「コーヒーないの?」 その言葉に思わず振り向いた。カウンターに、外まで続く長い列。オフィス街のカフェは、飲み物を買い求めるスーツ姿の人間たちでごった返している。 「すみません、只今売り切れてしまいまして」 見るからにアルバイトと分かる10代後半の娘が、叱られた犬のようにションボリと頭を下げた。最初に声をあげた人物が、小さく舌打ちをする。 「あの、あと10分少々お待ちいただければ」 「そんなに待てるわけないだろ、こっちは忙しいんだ」 何か火傷の跡がピリピリと引き攣れるような、そんな声。薄く醜い空気が満ちていた。 ボクは、立ち去ろうとしていた足を、その苛立った声を出した人物へと向けた。 「どうぞこれを。ボクは10分待ちますから」 手に持っていたカップを、30代前半と思えるスーツ姿の男に差し出した。相手は怪訝な顔をしてボクを見詰め返してくる。 「大丈夫、口はつけていません、あなたのすぐ前に買ったものです。最後の1杯ですよ」 ボクが微笑むと、相手はますます怪訝な顔をした。左眉と右眉をこれ以上なく近寄せて、ボクを無遠慮に眺め回す。 しばらくして男の視線がカップに注がれた。白く湯気を立てるカップ。その香りに負けたのだろう。 「じゃあ」 なんてモゴモゴと言いながら、ボクの手からカップを奪うようにしてその場を去った。 「あの、すみませんでした」 消え入りそうな声がカウンターの奥から届いた。アルバイトの娘。さっきよりももっとションボリとしてボクに頭を下げてくる。 「なに、気にすることはありません。待てないことなんて、何もないんです。本当は飲み物なんて、何でも……」 中途半端に途切れた言葉に、アルバイトの娘が小首をかしげた。ハッとして微笑みを向けると、相手もホッとしたように微笑を返してきた。 「あの、もしよければ、これを。サービスです」 そう言って、アルバイトの娘が差し出してきたのは、ふっくらと焼きあがっているマフィンだった。カップから盛り上がるモコモコした生地、昔ながらのケーキ風のマフィン。素朴さを感じさせるビニールのラッピングに包まれていた。 「あの?」 戸惑った声を出されて、我に返った。 =**= あの日。 それは8月に入ったばかりの日曜日だった。外はうだるような暑さで、室内ではエアコンが唸るような音を立てて冷風を吐き出している。 ボクは焦っていた。 疲労はピークに達し、目を閉じれば1分もたたない内に眠ってしまっていただろう。もう4日も満足に眠っていなかった。 机に向かっているボクに、彼女がそっと近付いてきた。 「ねえ、大丈夫なの、少し休んだら?」 何がボクをそうさせたのか、それはもう焦りとしか言いようがない。 「休む暇がどこにあるんだっ! これは月曜日に、何があろうと月曜日に届けなければならないんだぞ。おまえ、今日が何曜日だと? 日曜だぞ、今日は。どこに休む時間があるんだ。えっ?」 怒鳴ってからも、怒りは治まらなかった。 ボクは手近にあった本を掴むと、壁に投げつけた。ドンという音に、彼女の肩が驚いた猫のように跳ね上がる。 「ごめんなさい、邪魔しちゃって」 スゴスゴときびすを返す彼女に、ボクはかける言葉を持たなかった。そんな余裕はなかった。すぐにイライラした気持ちを無理に押さえ込んで、机に向かった。 ボクは売れない作家だった。 1冊だけ本を出して、それ以来、どこに持ち込みをしても断られるマイナー作家。仕事を選んでいたわけじゃない。才能がなかった。 自分でも悔しいくらいに分かっていた。 ボクよりも若い新人が何か大きな賞を貰ったというニュースを聞けば、深夜、布団の中で歯を噛み締めて悔しがった。 負けるものか、負けるものか。 そう思う反面で、もう何もかも投げ捨てて楽になりたいと思った。楽になる、つまり、筆を折るということ。ボクの心の半分はもう諦めていた。自分で自分自身を見限っていた。 そんなボクに、チャンスが訪れた。 懇意にしていた編集者が、小さな仕事をくれたのだ。読みきりの短編を書いてみないかと。 読みきりだろうが短編だろうが何だってよかった。仕事が入った。物語を書ける。その喜びに、1週間は心が踊った。 けれど。 次第にボクの心は曇っていった。 これが最後のチャンスかもしれない。これで結果を出せなければ、本当に駄目になるかもしれない。ボクの心を臆病風が吹き抜ける。 そんなボクを励ましてくれたのが彼女だった。 『大丈夫よ、わたしにいつも話して聞かせてくれるような、楽しい物語を書いて』 ボクが、自分自身でさえ見限っていた才能を、彼女だけが大切に守ってくれた。信じてくれた。愛してくれた。 何とか、何とかして、彼女の想いに応えたかった。 ボクは猛然と机に向かい、ボクの全てを注ぎ込める短編作りに取りかかった。だが、日にちは刻々と過ぎていき、文字は書いては消されの繰り返し。 机に向かい、何千回目のため息をついた時だろう。 ふと、甘いにおいに気付いた。