僕らの唇は物憂いよ。 言葉が空回りするだけで、女の唇みたいに赤く色付くことはない。 もしも、 僕が僕の唇を、女の唇みたいに赤く赤く染めたくなったなら―― その赤く色付いた唇を、色が移るまで強く吸うか、 誰かと、唇をザックリ切るほど殴り合うしかないんだ。 そうだろ? *** 「いってらっしゃい」 午前7時53分。 寒椿のような鮮やかな唇が、半円形にパッと咲く。口元にフワリと舞う白い息は、人工的に着色されたものだ。 煙草を吸いながら、あの人が声をかけてくる。 毎朝、午前7時53分、学校へ行く僕が通るたびに。 「学生さん、しっかりお勉強するのよ」 通学路の脇に建つ古い一軒家、そこにあの人が越してきたのは、ちょうど今から1年前のことだった。 茶色の長い髪、派手な服装、真っ赤に塗られた唇に煙草をはさんで。 顔を合わすと声をかけてくる。からかわれているだけだと分かっていても、僕には無視できなかった。 「……いってきます」 僕がどんなに小さな声で呟いても、あの人には聞こえるらしく、またあの寒椿のように鮮やかな唇を咲かせる。 「いってらっしゃい、今日も元気にイイ子でね!」 赤く赤く色付いた唇。 毒々しいほどに赤い。 どうしても、無視できなかった。釘付けになる。見たら見たで、身体の内側を、のったりとナメクジが這っていくように感じた。 これは衝動じゃない。 僕はたぶん、あの人が好きなんだ。 *** 学校の中庭の隅に植えられているのは、山茶花。薄桃色の花をつける。その周囲を、僕と同じ制服を着た生徒が走り回る。 「やだー、信じらんない」 「もー、チョームカツクんだけどー」 「あはは、あはは、バッカねー」 あいつらの唇も、山茶花と同じ薄桃色。うすべったい、勢いだけの言葉を、無限とも思えるほど吐き出す。 「ねぇ、ちょっと、ここじゃ誰かに見られちゃう」 うるさい。うるさい。うるさい。 薄桃色の唇、いつから不満に思うようになっただろう。いつから物足りなくなっただろう。いつからこんなに、苛立つようになった。 どんなに唇を合わせても、少しも鮮やかに咲けない。 「ごめん、もー、いーや」 「えっ?」 彼女の顔の上に、夢想した。――赤い唇を。ここに赤い唇があったなら、僕は、途中で萎えることもなく、ただ気持ちの赴くままに唇を重ねただろうか。 答えはきっと、イエスだ。 今の僕が欲しいのは、ただ赤い唇。それだけ。 *** 午前7時53分―― 「………」 あの人の姿がなかった。僕は腕時計を見て、それから首をねじった。どこに咲いているのか、赤い唇を求めて。 そのとき、建物の裏手から声が流れてきた。 ほとんど無意識のうちに、声の方へと足が進んでいた。 「なによ、あんたも他の男と一緒ね、金を吸い取るだけ吸い取って」 「うるせーな」 あの人がいた。それに大柄な男。2人は激しく口論し、もみ合っていた。あの人の茶色い髪が揺れる。赤い唇が、怒りに咲く。 男が腕を振り上げた。 「お前なんかと、本気で付き合ってると思ってたのか。この――」 僕は気付いたら走っていた。 あの人の前に、腕を振り上げた男の前に。 ガツン――という衝撃があった。 「なんだ、こいつ……ッ」 「やだ、学生さん」 あの人の驚いた声が、いつもよりずっと近く、至近距離で聞こえた。その、ちょっとかすれてハスキーな声が。 「うわああっ!」 無我夢中で男に掴みかかった。男は油断していたのか、頬に一発くらってから、このガキと声を張り上げて殴りかかってきた。 「ちょっと、やめて、やめてよ。この子は関係ないんだから」 あの人の声が聞こえた。 真っ赤な唇が、僕のために咲いていると思った。 「チッ、胸くそ悪い」 男は僕の顔という顔を殴り尽くして、傍に唾を吐いて立ち去った。あとには、顔中をアザだらけにした僕と、真っ赤な唇を小刻みに震わせるあの人。 「バカね、学生さん」 あの人の指が伸びてきて、僕の唇から流れた血をぬぐった。ほんの少し、節くれだった指で。 「バカよ、学生さん。あたしみたいな、中年のオカマなんかのために殴られて」 あの人の赤い唇が震えていた。 泣いていた。 僕は、その濡れた赤い唇を綺麗だと思った。口付けたいと思っていた。 今、僕の唇も赤い。 赤い赤い、唇同士だ。
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| アヤシイ物語が書きたかった……。 毎朝会う人、顔を見る人が気になるお年頃って、 実はとっても残酷な恋のお年頃。 (2004.11.28) |
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