「津島、ちょっと宿題見せて」 朝の教室で行われる恒例行事。 僕はポンと顔の前で手を合わせて、机に頬杖をついたまま僕の方をキランと光る眼鏡越しに見上げてくる津島に頭を下げる。ここでの注意点は津島が何か言う前に、絶対に目を合わせないこと。 目を合わせた途端、教師をもたじろがせると噂のあの眼力でチョチョイっとあしらわれてしまうんだ。 「頼む、津島、津島修二郎大明神」 「誰が大明神だ」 トンという物音――に、津島が机の上に宿題のノートを出してくれたものだと思った僕は、いそいそと顔をあげた。ここまでが恒例行事だったからだ。 ところが。 机の上には、さっきまで頬杖に使われていた津島の手が、力なく置かれているだけだった。 「あれ? 宿題は?」 「……やってない」 津島の言葉に僕はギョッと目を見開き、見開いたまではいいけどこの後どうすることも出来ず、とりあえずパチリと大げさに瞬きをしてみた。 そんな僕の見えすいた“神に見捨てられちゃったよどうしようポーズ”を見咎めて、津島がため息のような息を吐いた。 「あのな、夏目」 あっとと、夏目っていうのが僕の名前。夏目“温室育ち”想太郎。ミドルネームは津島がつけてくれた。津島は僕のことを世間知らずだとバカにして遊ぶことを好む。 まぁ津島にかかってしまえば、半径50メートル以内にいる人間はすべてバカにされて遊ばれることを心しておかなければならない。……なんてことを言ったら津島がとても性格の悪い悪童のようだけれど、まぁ当たらずとも遠からずなんて僕は思っている。 それはさておき。 「宿題くらい自力でやってこい」 津島が眼鏡を光らせながら言う。 ぐう。眼鏡がギロチンの刃のように光ったぞ。その眼鏡で誰かの首をはねているんじゃないのか。 そもそも眼力だって並じゃないぞ。小学校の入学式で出会い、意気投合してから6年。日に日に津島の眼力が威力を増しているように思うのは僕だけだろうか。 なんで津島ったらこんなに威圧感があるんだろう。貴様は本当に僕と同じ小学6年生なのか、なんて真顔で聞いてみたいくらいだ。 それはともかく。 「なぁなぁなぁ、津島、どうしちゃったの。おまえが宿題やってこないなんて、もしかして今日って人類が滅びる日とかだったりするの?」 「――夏目、宿題をやらない理由が“人類が滅びること”であるなら、おれは宿題だけじゃなく登校すら拒否すると思うね」 「ギャグにツッコミ入れるなよ」 「ボケ……たこと……を言っているものだとばかり思っていたけど?」 「………」 ぐう。津島“アイスバーン”修二郎、今日から津島のことは心の中でそう呼ぶことに決めた。津島の前では滑りまくり転びまくりで、痛い目に遭うだけってこと。 ……って、そんなことはもう何年も前から分かっているのに、僕って懲りない温室育ち。きっと温室育ちだから、たまには冷たいアイスバーンを経験したいんだな。個人的心情からはあり得ない結論だけれども、現実を見ればそうとでも思うしかない。 「もうこの際、ギャグでもボケでも温室育ちでもアイスバーンでも何でもいいけどさ」 「アイスバーンって何だ?」 「何でもない。そんなことより、津島、おまえ、宿題どうするの?」 「やる気はないよ」 「ないって……」 あんぐり、である。 決してアングラでも餡ころでもなく、あんぐりである。咄嗟に言葉も出てこない。 もうあと10分もすれば教室に先生がやってきて、宿題を集め始める。今からソッコーで写してギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際だ。 それなのに、頼みの大明神にはやる気がござらぬ。ござらぬじゃあどうしようもない。自力? そんなの渦潮だらけの鳴門海峡を犬掻きで横断しろと言われているようなもんだよ。 あちゃあ。どうしよう。 