+-++-++ オーブンの中の小さな太陽 ++-++-+
   
 

 ぼくのママの作るパンケーキは、たぶん世界で2番目においしい。2番目なのは、今はお空のお星様になったぼくのおばあちゃんの作るパンケーキが、ママの言うには1番なんだって。
 だから、ぼくのママの作るパンケーキは世界で2番目においしい。

*

 いつもママがごはんを作る台所の隅っこに、そいつはある。赤い胴体に、ピカピカ光るガラスの大きな口。まるでカバみたいに大きな口をあけて、パンケーキの材料を飲み込む、そいつ。
 オーブン。
 普段はとっても暗いやつなのに、パンケーキの材料を口に入れた途端に明るくなるやつ。それもパンケーキが出来上がるまで、ずっと明るいまま。きっとオーブンもパンケーキが大好きなんだ。
「錬司(レンジ)、こら、駄目よ!」
 ぼくの名前を呼びながら、ママが慌てて駆け寄ってきた。ぼくがオーブンの口を無理やり開けさせたから。ぼくの手をオーブンの口から引っぺがすと、ママはオーブンの口を閉じてしまった。
 暗いままのオーブン。根暗のオーブン。パンケーキを口に入れた時にしか明るくなれないオーブン。
「錬司、オーブンに触らないでってママ言ったでしょ」
「ねえママ、パンケーキ、今度いつ作る?」
「パンケーキ?」
「うん、いつ作る?」
「うーん、また今度ね」
 ママは忙しそうにスカートの腰のところにあるリボンをいじりながら、携帯電話に顔を近付けて何か読んでいる。

「今度っていつ? ぼく、作ってもいい?」
「えー……駄目よー。錬司に作れるわけないでしょ」
「出来るよ、ぼく。もう1年生だもん」
 ママは携帯電話に顔を近付けてまるでぼくを見ていなかったけれど、ぼくはママに向かって胸をそらしてみせた。今年小学校に上がってから、ぼくはひとりで着替えもできるようになったし、ひとりでお留守番だってできるようになった。
 だから、パンケーキだって作れるはず。
 根暗のオーブンの口にぼくがまた手を伸ばすと、ママはその手の動きが見えたのか、急に怖い顔でぼくの手首を掴んだ。
「触らないでって言ってるでしょっ!」
 急に大きな声を出されて、ぼくは3秒くらい息ができなくなった。びっくりすると、いつも息ができなくなる。
 ぼくのびっくりした様子をみて、ママはしゃがみ込んでぼくの顔に顔を近付けてきた。目の上が、仮面ライダーに出てくる悪者の女の人みたいに青く塗られている。

「いいこと、錬司。よく聞いてよ」
 ママはそう言うと、根暗のオーブンを指差した。
「オーブンの中にはね、小さな太陽がいて、とってもとっても熱いの。錬司の手が一瞬で焼けてしまうくらい熱いのよ。それにその小さな太陽はね、子どもが大嫌いなのよ。あんまり聞き分けがないと、今度パンケーキを作るときに、怒って真っ黒こげにされちゃうんだから!」
「うっそだー」
 ぼくはすぐに言い返したけど、ママは腕にはめている時計を見て立ち上がった。
「とにかく、ママちょっと出かけてくるから、いい子でお留守番しててよ」
 その唐突な話の終らせ方にぼくは不満だった。ぼくが返事をしないでいると、ママも不満そうにため息をついて、それからまたしゃがみ込んで顔を近付けてきた。
「分かった。いい子にしていたらパンケーキを作ってあげる」
「ほんと!?」
 ぼくが両手をパチンと鳴らして喜んでいると、ママも笑顔になって立ち上がった。
「ねえ、いつパンケーキ作ってくれるの?」
「錬司がいい子にしていたらね」
「いつ? 今日?」
「今日は無理よ。材料がないもの」
「あるよ。材料ならあるよ」
「分かった。今度ね」
「今度っていつ?」
「今度は今度よ」
 ママはそんなことを言いながら、その間に「いってきまーす」という言葉をはさんで、玄関からちょっと小走りになって出ていった。
 玄関の前で取り残されたぼくは、不満と、ちょっぴりの寂しさで口がとんがった。

*

 根暗のオーブンの前で、ぼくは大人みたいに腕を組んでみた。ママが何か考える時によくやっている。こうすると、たぶんきっと、何かいいアイディアが浮かぶんだと思う。
 でもぼくはまだ大人じゃないせいか、どれだけ腕を組んで唸ってみても、何のいいアイディアも浮かばなかった。
 もう1回、オーブンの口を開けさせた。
 この中にパンケーキの材料を入れれば、根暗なオーブンが明るいオーブンになって、パンケーキをこしらえてくれる。
 材料がどこにあるのか、実はぼく、知っているんだ。
 いつもゴハンを食べるテーブルから椅子を引っ張ってくると、それにのぼって上の棚をあけた。棚の中にはいつも見ているパッケージの箱が入っていた。
 これがパンケーキの材料。
「ママってば材料がないなんて言ってさ」
 唇をとがらせて、いつもママに向かって文句を言う時のように足を踏み鳴らそうとしたら、身体が後ろに傾いた。

