+-++-++ マシマロ・ロマンス ++-++-+
   
 
 それは先月の十四日のことだった。
 先月の十四日と言えば、あれだ。あの日だ。思春期真っ只中の男子の神経をいたずらにすり減らせるというか、どんなに落ち着いた風を装おうとも挙動不審に陥ってしまうという、あの日のことだ。

 バレンタインデー。
 その日の夕方のことだった。

 見たことのない女の子が、突如おれの前に立ちふさがった。大通りから住宅街に入る細い路地、周りは民家と電柱と地面に落ちた鳥のフンしかないようなところで。

「あのね、これをあげる」
 女の子が差し出してきた手の上には、何か乗っかっていた。何か、着物の柄みたいな紙で包まれた、何か。

 一目見て、ピンとこなかったわけがない。
 なんたって、あの日だ。

 しかしおれはその"何か"を受け取らないで、ジロジロと女の子を眺め回した。足首に向かって朝顔が咲いているような形のふんわりとしたスカート、襟元に花の形の刺繍がついているシャツ、ポンカン色のカーディガン、それから茶色の髪の上に……

 猫耳が付いている。
 猫耳が付いている。
 猫耳が付いているのだ。

 神よ――と一度も祈ったことのないおれがそんなことを言っていいものかどうか分からないけど、猫耳の女の子を初めてリアルで見たことで、おれの胸は別の方向でドキンドキンとしていた。初めて間近に芸能人を見た時のような、変な種類の興奮が体中を走り回る。

 しかし、それ以上に、ドキンドキンという胸の波に合わせて、言いようのない怒りがこみ上げてきた。
 こんなこと……あってたまるか。

「誰の差し金だ?」
 おれの言葉に、女の子はキョトンとした。おれは感情を抑えようとするあまり、声まで抑えて小さくしすぎていたのだ。
 咳払いをすると再び言い直した。

「誰の差し金だ?」
 女の子は再びキョトンとした。しばらくして逆に聞いてくる。
「ささみ?」
「さ、ささみじゃない。差し金」
「さしみ?」
「さ し が ね だ!」

 ほとんど怒鳴るようにして言うと、女の子はにっこりと笑い顔を作った。思わず口の中にたまった唾を飲み込んでしまうような愛くるしい笑顔だった。
 そんな笑顔で、女の子は言った。
「ささみもさしみも大好きよ」

 どうやらあくまでシラを切ろうとしているようだ。ならばこっちにも考えがある。おれはニコニコ笑っている女の子に向かって冷たい視線を浴びせ、なおかつ威圧的に見えるよう腕組みをしてみせた。

「ふん。どうせ花島の差し金なんだろ」
 あの女子グループの親玉。女の嫌なところを世界中から集めてこねて丸めて作ったような、嫌な女の見本市、花島の考えそうなことだ。
 あの女、おれが教室に入っただけで、『やだー、オタク臭いー』なんつって騒ぎやがる。おれが傍を通っただけで、『うわぁ、オタクがうつるー』なんつって喚きやがる。何かあれば二言目には『オタクのくせに』と言い放つ。

 花島のやつ、陰湿な手を使ってきやがって。どんな話をして、この女の子にお芝居をするように頼み込んだのか。
 そうさ。そうだろ。女の子がおれにチョコレートをくれるはずがないんだ。オタクのおれなんかに。ふん。こんな企みなんぞ、バレバレだっての。

 そんなおれの怒りとは対照的に、女の子はどこか嬉しそうに笑っている。

「あたし、二週間前のお礼がしたかったの。あのとき、本当に嬉しかったの。あたしね、もう木の上でずっと過ごさなくちゃいけないのかと思って、とっても悲しかったから」
「は?」
「あのとき、木から飛び降りたとき、ひねった足はもう大丈夫? ヒョコヒョコ、引きずりながら帰っていったでしょ?」
 急にカーッと顔が熱くなった。
 な、なんでそれをこの女の子が知っているんだ。そこからパニックになって、何がどうなってどういう話をして、そうなったのか、まったく思い出せない。