僕が津島の机の前でウンウンともヌウヌウともつかない唸り声を発しているところに、北原さんがやって来た。北原さんは女子のクラス委員長だ。男子の委員長はもちろん、津島。 「津島くん、学級日誌」 「ああ、持ってきてくれたんだ、ありがとう」 ありがとう? 貴様は津島じゃない津島ではあり得ないナニヤツだ――と問い詰めたくなるほど優しい声を出して、津島がニコリと北原さんに笑いかける。 北原さんもニッコリ笑って、回れ右をしようとしたところで…… 「あ、北原さん」 津島が呼び止めた。そのことに、無関係のはずの僕の心臓がドキンと反応する。 「なぁに?」 「ほんと悪いんだけどさ、こいつに宿題見せてやってくれない?」 津島が“こいつってこいつのことなんだけど”という風に僕を指差す。そのことで、僕の心臓は滑稽なくらい慌てた。ドキンドキン鳴っている。 「なっ、なに言ってるんだよ、津島。いーよ、別に」 「でもおまえ、やってないんだろ、宿題?」 「津島だってやってないじゃんか」 「おれのことはいいんだ。やってなくても誰かに見せてくれなんて頼まない性分だ」 「いーんだ、僕のことも」 これは北原さんに言った。どうぞお構いなくってつもりで。 北原さんはちょっと困ったように笑った後で、教室の後ろの方で『〜〜様が』なんて男子には意味不明な言葉を発してキャアキャア言っている女子の集団に合流した。 その後ろ姿を目で追わないようにするのに、僕はものすごく骨が折れた。ポキン。そうじゃなくて、自然に振舞うように最大限努力した。 *** 教室では、先生が机の間を縫うように歩いている。先月、育児休暇を取った担任の代わりにやって来た新しい先生だ。志賀先生。若くて明るくてすぐに人気が出た。 「津島くん、あなたも宿題を忘れたの?」 先生が津島の机の前で止まる。津島はすました顔を先生に向けて、はい、なんて真面目くさった顔で言った。 「しょうがないわね。放課後に宿題を忘れた人みんなで漢字の書き取りよ」 結局、僕を含め数人が、宿題を忘れてきていた。 僕はもう常連にも近かったけれど、津島が忘れてきたということに、少なからず教室はどよめいた。 それもしばらくのことで、先生がいさめるとすぐに授業が始まった。 今度は一転、シーンと静まり返っている。 僕はこっそり北原さんに視線を向けた。先生が黒板に記した数字を、真剣な目で見詰めている。時々ノートにシャーペンを走らせて、チラリと教科書に目を移したりもしている。 それは恐らく、この教室にいるほぼ全員が行う仕種だ。けれども、僕にはそれが特別なもののように映った。 僕はたぶん、北原さんが好きだ。 自分のことなのに“たぶん”を付けたのは、初めて人を好きだと意識したことが、今回が初めてのことのせいだ。 北原さんは優しくてしっかりしてて、他の女子みたいに男子にキツイことを言ってこないし、何より笑顔がかわいい。少しはにかんだように笑うんだ。 それで、これは最悪の予想なんだけれど、北原さんは津島のことが好きなんだと思う。確証はないけど、そんな噂が女子から流れてきたことがあった。 津島も北原さんも学級委員。 学級委員同士。 そういう雰囲気って言うのか、普通のクラスメート以上に仲良くなるのも想像できないことじゃない。 津島って、僕にだけはやたらと厳しいことを言うくせに、他の連中にはとても人当たりが良くて、噂では女子の半分以上が津島に片想いをしているとか何とか。 まぁね、確かに津島は僕から見たって他と違うように感じるよ。じゃがいもの群れの中に高級メロンがまじってる感じだよ。クールだし、大人っぽいし、間違ってもハンカチを忘れたからってズボンで手を拭くようなやつじゃない。 そりゃ僕だってズボンで手を拭かないけれど、言いたいことはそういうことじゃなくって、なんとなく分かってもらえるよね? 