日曜日に新しい眼鏡を受け取りに行った。駅前に新しく出来た眼鏡店に。 前のものは視力の低下と共に合わなくなってきて、もう何ヶ月も前から買い替えを考えていた。 そんな折に、セールののぼりを見つけた。オープニングセール。渡りに船とはこういうことだ。 今日、その新調した眼鏡をかけてみた。 そのせいだろうか。 同僚の谷口の頬に、赤い“ボタン”が見えるのは……。 「おい、永田、なにジロジロこっち見てんの。朝礼中、朝礼中、前向けって。部長が睨んでるぞ」 肘で突付かれて、ハッと前をみる。 吉岡部長、営業部の“鬼太鼓”とはこの人のことだ。――と言っても、決して煎餅のことではない。 佐渡の有名な祭りからきているのであって、凄まじい形相の鬼が身を震わせ髪を振り乱し太鼓を打つ姿、それが営業部の若手を怒る吉岡部長とソックリだということから、そのあだ名がついた。 話をする時、営業マンらしく身振り手振りが大きいことも、そのあだ名に拍車をかけていると思われる。今も手を振り回しながら、先月の営業成績について怒鳴り散らしている。 成績が良くても怒鳴る、悪くても怒鳴る。 その声の調子が良い時と悪い時では微妙に違うのだと、同僚の谷口は言うのだが、私にはまったく読み取れない。 「永田!」 とうとう怒鳴られて、私は知らず知らずの内に谷口に戻してしまっていた顔を前に向け、ピィンとしゃちほこばった。永田部長が太鼓の代わりに私の報告書を叩きながら、鬼の形相で歩いてくる。 「よそ見なんかする暇があったら、報告書の見直しでもしろ。なんだこれは。幼稚園児か、おまえは。誤字脱字が多すぎる」 「はッ!」 すみませんと頭を下げようとした私の目に、部長の広すぎるおでこに鎮座する真っ赤な“ボタン”が―― 思わず見入った私の頭を、部長は報告書で叩いてきた。 「春だからってボヤボヤしてると、先週入ってきたばかりの新人にも抜かれるぞ、おまえ!」 「はい、申し訳ございません、やり直します!」
“ボタン”と言っても、色々あるだろう。今ここで言っているのは、洋服に縫い付けられているボタンのことではなく、スイッチの意味を持つボタンだ。 「あのさ、おまえ、大丈夫か? ノイローゼ?」 昼休みの食堂。同僚の谷口が私の顔を見詰め返してくる。 しまった。私はまたジロジロと谷口の頬の“ボタン”を凝視していたようだ。 「いや、ちょっと疲れが……」 ゴニョゴニョと誤魔化しながらも、また私は谷口の頬についている赤い“ボタン”に目を戻した。 この“ボタン”……何かに似ていると思ったら、非常ベルのボタンに似ているのだ。赤くて丸くて、少し硬質に光るところも、その大きさも。 しかし何故、そんなものが谷口の頬に……? そしてまた、部長のおでこにも……? 「あ、谷口さん! 先週貸した千円、返してよ」 食堂に入ってきた女子社員が、谷口を見つけて走り寄ってきた。逃げようとする谷口の腕を、ガシッと捕まえて逃がさない。 「悪い悪い、また今度な」 「もー、また今度また今度って、前もそう言って結局返してくれなかったじゃない! 永田さんも何とか言ってくださいよ、このバカ男に!」 「え? ああ――」 顔を上げた私は、怒っている女子社員の頬に真っ赤な“ボタン”を見つけ、一時停止してしまった。 「永田さん?」 「い、いや――あの」 周囲を見回す。 食堂に並ぶ社員のほとんどに、“ボタン”がついていた。ある者は谷口や女子社員と同じく頬に、ある者は部長と同じようにおでこに、ある者は首の横に、ある者は腕まくりしたその肘近くに、ある者は手の甲に。 「永田さん? 大丈夫ですか……?」 女子社員の心配そうな声に、私は答えることができなかった。