 ハッキリしていることは、おれはその日、二月十四日、バレンタインデーに、生れて始めてチョコレートを貰ったのだった。
 オタクの夢でもある、猫耳を付けた女の子から。

*

 幸せというのは、すぐ近くにあるものだと、言い方を変えて色んな偉い人が言い残してきたものだけど。
 そうは言っても、そんなにうまい話ばかりが自分の近くに転がっているわけもないじゃん。

 次の日、おれは嫌がる花島にあえて話しかけて探りを入れてみた。昨日のことをもし本当に花島が企んだのなら、その間に何か攻撃をしかけてくるだろうと思ったのだ。
 しかし、花島は嫌がるだけで、特に珍しい攻撃をしかけてこなかった。いつも通り、オタクという言葉を連呼するだけだった。
 じゃあ、昨日のあれはいったい……。

 そんな風に悶々としている間に、時間はあっという間に過ぎていった。この世から消えてなくなればいいと毎回思う学期末テストや、別に自分たちが主役でもないのに卒業式のリハーサルなんかもあって、何かを考える時間なんてそれほど残されていなかった。

 あっという間に三月に入り、窓の外は春めいてきた青空、教室の中は猿の群れかと思うような大声。だらけた雰囲気の教室では生徒の私語が幅を利かせていた。教師が名前を呼ぶ。この間やったばかりの学期末テストの返却が続いている。

 おれは頬杖をついて、窓の外を眺めていた。
 ずっと、猫耳を付けた女の子のことが胸の中で引っかかっていた。

 あの日の二週間前、夕方六時近くのことだった。たまたま通りがかった神社で、おれは松の木にのぼって降りられなくなった子猫を見つけた。ちょうど神社の裏に住むばあさんに、親から頼まれて回覧板を持っていくところだった。

 猫はまるで松の枝に生えた新種の実みたいに、尻尾を足に絡めてちょこんと座っていた。茶色のトラ柄の子猫だった。
 降ろしてやろうと思ったのは、ほんの気まぐれからだった。

 そんなに運動が得意でもないくせに、また木登りなんてほとんどやった記憶がないのに、おれがそんな気になったのは、そこが神社の中だったせいかもしれない。何かがおれに乗り移っていたんだ、きっと。
 子猫は大人しくて、ずっと木の上で一人ぼっちで鳴いていたせいか、木に登ったおれの方に擦り寄ってきた。

 よしよしと思った瞬間。
 ズルリと足が滑って転がり落ちてしまった。子猫を落さなかっただけ、やっぱり何かが乗り移っていたとしか思えない。おれはそのせいで足を捻挫した。

 どうしてそのことを、あの女の子が知っているんだ。

「こら、どーこ見てんだ!」
 急にポカンと頭を叩かれて、夕暮れの境内から教室へと、我に返った。テスト用紙を手で丸めた教師が、おれの席のところまで来ていた。どうやら名前を呼んでもおれが反応しないせいで、ここまでやって来たらしい。

 教室は笑いの渦。
 そんな中でおれはふと思いついた。

 もしかしたら、あの女の子はあの猫の飼い主かもしれない。そうだ。姿の見えなくなった猫を探しに来て、ちょうどおれが松に登っているところを目撃したのかもしれない。
 じゃあ何でその時に声をかけなかったんだ。
 それは恐らく、おれが松から落っこちて、今ここで声をかけたらおれに恥をかかせると思ったからかもしれない。

 そう考えるとめちゃめちゃ恥ずかしい。思わず手で顔を覆ってしまいたくなるほどだ。実際に、両手で頭をかきむしったくらいだ。
 そのとき、まだそこにいた教師が哀れむような声を投げてきた。

