように見つめていた。その瞳はどこか不安げに揺れている。それにいったいどうして、昼間のことを今頃になって。
 思考がひとつの線を作り出し、柚子はハッと蓮太郎を見上げた。
「違うの、れんくん、昨日ね――」
 心の中で、二階堂にバカバカバカと繰り返し暴言を吐きながら、柚子は慌てて昨日の出来事を話し始めた。

 猫又の着流し青年より、お店の商品を勝手に持ち出す三毛猫より、ケーキ以外は見向きもしないせいで誤解される可能性をまったく考えない二階堂の方が、よっぽどよっぽど迷惑千万な存在だと柚子は思った。



 
end  

 

ケーキ屋さんの4作目です。
その後、町の図書館では、
着流し姿の青年と金髪の女性が
たびたび目撃されるようになったそうです。
二階堂は、相変わらずだそうです。

(2007.09.02)
 

  

 

 

 

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