「わっ!」
 咄嗟に開いたままになっている戸棚の扉を掴んで、セーフ。後ろ向きにおっこちないですんだ。けれど、戸棚の扉を掴むために、手に持っていたパンケーキの箱を離してしまった。
 パンケーキの箱は後ろ向きに飛んでいって、ゴンゴトンという大きな音を立てた。
 慌てて振り向くと、オーブンの口の中にパンケーキの箱が半分入っていた。
 大好きなパンケーキの材料が口に入ったものだから、オーブンもさっきまでの根暗はどこへやら、とっても明るくなっていた。
「わ、待って待って。パンケーキ用のカップがまだだよ」
 もしこのまま箱の中にパンケーキが出来上がっちゃったら、四角いパンケーキになっちゃう。ぼくは丸くてふんわりしたパンケーキが好きなのに。
 ぼくは急いで椅子から降りると、オーブンの中を覗き込んだ。
 すると――

「おい、そこのガキ。いい度胸だな」
 オーブンの中に、黒いメガネをかけた茶色い髪のお兄さんが立っていた。黒いメガネはパンダみたいに真っ黒で、お兄さんの目がどんな風になっているのか分からない。真っ黒な服を着て、同じく黒いズボンのポケットに手を突っ込んでいる。そして、オーブンの中に立っていられるほど、小さい。
「だれ?」
 ぼくが顔を近付けると、お兄さんは黒いメガネを取って目をギロリとさせた。ママがぼくを叱るときにするような目だった。
「ママさんに言われただろうが。こいつに触るなって」
 そう言ってお兄さんは、オーブンの中の壁を片手で叩いた。こいつってたぶん、オーブンのことだ。
 ということは……

「お兄さんはオーブンの中の小さな太陽?」
 ぼくの声に、お兄さんは少しだけ胸をそらせてぼくを見た。そうだ、と言っているみたいだった。
 でも太陽にしては真っ黒で、まるで焦げたジャガイモみたい。
 そういうぼくの視線にお兄さんは何かを鋭く感じ取ったみたいで、フンと鼻から勢いよく息を吐き出して、ヨッタリヨッタリ肩を揺らしながらぼくの方に近付いてきた。
「ママさんの言うことは絶対だ。ガキだからってあんまりナメた真似してっと、どてっぱらに風穴があくぜ」
「どてっぱらって、なに?」
「とにかく触るんじゃない。おれはガキが大嫌いだからな」
 お兄さんは目をギロリとさせて、まるで犬でも追い払うみたいにぼくに向けてシッシッと手を払った。
 だけどぼくは引き下がらなかった。
 引き下がれなかった。

「お願い、オーブンの中の小さな太陽さん。パンケーキを作って」
「やなこった」
「お願いだよ。1つでいいから」
「1つだろうと100個だろうと、駄目なもんは駄目だ」
「お願いお願いお願い」
「ママさんがいいって言うまで駄目だ」
 お兄さんは、頑固に駄目だと言い続けた。ぼくも粘り強くお願いと言い続けた。何十回目のやり取りの後か、お兄さんが急に目をギロリと斜め上に向けて考え込んだ。
「おまえ、何かワケありだな?」
 その言葉に、ぼくは息をとめた。そんなぼくの様子に、お兄さんは「ハハン」と変な声を出した。
 変な声を出した後は、じっとぼくを見ている。何も言わないで、ギロリという目もしないで、オーブンの壁に寄りかかって、ただ黙ってぼくを見ている。
 だからぼくは渋々理由を話した。

「愛莉ちゃんにあげるんだ」
「あいりってのは、なんだよ」
「1年6組の、吉沢愛莉ちゃんだよ。ぼくと同じクラスの女の子」
「ふん」
 お兄さんは目を細めて、ググッとぼくの方へと顔を突き出してきた。
「おまえ、その女に惚れてんな?」
 ぼくはさっきと同じようにまた息をとめた。息をとめたせいなのか、胸のところがキューッと絞られたみたいに苦しくなって、どうしてだか泣いてしまいそうになった。
「来週、愛莉ちゃんが引っ越す前に、絶対にパンケーキをあげるんだ。前に、うちのママの作るパンケーキは美味しいんだって言ったら、今度遊びに行くから食べさせてねって、愛莉ちゃんが言ったんだ。だから……」
 今度なんていつも来ない。
 ママの言う今度も。
 愛莉ちゃんの言う今度も。
「でも、しょうがないよね。ママは今度って言うばかりでちっとも作ってくれないし、ぼくが作っても、それはママが作ってくれたパンケーキじゃないもん。……もういいんだ」
 思い切り唇を噛んだ。そうしないと泣いてしまいそうだった。クルリとオーブンに背を向けて、ぼくは走って台所を出ていこうとした。
 そのとき。

