黒雲が、のたりぐたりと薄気味悪い魔物のように大地へと近付いてくる。 終焉の時が迫っていた。 誰もが空を指差し、恐れと慄きを胸に、古来より住み慣れた故郷を後にしていく。 「ちあき!」 荒れ狂う風に乗って、いとこの夏郎の呼ぶ声が聞こえた。ちあきは顔を上げて、精悍さの中にまだ向こう見ずな若さを宿した夏郎を迎えた。 「行こう、もうここは駄目だ」 先週、ようやく成人したのだっけ。 ちあきは先週の晩に執り行われた夏郎の成人の儀式を思い出していた。晴れやかな顔で踊る夏郎の両親、山ノ谷にひっそりと咲く紫の花で作られた花冠をつけた夏郎、その周囲には島の人たち。 誰もが笑顔で、未来を見詰めていた。 それが……。 「私は行かないわ」 岬の突端に立ち、ちあきは海を見詰めていた。海底がかき回され、薄茶色に濁った海。地の底から這い上がろうとする悪魔の咆哮のごとき風の音。 ちあきの長い黒髪は、右に左になぶられて、今にも引きちぎられそうだった。 「何を馬鹿なことを。行くぞ」 ちあきの言葉を一笑に付し、夏郎がちあきの手を強引に引いた。その手を振り払い、ちあきは決然と言った。 「行かないわ。どこにも」 ちあきの瞳は夏郎を映してはいなかった。その瞳は確かに夏郎に向けられてはいても……。 もうずっとずっと長い間、ちあきは誰もその瞳に映すことはなかった。見てはいても、映してはいなかった。 「まだあいつを待っているのか」 夏郎はその言葉を憎しみで噛み砕くように言った。噛み砕いたことで、何かその言葉に苦味を感じたのか、ペッと地面に唾を吐く。 それから、言葉を続けた。 「あいつはもう戻ってはこない。島を出た男のことなんて忘れろ。それにあの男はおまえを裏切ったんだ」 風がちあきの長い髪をなぶる。それ以上に夏郎の言葉が、ちあきの胸を強く乱暴になぶった。 幼い頃のことだった。 ちあきは父親の連れてきた男に興味を持った。島の誰とも似ていない顔立ちの中に、薄茶色の瞳、高い鼻、薄い唇を配していた。男の持っているものは、ちあきの見たこともないものばかりだった。 だが、特にちあきを驚かせたのは、この男が、島の男たちと違い、女や子供と遊ぶことだった。 島では、男は海の衆、女は山の衆として、家庭を築くまでは距離を置くように教えられていた。 ちあきは男に淡い想いを抱いた。 しかし、それはちあきだけではなかった。島の女はみな、気さくで優しい男に恋焦がれた。その中には、ちあきの妹も含まれていた。 ちあきは島の実力者、灯台を代々守ってきた家柄の娘として大事に育てられた。1つ年下の妹のちふゆもそうだった。 2人は島でも有名な仲良し姉妹だった。 ところが、男が島にやって来てから、5年の歳月が流れた頃だった。 ある朝、忽然と、男が姿を消したのだ。 船が一艘なくなっており、船着場からは、ちあきの妹、ちふゆの変わり果てた姿が見つかった。 その上、ちあきの家に代々伝わる灯台の鍵が盗み出されていた。 ちあきの父親は怒り狂った。 大事な娘を失い、灯台の鍵も失ったのだ。そのあまりの怒り、失意によって、島民の誰も信用しなくなった。島民は、鍵を壊して新しく付け直すか、島の反対側に新しい灯台を作ろうと進言したが、ちあきの父親は頑として首を縦に振らなかった。 次第に、ちあきの家は孤立していった。 そんな中、ちあきのいとこでもある夏郎の家が中心となり、島の反対側に新しい灯台を作った。そのことが原因で、ちあきと夏郎の家は半ば断絶状態が長く続いてきた。 ちあきの家は完全に孤立していた。2年前、ちあきの両親が相次いで他界するまで。 「私はたったひとりになってしまったのよ。そのうえ、故郷まで失うの」 ちあきは嵐の中で言った。頭上には、あの日から灯ることのない灯台が、黒い巨体を空に伸ばしていた。 まるで花をつけない古木のように。 「新しい土地でやり直せばいい」 その夏郎の言葉に、ちあきは首を横に振った。やり直せるくらいならば、両親が他界してすぐに土地を離れていた。けれど、ちあきはそうしなかった。 この頑固さは、父親譲りなのだと意識した。 「もう行って、夏郎。きっと、おじさまもおばさまも心配しているわ。あなた、成人したのだから一族の男としての務めを果たしなさい。両親を支え、幼い弟妹を守って」 ちあきのその言葉が呼んだわけではないだろうが、夏郎の下の弟が夏郎を心配してこちらに走ってくる姿が見えた。風で煽られ、ヨロヨロしながら。 