〜不機嫌トーマス〜 トーマスはここのところ機嫌が悪い。 彼は常々自分の名前に疑問を持ち、周囲の人が名前を呼ぶだけで癇癪を起こす。 「トーマスだと!」 俺は機関車じゃない。灰色の不気味な笑みを貼り付けて走れと言うのか。冗談じゃない。 しかし彼の母親は彼に言う。 「違うわ、トーマス・エジソンからいただいたのよ」 「ふん、だったらエジソンと名付ければ良かったのだ!」 トーマスは、エジソンが数々の名誉とは裏腹に、人格に問題があったことを知っていた。 気難しくて怒りっぽく、人のアイデアを盗み、変人、奇人、冷酷。 そんな人物から名前を貰わなくたっていい。トーマスは母親にその話を聞くたびに怒った。 自分の性格がエジソンそっくりになったのも、この名前のせいだと! しかし、最近のトーマスの機嫌の悪さはそのこととは別だった。 「トーマス」 名前を呼ばれて振り返ると、いつも彼女は笑っている。先月近所に越してきた娘。 トーマスが前を通るたびに親しげに呼びかけてくる。 トーマスは激しい怒りを覚えるのだが、どうしても彼女に名前を呼ぶなと言えなかった。 あの癇癪持ちのトーマスが。 「トーマス」 なぜ、自分の名前はトーマスなのか、彼は彼女に名前を呼ばれるたびに忌々しく思った。 「トーマス」 ……ス。 「トーマス?」 ……ス。 まただ、まただ。ススススススッス! なぜ俺の名前は語尾が『ス』なんだ! 彼女が名前を呼ぶたびに、その桃色の唇がやわらかく中央に寄って、すぼまる。 まるで「ラブ」か「ジュテーム」と言い終わった後のように。 そしてそれは我慢ならないほど、トーマスを駆り立てるのだ。 ―――キスでもしなければならないように。 「トーマス?」 「ええーい、うるさいうるさい!」 トーマスは彼女の前から走り出す。顔も耳も頭もすべてをカッカとさせながら。 それはさながら蒸気を噴き出す機関車のようでもあったし、恋する者のそれでもあった。 〜憂鬱トーマス〜 トーマスはここのところ憂鬱だった。 彼はたいていいつでも不機嫌ではあったが、憂鬱となるとそれとはまた別だった。 「メアリーってさ」 最近、どこへ行ってもその名前を聞かないことはなかった。誰も彼もメアリーメアリー。 その名前を聞くたびに、トーマスは訳もなく憂鬱になるのだ。 「ふん、どいつもこいつも軟派者め。女の話しかできないとはな、まったく」 トーマスは強がってみるものの、さりとて胸から憂鬱の虫が飛び去ってくれることはない。 それはまるで夏の盛りに鳴き嗄らすセミのようにうるさかった。 「なぁ、いいだろ、メアリー」 その名前に、思わずトーマスは振り向いた。道にふたつの人影があった。 ひとつはトーマスの良く知る人影だった。彼は我知らず、そちらに足を向けていた。 「まあ、トーマス」 彼女はいつものように、桃色の唇をやわらかくすぼめて、彼の名前を呼んだ。 もうひとつの人影はトーマスの知らない人物のものだった。が、向こうは知っているようだ。 「なんだよ、トーマス、文句でもあんのか?」 男に睨まれて、トーマスは眼鏡のフレームを押し上げながら、相手に顔を近付けた。 「会話の第一の要素は質実、第二は見識、第三は快適、第四は頓知である。汝自身を知れ」 相手がポカーンとしたところで、トーマスはフンと鼻で笑った。 「テンペルとソクラテスの残した名文句だ。恐れ入ったろ」 「まあっ」 鈴の音のように軽やかな笑い声が響いた。メアリーが楽しそうに笑い出す。 不利を感じたのか、男はトーマスを睨みつけ、小声で何事か捨て台詞を吐いて去った。 「どうもありがとう、トーマ……」 急にメアリーが唇を押さえた。トーマスは己の胸の内を見抜かれたようにギクリとした。 しかしメアリーは言う。 「あなた、名前を呼ばれることが好きではないんですってね。あなたのお母様から聞いたわ」 なにを余計なことを! トーマスはおしゃべりな母親に、心の中で思いつく限りの雑言を投げつけていた。 しかし、彼を不愉快にさせたのは、そのことだけではなかった。 「きみは、俺の口から聞いてもいないのに、そんなことを言うんだな」 なぜかトーマスは裏切られたような気分だった。胸が苦しくてやりきれなかった。憂鬱。 それとは何か違う気持ちでもあるのに、彼にはその言葉でしか表せなかった。 しかしメアリーはどこか楽しげに言うのだ。 「米国では、トーマスのことをトムと言うらしいわ。今度からそう呼びましょうか」 「トムだって!?」 「ええ。どうかしら、トム」 ……ム。 ムムムムムムッ。またしても、彼女の桃色の唇がやわらかく中央ですぼまる。 トーマスは頭をかきむしり、憂鬱を何倍にもして叫んだ。 「ええーい、そんなことじゃないんだ!」
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| 日記で書いた小さな物語を、加筆修正しました。 名前に対する想いって色々ありますよね。 いつかトーマスが自分の名前と同じように、 自分の素直な心も受け入れられますように(笑) (2005.07.15) |
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