そう言えば、昨日から何も食べていない。腹のあたりから小さな文句がグゥと聞こえ、ボクは机から離れた。 台所で、彼女がマフィンを皿に並べていた。 「あ、今呼びに行こうかと思っていたの」 ボクに気付いた彼女が、ニッコリと笑みを見せる。さっき怒鳴られたことの屈託を、微塵も感じさせない笑顔だった。 「疲れた時には甘いものがいいって、よく聞くから」 ほらほら座って、と背中を押されてテーブルにつく。マフィンの甘いにおいが強くなった。ひとつ、手に取ろうとしたとき。 ボクはテーブルを見回した。 「コーヒーはないの?」 「あ、ごめんなさい」 彼女は戸棚に向かい、いつもコーヒー豆やインスタントの瓶を入れている棚をゴソゴソしてから、慌ててテーブルに置いてあった財布を掴んだ。 「切れてるみたい、買ってくるわ」 「ったくもう!」 ボクはテーブルを叩いて立ち上がった。彼女は一瞬だけその場で身を縮めたけれど、「すぐに買ってくるから」と言い残して台所から飛び出していった。 再び机に向かって物語を書いては消していたボクが、彼女の帰りが遅いことに気付いたのは、それから3時間も経過してからのことだった。 急に、何もかもを覆い尽くすような真っ黒い不安に襲われた。 ふと外を見れば、どしゃ降りになっている。 「何やってるんだよ」 もしかしたら戻っているのかもしれないという望みから、台所を覗いた。彼女の姿はない。念のため、家の中を彼女の名前を呼びながら探した。どこにも彼女の姿はなかった。 机に向かい、イライラと指で表面を叩いた。 何をしているんだよ。こんな時に。コーヒーなんかどこにでも売っているじゃないか。どこまで買いに行っているんだよ。 まさか。 それは真っ白い布に落ちたインクの染みのように、突然ボクの胸を暗くさせた。 「まさか……」 最悪の場面が頭を駆け巡る。 いてもたってもいられなくなり、ボクは椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がると、家を飛び出した。どしゃ降りの中、彼女の名前を呼んだ。 灰色に煙っているような町並み、暗く沈んだ路地、バタバタと雨が自分を叩く音だけが耳にこだまする。 まさか、まさか、まさか、まさか。 =**= 「あの?」 手に持ったマフィンをややボクの方に近付けて、アルバイトの娘が顔を覗き込んでくる。覗き込まれて、ボクは小さく首を振った。 「いえ、甘いものは苦手なので、結構です」 「そうですか」 アルバイトの娘は、ビニールでラッピングされたマフィンを、カウンターのかごの中に詰められたマフィンの山に戻そうとした。山積みのマフィン。それを見て、ボクは気が変わった。 「やっぱり」 「え?」 「せっかくなので、いただきます」 ボクの言葉に、アルバイトの娘は笑みを見せた。明るい、夏空にも似た笑顔だった。 マフィンを受け取り、ちょうど出来上がったコーヒーを手に、ボクは空いている席に座った。窓際の観葉植物の隣の席だった。 白くやわらかい湯気を立てているコーヒー。その香り。 けれどボクの手は、マフィンの入ったビニールへと伸びた。かわいらしい赤いリボンを解き、ビニールをあける。 途端に。 ふわりと、甘い甘いにおいが鼻先をくすぐった。あの日、あの時にかいだ、あのにおいと同じ。 「………っ」 ボクは片手で両目を押さえた。そうしたからと言って、記憶の映像を消せはしない。 あのとき、どうしてボクは『コーヒーはないの』なんて聞いたのだろう。何だって良かったじゃないか。コーヒーがないのなら、別のもので良かったじゃないか。 そう、あのときだって、心の中ではそう思っていた。 それなのに、その言葉を口に出せなかった。 気持ちが苛立って、ボクはそれを彼女にぶつけていた。ボクの才能を信じてくれた、たったひとりの理解者だったのに! 最後に残った1口分のコーヒーを喉に流し込むと、ボクは席を立った。オフィス街のカフェは、同じようなスーツを着た人間たちで溢れている。ボクもその一員だ。 今、ボクは普通の勤め人をしている。毎月給料を貰い、土日だけ休む。決められた毎日、決められた生活。 けれど、ボクは今、物語を作っている。ボクの全てを注ぎ込める、楽しい物語を。 あの日、事故に遭って以来、ベッドで昏々と眠り続ける彼女のためだけに。 いつか目覚める彼女のために。 ボクは信じている。 彼女はきっと、またいつかボクの物語をくすくす笑いながら聞いてくれる。その日が来るまで、ボクは筆を折らない。 決して。
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| あなたの喜ぶ姿が見たくて。 ただそんな想いに押されて物語を作っています。 すべての読んでくださった方へ。 感謝を込めて。 (2005.08.02) |
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