「ちょっと待て」
 ため息まじりの声で、お兄さんがぼくを呼び止めた。振り返ると、お兄さんはもう一回ため息をついた。
「おまえ、その愛莉って子に約束したんだろ。パンケーキを食べさせるって」
「……うん」
「男が一度約束したものは、どんな小さなことでも守れよ」
「でも……」
「おまえがパンケーキを諦めることは、その愛莉って子を諦めるのと同じことだ。男が惚れた女のために何もできないなんてのは、そんなのは、ああクソ、そんなのは……」
 長い沈黙の後で、お兄さんはボソリと言った。
「熱い気持ちのないやつは、オーブンの中の小さな太陽なんかやってられねーさ」
 そう言って、お兄さんはオーブンの中に半分頭を突っ込んでいるパンケーキの材料の入った箱を、まるで材木でもかつぐように持ち上げて、ぼくの方に突き出した。
「さあ、作るぞ。世界で3番目に美味しいパンケーキを」
「―――!」
 お兄さんの言葉を聞いて、ぼくは思わずお兄さんと握手しようとして、危うくお兄さんを握り潰してしまうところだった。

*

「ちょっと、錬司、なによこれ!」
 ママの絶叫にも近い声で、ぼくは慌てて洗面所から飛び出した。さっき愛莉ちゃんの家にパンケーキを届けてきたばかりで、うがいと手洗いをしている最中だった。
「ごめんなさい、ママ」
 後片付けをしている時間がなくて、台所はパンケーキを作ったときに使ったボウルや泡立て器や計量カップがそのまま出しっぱなしになっていた。オーブンも開けっ放しだ。
 シュンとしているぼくの手を、ママはひったくるように掴んだ。顔をものすごく近付けて、何度も何度も見ている。
「火傷しなかった? どこも痛くないわね? 大丈夫ね?」
 その顔はとても心配そうで、真っ先に怒られるだろうと思っていたぼくは、そんなママの顔を見てママに飛びついてしまった。
「大丈夫だよ、ママ。オーブンの中の小さな太陽さんが、作り方も教えてくれたし、とってもうまく焼いてくれたから」
「え?」
「それより、ママ、どてっぱらってどういう意味? オーブンの中の小さな太陽さんが、あんまりナメると、そのどてっぱらに穴が開いちゃうって言ってた」
「錬司……」
 ママはぼくを、まるでマジックテープでも剥がすように引っぺがすと、どうしてだか少し怒った顔をしてぼくを睨んだ。
「どこでそんな言葉を覚えてきたのよ、まったく。ほら、さっさとここを片付けて。じゃないと晩ご飯が作れないでしょ!」
 ぼくのおでこを人差し指でグリグリ突いてから、ママは台所を出ていった。ぼくはどうして急にママが怒ったのかよく分からなかったけれど、とにかく言われた通り後片付けをすることにした。

「おい、なあ、おい、ちょっとツラ貸せよ」
 ぼくが流しでボウルを洗っていると、そんな声が聞こえてきた。振り返ると、いつの間にかオーブンの中からお兄さんが顔を出して、指先だけでぼくを手招いている。
「なに?」
 近付いた途端、お兄さんは歯が痛いようなおなかが痛いような頭が痛いような、そういう顔をしてぼくを見つめてきた。黒い眼鏡はシャツのところに引っかかって、胸のあたりでブラブラしている。
「あんまりママさんに変なことを言うな」
「変なことなんか言ってないよ」
「言っただろ、さっき」
 お兄さんは小声でモソモソ「どてっぱら」と言った。その顔は何かいたずらをして叱られた子どもみたいに、拗ねたような反省したような、そういう色がにじんでいた。
「どてっぱらって、ママに聞いたらいけないの?」
「そうだ。おれが誤解されたらどうする」
「ごかいって?」
「おれが、その、変な風に、なんだ、その、おれの人柄ってものを、ママさんに、悪く思われたらどうしてくれる」
 まるで恥ずかしがり屋の子どもみたいに、お兄さんは指先をいじいじさせている。それに何だか言いたいことを我慢しているみたいに、時々、ピクリピクリと唇が動いている。
 変なの。
 言いたいことがあれば言えばいいのに。それに……。

「どうしてそんなにママのこと気にするの?」
 ぼくが聞くとお兄さんは、
「そりゃおまえ、おれがママさんに、ほ――」
「ほ?」
「………」
 お兄さんは言葉の途中で急に何か、クシャミの発作にでも襲われたみたいに言葉をプツリと切った。そのすぐ後に、髪の毛をぐしゃぐしゃかき混ぜながらオーブンの奥の方へと歩いていってしまった。
 その途中で振り返って「今のは絶対にママさんに言うんじゃないぞ」と言って……。

 その時のお兄さんは、顔も耳もクビのあたりまで"まっかっか"で、本当に小さな太陽のように燃えているみたいだった。



 

 


こんなお兄さんがオーブンの中にいたら、
お菓子を作るのも楽しくなりそうですね。
ちょっとガラは悪いですが。

(2006.10.13)
 

 

 

 

インデックス           小説置き場