「おまえ、大丈夫か? まぁ確かにひどい点だが」
 再び教室が笑いの渦に包まれる。特に花島が馬鹿口をあけて、誰よりも大笑いしているのが見えた。

 ふん、笑うがいいさ。思春期真っ只中の男子学生としては、終ったテストの点数なんかどうでもいいのさ。それより考えるべきことがたくさんあるのさ。尽きないのさ。

 もしあの女の子があの猫の飼い主だったとしたら……。
 だけどいくらそう考えても、あの女の子の言った言葉のすべてを肯定することにはならなかった。それにあの女の子が猫耳を付けていた理由はどうしても分からなかった。

*

 たとえ謎めいた猫耳の女の子からだろうと、バレンタインデーにチョコレートを貰ったからには、お返しをしなくてはならないわけだ。世に言うところの、ホワイトデーに。
 いったい何を?
 つい先月生れて初めてチョコレートを貰った思春期真っ只中の男子に、女の子の喜ぶようなお返しが思いつくか。思いつくわけがない。思いつくくらいなら、オタクだなんだと女子から蔑まれちゃいない。
 そうやって自分を哀れむのもいいが、なんだ。なにをお返しすればいい。

 おれがあの女の子について知っていることと言えば、ささみもさしみも大好きだということだけだ。何の考慮にもなりゃしない。

 オズオズとやって来たデパートのそれらしき売り場は、何でここまで派手にしなきゃいけないんだよ、経済活動って何なんだよと、恨みたくなるくらいアピールしまくり。
 さらに売り場の一番目立つところには『二人の愛を確かめ合う』なんつって、デデーンと書いてある。どうなんだよ、それはよ。たかがチョコを貰ってお返ししただけで愛を確かめ合うって。
 愛を、って……。

 おおお。愛だなんてよせやい。そんなことを言っていいのはアンパンマンだけだ。リアルで言うな。こっぱずかしくて近寄ることもできやしない。

 しかしここで尻込みしていては、余計になんか、あれじゃないか。慣れていないと思われるんじゃないのか。見るからにモテそうもない思春期真っ只中の男子が、モジモジと売り場の手前で尻込みしていたら、それこそ滑稽きわまる姿じゃないのか。

 ほら、今通り過ぎていった人が笑ってなかったか。
 思わず通り過ぎていった背広姿のおじさんに、きつい視線を投げてみた。ふん。どうせそっちだって義理チョコのお返しを買いに来たんだろ。どうせ若い頃には一度だって貰ったことなんかないんだろ。

 おれは極度の緊張と戸惑いと、心細さから、目に付く人、物、すべてに八つ当たりしていた。もちろん、心の中で。許されるなら、誰彼かまわず飛びついて、わぁわぁと喚いて、売り場をめちゃめちゃに破壊したいくらいだった。何のために。
 おれの自尊心のために。

 ここで尻込みするなんて、おれらしくない。おれはそういうことはクールに澄まして、フンと鼻で笑いつつ、ああこんなもんでいいや、ってくらいの軽さでやってみせたいと思っているのだ。昨夜、何百回と頭の中でリハーサルもしてきた。

 それなのに。

 ぎくしゃくしながら売り場に足を向けた。ピンクや白や赤の目立つ売り場。クマのぬいぐるみがキャンディーを抱えているものや、きれいに折りたたまれたハンカチや、どういう処理を施されているのかビンの中に薔薇の入っているもの。どれを見ても、どれにすればいいのか分からない。見れば見るほど途方に暮れるばかりだった。

 ふと見ると、売り場のピカピカに磨かれた商品プレートの中に、自分が映り込んでいた。

 今時それはないだろってくらいキッチリと七三に分けた髪をして、分厚い眼鏡をかけて、でかいリュックを背負って、寝不足で不健康な青白い顔をして、ギョロギョロと目だけを動かして、商品を物色している思春期真っ只中の男子、それもオタク。