雲は黒く、どこまでも黒く、空を埋め尽くし太陽を覆い隠し、島の終焉を告げていた。 残酷なまでに、はっきりと。 「本当に、ここに残るつもりなのか。おれとは一緒に行ってくれないのか」 最後の最後で、夏郎は泣きそうに顔を歪めた。 ちあきは首を横に振った。 「私はどこにも行かないわ。………誰とも」 とうとう風の勢いに耐えられなくなったように、夏郎がちあきに背を向けた。こちらにやって来ようとしている弟のところへと、激流をさかのぼるように進んでいく。 ちあきはそれを、胸に手を当てたまま見守った。2人の姿が、島の奥へと続く森に消えていくまで。 2人の姿が消えてしまうと、ちあきは今にも飛ばされそうになっている母屋へと視線を走らせた。 悲喜交々、思い出の詰まった小さな家。 それから母屋の隣に建つ灯台と視線がぶつかると、ちあきの顔に深い悲しみが刻まれた。 あの日から。 1日は千日になり、時は常闇の中で遅々として進もうとしない。 どれほどの時が経過しようとも、ちあきはあの日を生きていた。あの日、花をつけない古木となった灯台と同じく、ちあきの心にも花が咲くことはなかった。 あの日―― ちあきはあの日と同じように、灯台へと足を進めた。あの日も風が強かった。まだ夜明けには少し早く、ちあきは胸騒ぎを覚えていた。 強い強い、胸騒ぎ。 妹のちふゆの言葉がトゲのように刺さっていた。 『ねえ、姉さん。わたしたちのどちらかが家庭を築くとき、一生の約束をした男に灯台の鍵をささげるのよね』 ええそうよ。 そんな返事をしたように記憶していた。ちあきは夕飯で使う木の実を集めることに夢中で、それほど注意を払わなかった。 ところが、夜半の強い風の音でふと目が覚めたとき、ちあきは強い不安にかられた。 もしかしたら、妹は、あの男に鍵を渡すつもりなのかもしれない。 一度そんな考えが頭をかすめると、その考えに憑りつかれた。ちあきはパジャマの上に厚みのあるガウンを羽織ると、ベッドを抜け出した。 足音を忍ばせ、妹の部屋へ。しかし、と言うのか、やはりと言うのか、そこは無人だった。 ちあきは迷わず灯台へ向かった。思った通り、鍵は開いていた。 そこで見つけたのだ。 震える妹を。 血に濡れた階段を。 そして。 ――――――男の無残な姿を。 『ちふゆ……』 ちあきの声に、妹のちふゆは泣き崩れた。うわ言のように、聞き取れない言葉を繰り返していた。 『鍵を出しなさい』 自分でも信じられないくらい冷然とした声が出た。それと同じくらい冷やかな態度で手が出た。ちふゆが鍵を出すと、震えるちふゆの腕を引いて灯台を歩き出た。 『いいこと。このことは誰にも言ってはダメ』 ちあきはちふゆに言い聞かせた。泣きじゃくるちふゆを、何度も乱暴に揺らしながら。脅しつけたと言ってもいいくらいに。 ちあきは、どんな犠牲を払っても、このことを秘密にしなければならないと思った。 一族にとって、灯台と同じくらい大切なことがあったからだ。 灯台は、島の人間にとって何より大切なもので、日々の生活に欠かせないことで、灯台を手に入れるということは、島の権力の座につくことを意味している。 そのため、争いを避けるために限られた血縁の中で婚姻を結んできた。 純血。 島の平和を考えた場合、何よりも優先されるべきことだと、ちあきは思っていた。だからこそ妹にも言い聞かせた。船を一艘、船着場から放したのも、ちあきだった。 しかし結局、妹は、その日のうちに海に身を投げた。 男を追ったのだ。黄泉の国まで。 ちあきにはそう思えた。そう思うと、強い嫉妬を覚えた。 ちあきも男を愛していた。 ただ、男と同じくらい、灯台を愛していた。この島を、この島での暮らしすべてを。 父親は薄々気付いていたのかもしれない。灯台の鍵を壊して作り変えることもなく、孤立の道を選んだことを考えたら……。 *** 嵐の中、ちあきは灯台に腕を回し、頬をつけた。 愛した男は二度と戻らない。それを承知の上で、ちあきは土地を離れなかった。 ここに男が眠っている。 妹と家庭を築くつもりだったかもしれない男。 愛していた。だからこそ耐えられる。 春はこない。 その代わり、冬もこない。 ただ千の秋を過ごす――――…あなたの墓標を抱いて。
|
| 女の頑固さって、時に愚かに映る場合もあります。 けれど、 芯がなければ、かたくなでもいられません。 利口でありたいと思う以上に、愛していたいのです。 きっと。 (2005.01.15) |
| インデックス | 小説置き場 |