これはやはり眼鏡のせいなのか。 夕方、社に戻って報告書のやり直しをしている私は、無意識に顔の横にある眼鏡のフレームを指でなぞっていた。 せっかくだからコンタクトレンズにしたらという声を振り切って、やはり眼鏡にしたのだった。コンタクトレンズより眼鏡の方が、手入れが簡単だ。その理由に尽きる。それに眼鏡が好きな娘さんも多い。 営業マン。それくらいのサービス精神は欠かしてはならないと思ってきた。 けれど…… 顔を上げると、厳しい表情で書類をチェックしている吉岡部長が目に入った。そのおでこで硬い光を発する“ボタン”が。 ――そうだ、眼鏡を外してみよう。 私はそっと眼鏡を外した。――が、視力の悪い私にとっては、その瞬間から世界は水でにじんだようにしか見えない。むろん、“ボタン”の有無など確認しようもなかった。 ある程度予測していたこととは言え、ガックリと項垂れてしまった。 ――そうだ、眼鏡のレンズを拭いてはどうか。 レンズがくもっているのかもしれない。私はポケットから眼鏡ふきを取り出して、いつも以上にレンズを拭きまくった。 そして再び装着。 「………」 “ボタン”は部長のおでこに鎮座したままだった。 そんな調子で、集中力とは無縁の状態の私を呼びつける声がした。 「永田! 報告書の直しは?」 「はッ」 私は報告書を持って立ち上がった。吉岡部長のデスクの前でしゃちほこばって、恐る恐る報告書を提出する。 それを一瞥した部長は、スウッと息を吸い込んだ。 「あほんだら、永田、おまえ、今朝の話を聞いてなかったのか!」 部長はカンカンだ。 「すっすみません!」 「すみませんじゃねえ、ばっかやろう、直す前より悪くなってるじゃないか!」 報告書を指先で叩きながら、部長が鬼の形相で怒鳴ってくる。鬼太鼓が始まった。こうなると20分は解放してもらえない。 私は部長のデスクの前に立ち、ひたすら「はッ」と「すみません」を繰り返した。それも最初の5分で限界だ。 私の目は、どうしても部長のおでこに吸いつけられる。 ――押したい。 いかんいかんいかん、駄目だ駄目だ駄目だ。 ズボンの横で、ついつい人差し指だけを真っ直ぐに伸ばしていた。何を馬鹿なことをしようとしているんだ、私は! 全神経を使ってグッと握りこぶしにする。 「聞いているのか、永田!」 「はッ」 油断すると、またすぐに人差し指がニュッと突き出てしまう。 私は部長の話に集中しようとして、しかし顔を見ないわけにもいかず、顔を見ればどうしてもおでこのボタンに目が行ってしまうわけで、そうなるともうどうにもこうにも気になって話に集中するどころではない。 大体おかしいじゃないか。 どうして人のおでこに、こんな“ボタン”がついている。必要なのか。何のためのボタンだ。押すためじゃないのか。 ――押したらどうなるんだ。 そうだ、それが気になる。 もしかしたら、この“ボタン”を押すことで、鬼太鼓の状態を解除できるのかもしれない。もしくは、部長に何らかの変化をもたらすものかもしれない。 ああ、気になる気になる気になる。真っ赤な“ボタン”、何故ここまで赤い。赤いから余計に目に付くじゃないか。何故だ。何故なんだ。 何故この形状のボタンは、人の『押してみたい』という欲求をここまで掻き立ててくるんだ。 赤いボタンをおでこに張り付けたような状態で怒鳴られたって、集中できるものか。 「なっ―――!」 吉岡部長が目を見開く。 ハッと我に返った。 ついに。 ついに私は、部長のおでこの“ボタン”を押してしまった。 その瞬間――― 「なーーがーーーーたーーーーーーーっ!」 吉岡部長は今まで見たこともないような形相で私を怒鳴った。今までの鬼太鼓なんて子供のお遊戯会レベルに思えるくらいだ。 「もっ申し訳……」 「ふざけるのも大概にしろっ!」 吉岡部長の剣幕の前に、私はひたすら首を縮めて、ひたすら謝罪の言葉を並べた。 どうやらあの“ボタン”、不用意に押してはならないボタンであることは、まず間違いないようだった。 |
| ボタン、ああ、ボタン。 どうしてあなたはボタンなの。 オマケも用意してみました。楽しんでいただけると 幸いです。 (2005.04.16) |
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