 ゾッとするね。
 自分でも自分がオタクだという自覚はある。野球やサッカーより、漫画やゲームの方が好きだ。好きで何が悪いと思っている。

 みんな小学生の時には、教室で平気でドラゴンボールの話をしていたじゃないか。ほんの少し前のことだ。それが今は、サッカーのことやアイドルグループのこと、テレビのお笑い番組のことばかり話すようになった。
 みんな変わった。
 おれだけが変わらなかった。

 ポリシーがある。自分なりに考えることがある。漫画のよさ、ゲームのよさ、そういうものを認めている自分を、周囲がまったく認めないことに対して、偏見だと思うこともある。

 だけどふと考える。
 どうしておれだけが変わらなかった。みんなのように、ある時期に来れば右向け右で、流行りのものに熱中できれば良かったのか。おれは自尊心が高すぎて、右向け右で、素直に右を向けないだけなんじゃないのか。

 そんな風に自問しているとき。

「何かお探しですか?」
 急に声をかけられて、おれは慌てた。声をかけてきたのは、どう考えても自分のお袋と同じくらいの年齢のおばさんだった。なのに、外で声をかけられただけで、その人が女だと意識して何も考えられなくなる。

 おれは咄嗟に、すぐ近くにあった袋を掴むと店員らしきおばさんに突き出した。
「これをください」
 それはハートマークのいっぱい描かれた袋、に入ったマシュマロだった。

*

 よりによって……。
 自分の掴んだハートマークいっぱいの袋を見ながら、おれは顔が引きつるのをどうにもできなかった。おれでさえ、これはまずいだろうと思う。あんまりにもダサすぎるだろうと思う。オタクのおれでさえそう思う。

 だけど返品しに行けば、また同じ気持ちを味わうことになるかもしれない。同じどころの騒ぎじゃない。こんなオタクなナリをしたおれが、『ちょっとこれはダサすぎるから変えてよ』なんて言えるか。
 それにもう、実は今日が十四日だ。三月十四日。

 デパートでハートマークいっぱいの袋に包まれたマシュマロを買ってから、あっという間に二日が過ぎていた。その間、何度返しに行こうと思い、上のような理由で悶絶したか。
 もう当日になったらどうしようもない。
 これを押し付けるしかない。

 なるべく目立たないように、その例のアレなマシュマロをデパートの紙袋に入れたまま、おれは家を出た。夕方だった。

 あの女の子に会えるかどうかは分からなかった。何せ、おれはあの女の子について何も知らない。名前も年齢も家がどこかも。
 だけど女はホワイトデーに三倍返しを期待するとかいう噂だから、きっとおれがチョコレートを貰った場所に行けば待っているだろう。三倍返しを期待して。この例のアレなマシュマロが三倍になっているかどうかは、はなはだ疑問だが、数でいけば一口チョコの三倍どころじゃないんだ。ただアレなだけで。

 細い路地、曲がり角に来た。どこかの庭先から飛んできた虫が顔の前を通った。危うく口の中に入るところだった。春になるとわいてくる。虫は大きらいだ。
 もうちょっとであの場所だ。そう思うとソワソワしてきた。前をろくろく見ないで歩いていた。いてくれなきゃ困るのに、あの女の子がいたらどうしようとか、変に矛盾したことを考えていた。

 そのとき、急におれの目の前に自転車が飛び出してきた。キキッという自転車のブレーキ音。
 あやうく衝突しそうになった自転車の上には、花島の顔がどっかりと据わっていた。

「げえ、オタクがこんなところで何してんのよ」
「お前こそ」

 ヒヤリとした気持ちを押し隠してそう言ったところまでは良かった。だけど次の瞬間。パサリと、紙袋が落ちた。何度も中身を見ては悶絶したため、紙袋の口は閉じていなかった。ハートマークいっぱいの、例のアレなマシュマロが飛び出す。

 花島はそれを見て、馬鹿口を開けて笑い出した。
「なにそれ。あんたにチョコなんてやった人がいるの? 物好きがいたもんねー。だけどそれにしたって、なによそれ、センスなーい。くれた人もオタクなわけ? ぶははははははは」