僕は、北原さんの席から斜め後ろに座っている津島に目を向けた。 どこか退屈しているような目で、ジッと黒板を見詰めている。いつもの津島のようで、どうもいつもの津島とは違うように思えた。 実は、昨日、見てしまった。 津島と北原さんが一緒に歩いているところを。 ふたりは両思いなのかもしれない。ただ、確証はないと付け加えさせてもらうよ。意地とかそういうことじゃなくて、本当に確証がないから。 昨日はたまたまバッタリ会って、目的地までの方向が同じだから一緒に歩いていただけなのかもしれない。 かもしれない――曖昧になる理由はただ1つ。 津島が北原さんのことをどう思っているのか、それが分からなかった。 *** 放課後―― 漢字の書き取りが、8割くらい終わった頃だったと思う。 「夏目、ちょっと聞くけど、お池様って知ってるか?」 津島が話しかけてきた。 もう漢字の書き取りは終わったのか、僕の前に移動してきてそこに座った。 「いいや、聞いたこともない」 書き取りノートに視線を落としたままで僕は答えた。視界の隅に、津島の軽く握られた右手が見える。 「本当に聞いたこともないのか? 学校の裏手にある池の通称――お池様」 「あ、聞いたことはあったかも」 ペンを動かしながら記憶を探った。確か、教室の後ろでキャッキャとはしゃぐ女子の集団からそんな言葉が流れてきたように思う。 おいけ様。てっきりアイドルかなんかの話だと思っていた。 僕たちの通う学校の裏手には、まだたっぷりの自然が残っていて――残っているというより無理やり残しているというのか、苦労して残していると言った方が正解なんだけど――かなり広い雑木林がある。 その雑木林の中心部に小さな池があった。それがたぶん、件の“お池様”なんだと思う。 「それがどうしたの?」 僕は書き取りノートに目を落としたまま津島に聞いた。 津島は聞いているのかいないのか、僕が書き進む漢字をジィッと見詰めたまま何も言わないでいる。 そのうちに僕も、漢字を書くという単純作業に没頭していった。 そうして、僕が目の前に津島が座っていることさえ忘れかけた頃―― 「夏目、おまえさ、北原さんのことが好きだろ」 津島がいきなり言い出した。 出し抜けのことだったので、僕は“さんずい偏”の3つある点の最後でシャーペンを持ったまま硬直するという、分かりやすいリアクションをしてしまった。 「やっぱりね」 「なっ、なに言ってるんだよ。そんなわけないじゃんか」 大声で言ってしまってから、僕は慌てて教室を見回した。他の居残り組に聞かれたら、明日には噂が広まって大変なことになる。 けれども幸いなことに、教室には僕と津島しかいなかった。みんなさっさと書き取りをすませて帰ってしまっていた。 津島とふたり。 ホッとするようなギクッとするような。 これ以上津島に追及されないようにと、僕はさっきより乱暴になりながらも急いで漢字を書き始めた。 津島も別段追及する気はないのか、口を閉じたまま立ち上がると、そのまま教室を出て行く――寸前で、思い出したように言った。 「お池様を覗き込みながら、好きな人の名前を3回唱えると、両思いになれるらしい……」 *** なぁんだ、それ。 おまじないとか言う類のものだろ? 信じない信じない、バッカみたいだもん。 ――なんて思いながら、どうして僕は今“お池様”の前に立っているんだろう。 しかもキョロキョロ辺りを見回しちゃってさ、これじゃあ、これから好きな人の名前を言いますよー恥ずかしいからあんまり大きな声じゃあ言えないのでちゃんと聞いてくださいよーってお池様にアピールしているみたいじゃんか。 ぐう。僕には夢遊病の“ケ”もないはずなのに、どうしちゃったんだ。ああ、摩訶不思議。これこそおまじないパワーだったりして? なにはともあれ。 