 花島の馬鹿笑いが響く中、おれはゆっくりと紙袋を拾い上げると、例のアレなマシュマロを紙袋に詰め直した。
 それからフンと鼻で笑ってから一言。
「猿は山に帰れ」
 それだけ言って、おれは花島の横をすり抜けた。後ろから花島のギャアギャア言う声が聞こえたけれど、耳を素通りしていった。

 路地を歩いているうちに、どんどんと歩く速度が増してきた。進めば進むほどカッカとしてきた。
 一ヶ月前、おれがチョコレートを貰った場所に来た。女の子の姿はどこにもなかった。誰も立っていなかった。

 不意に、奥歯の奥の奥から、苦い汁みたいなものが出てきた。自然と歯を食いしばることになった。顔を歪めることになった。

 やっぱりあれは、花島の企んだことだったんじゃないのか。チョコレートを貰って一ヶ月間、おれがどうやって過ごすか逐一観察して、最後の最後に笑ってやろうということだったんじゃないのか。
 そうじゃなきゃ、タイミングが良すぎる。
 花島の馬鹿笑いを思い出して、おれは紙袋を投げ捨てようとした。

 だけど、寸前で思いとどまった。何より、もし一ヶ月前のことが花島の企みだったとしたら、あれはどういうことだ。どうしてあの女の子は、おれが子猫を助けて足を捻挫したことを知っていたんだ。

 フラフラと、おれはあの神社に向かって歩き出した。あの日も人影がまったくなかったけれど、今日もまるで人影がない。今日はあの子猫もいなかった。
 シンと静まり返った境内、その隅っこに植わっている松の木。少しどころじゃなく捩じれて、捩じれまくって、まるでおれの性格のようだった。
 松の木に寄りかかると、おれは神殿の方に目を向けた。

 本当ならご神体が祭られているはずのところには、ベニヤ板が打ちつけられていた。お参りする時に鳴らすはずの鈴も見当たらない。全体がモスグリーンにも近い、水蘚で薄汚れた神殿。
 恐らくは、誰からも省みられることのない場所。
 なんだか親近感を覚えそうだ。

 オタクで何が悪い。おれにはポリシーがあるんだ。そんな風に思う一方で、誰からも省みられない自分に落胆している自分がいる。オタクだから省みられないんだと無理やりにでも思おうとしている自分に、落胆する。

 おれはいつも、自分の作り上げた自分像に負けてばかりいる。今日だって、ほとんど寝ないで脳内リハーサルをしてきた。今日だけじゃない。いつだって、どんなことをするにしても、脳内リハーサルが必要だった。学校にいても脳内リハーサル。道を歩きながらも脳内リハーサル。寝ても覚めても脳内リハーサル。
 挙句、自分で勝手に落胆して逆上して、そっぽを向く。

 そうさ。予定調和の日常なんか、どこを探したってあるわけがない。あるわけがないものを求めても落胆するばかりさ。
 さっさと帰って、マシュマロを喉に詰まらせて死んでやる。

 半分ヤケになってそんなことを考えていた時のことだった。ガサッ、ガサガサッという音が朽ちかけた神殿の方から聞こえてきた。
 なんだと思ってよく見た瞬間。

 ズサッと、神殿の床下から、茶色の髪の頭が出てきた。続いて、少し間をおいてから身体が……。

「ふう。いつもだったら楽勝なのに、この身体だとね、とっても動きにくいの。でもあの身体だとお話ができないものね」
 あの日と同じ嬉しそうな笑顔で、あの日と同じポンカン色のカーディガンにふんわりとしたスカート、そして猫耳。
 あの時の女の子だった。

「今日はわたし、松の木に登ってないのに、来てくれたの?」それから、急に思い出したように。「ちょこれえと、おいしかった?」
 満面の笑みだった。
 だから思わず、うん、なんて言った。本当は、机の引き出しに入れたまま、まだ食べてなかった。
 うん、と言ったまま、おれは何も言えないでいた。頭は真っ白な状態だった。まさかここで女の子に会えるとは思ってもいなかったし、何より出てきたところが……。