お池様の周辺は、さすがに雑木林の中心部だけあってまだ日暮れまで時間があるにもかかわらず微妙に薄暗い。でもお池様の上にだけは当たり前だけど木が生えてないから、そこから日差しが降ってきて、水面を光らせている。 ああ。僕、ナチュラルにお池様って呼んでる。 なんでただの池に“様”なんて付けて敬っているんだ。 たぶんきっと、このお池様の周辺に漂うなんとも言えない雰囲気に、神聖なものを感じているんだと思う。現代っ子の僕なのに。 まぁ恋する現代っ子なんてそんなもの。 すがれるものには何にでもすがりたくなるものさ。そうさそうさ。未だに受験生が絵馬を奉納するのと同じこと。気休めさ。 気休めと言いつつ、ちっとも気が休まりそうもないほど心臓をバクバクさせて、僕はお池様を覗き込んだ。 予想していたより水が濁っていて、深緑色の藻がユラユラ揺れている。 深呼吸を1回。 もう1回。 さらに1回。 息の吸いすぎなのか吐きすぎなのかよく分からないけれども、頭がクラクラしてきたところで、僕は言った。 「北原さん北原さん北原さん」 シィンとしていた。 水の中から妖精が現れて、あなたの願いはちゃあんと聞きましたご安心なさいな、なんて言うわけでもない。 きっと名前を言えた安堵のせいなんだろうけど、ほんのちょっとの肩透かし感を味わいながら、でもそんなもんだと現代っ子ならではの諦めの良さを発揮して、回れ右をした瞬間。 たぶん僕は、死んだと思う。 もちろん、気持ちの上で。 あんまりにもビックリしたもんだから。 ――――津島が立っていた。 一瞬の気持ちの上での臨死体験を味わった僕は、今度は甦生するために様々なことをまた一瞬で考えた。 なんでおまえがココにいるんだ、さてはおまえも北原さんのことが好きなんだな、騙したな、デマだったのか、手の込んだことを、卑怯だぞ。 考えと共に様々な言葉が僕の頭に浮かんだ。けれども、僕はその中のどれ1つとして僕の外に出すことが出来なかった。 無言のまま突っ立っていた津島は、無言のままスタスタとこっちにやって来る。梢をすり抜けた太陽の光が、津島の眼鏡をピカリ、ピカリ、と光らせた。まるで稲光のように。 津島は僕の隣までやって来ると、特に表情も変えないで池の中を覗き込んだ。 あっ――と思った瞬間。 「志賀先生……志賀先生……志賀先生」 わざとゆっくり言っているとしか思えないほどのスローなテンポで、津島がお池様にその名前を告げた。 僕はポカンとしてしまった。 ポカンとした僕の隣で、津島がニヤリと笑った。 「おれはね、叶わない恋に身を焦がすのが好きなヘンタイなんだ」 その津島の言い方があまりにもサッパリしていたものだから、僕は思わず吹き出してしまった。 「と言うことは、お池様はデマなんだな?」 「知らないよ。女子がそんな話をしているだけさ。でもまさか、夏目が本気で言うとは思ってなかったから、仕方なくおれも白状したけど」 「なにが仕方なくだよ」 この、この、この、と言いながら、僕は隣に立つ津島の肩を叩きまくった。僕の顔には笑みが浮かび、津島の顔にも笑みが浮かんでいた。 お池様は水面を揺らすこともなく、静かに静かに佇んでいる。
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| 小学生の頃、変なおまじないが流行ってました。 中には、おいおい異物混入だろうみたいな キワドイものまで。 こういうおまじないの類って、 根拠も何もないからこそ惹かれるものがあるのかな。 (2005.03.03) |
| この作品を手直ししたものが Web Publishing AZUSA さんのライブラリーに収蔵されました。 |
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