「それはなぁに?」
 紙袋に気付いた女の子が聞いてきた。おれは何か言おうと思いながらも、無言で紙袋を女の子に差し出した。
「なぁに?」
 女の子はキョトンとしている。おれはゲホンと咳払いをしてから言った。
「……お、お返し。チョコレートの」
「ふうん?」
 なんだか反応がイマイチだった。まさかホワイトデーの存在を知らない女がいるとは思えないけど、何より出てきたところが……。

 おれは再びゲへンと咳払いをして言った。
「今日、三月十四日はホワイトデーと言って、二月十四日にチョコレートを貰った男が、そのチョコレートをくれた女の子にお返しをする日なんだ」
「うん」
「だから、これを、やる。ささみでもさしみでもないけど、一応マシュ……」

 言葉の途中でようやく事情が飲み込めたのか、女の子がパッと顔を輝かせた。思わず言葉を止めて何度も瞬きしてしまうほどの、まぶしい笑顔だった。

「うれしい! あっちで一緒に食べましょ」
 女の子はおれの手を取って、神殿に向けて歩き出した。手を握られて、おれは何だかよく分からないけど、体中の細胞という細胞が阿波踊りでも始めたんじゃないかというくらい、ムズムズソワソワ落ち着かなくなった。
 あまりにもムズムズソワソワするから、手を引っ込めたいと思ったとき。

「わたし、チャコっていうの」
 女の子が振り向いて、嬉しそうな顔で笑った。夕陽が、彼女の瞳を宝石のようにキラリと光らせた。
 何故かその瞬間、おれもぎこちなくではあるけど、笑顔を作っていた。
「おれは、猫田優司」
 思春期真っ只中のオタク。ホワイトデーに資本主義の権化みたいなマシュマロを買って、誰からも省みられないような寂れた神社で、今はニヘラと笑っている。
 オタクの夢でもある猫耳を付けた女の子と一緒に。

 チャコと名乗った女の子は神殿に上がるための横木に腰を下ろし、目を輝かせて紙袋の中を覗いている。ハートマークを見ても、その笑顔は曇らなかった。
 何かよく分からないけど、胸の奥から滔々と温泉が吹き上げてくる。幸せって、もしかしたらこういう感覚を言うのかもしれない。

 ふと、彼女の頭の上にピョコンと付いている耳に目が向いた。彼女はさっき確かに神殿の軒下から現れた。普通の人間だったら入ってみようとも思わない軒下から。

「これはなんていうの?」
 チャコと名乗った女の子が、袋から出したマシュマロを指でつまんで、プニプニと潰しながら聞いてきた。その顔は好奇心と喜びに満ちていて、こっちの毒気を抜いてしまう威力があった。
 まぁいいかと思った。

「あんまり指で潰すなよ。それはマシュマロといって、砂糖と水飴とゼラチンと、あーと、あとなんか色々混ぜて作られるもので――」
 空はもう真っ赤だった。赤い鳥居も空に溶けて消えそうに見えた。そうか、ここは稲荷神社か。頭の端でそんなことを思いながら、マシュマロを恐る恐る口に含む彼女を見ていた。

 そして彼女の口がマシュマロを噛んだ瞬間。
 おれがワッと声を出して脅かすと――
 彼女は頭の上の耳をピンと立てて目をまん丸にさせて驚き、その後で笑い出した。

 耳は作り物じゃないらしい……。

 なんだか楽しかった。彼女がどんな存在でもいいと思った。たとえ神社の軒下に暮らしていようと。たとえ……

 たとえ稲荷神社のキツネでも。


 

 

キ、キツネじゃ……!
彼がそのことに気付くのはいつでしょう。
この物語は 【ちょこれえと】 の後日談です。

(2006.03.11)
 

 

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