+-++-++ カフェオレボウル ++-++-+
   
 
 飯島ミチアキを悩ませる頭痛の種は、朝比奈明宏という男である。
 目下その頭痛の種は、リスのような色の後頭部を無防備にさらし、カフェオレボウルに顔を突っ込んでいた。
 10月の秋雨ごろにしてはよく晴れた土曜日。
 街を行き交う人々の顔にも笑顔が目立った。
 空は秋をふんだんに織り込んだ澄みきった青色で、通りを吹き抜ける風はわずかな紅葉の匂いを運んでくる。
 そんな爽やかな午後のこと。

「なぁ、飯島。おれはつくづく思うんだけど……」
 飯島の頭痛の種、朝比奈は、手の平で包み込むようにして持っているカフェオレボウルの中に飯島がいるとでも思っているのか、その中に向けて喋っている。最初の呼びかけがなければ、独り言を呟いているとしか思えない格好だ。
 なんでコイツはいつもいつも。
 ズキズキと痛む頭に舌打ちをしそうになって、飯島はコーヒーカップに口をつけた。既にぬるくなり始めたコーヒーが、胃の中にだけでなく、胸にまで苦いものを広げていく。

「なぁ、飯島、聞いてる?」
 カフェオレボウルに顔を突っ込んだまま、朝比奈が聞いてきた。実のところ、飯島はまったく聞いてなかったのだが、短く「ああ」と答えておいた。
「一体いつからカフェオレは、こんな風に両手で包んで飲まなきゃいけないような、高貴というか、繊細というか、気を遣わなくちゃいけない“お嬢さま”みたいな飲み物になったんだろ。……あ、これ、なんか、シンデレラみたいじゃない?」
 朝比奈はカフェオレボウルをしげしげと眺めながら言った。顔を少しも上げないで、自分の思いつきを楽しそうに続ける。
「もちろん、カフェオレがシンデレラだよ。ある日突然お姫様にっていうか、まったく違う境遇になるっていうか」

 そこから滔々と、川が海へと流れ込むかのように少しの淀みもなく、朝比奈の一人語りが始まった。
 それはカフェオレとして生まれたカフェ子が、意地悪な継母のモカや義姉のクリームにいじめられながらも、代官山のお洒落なカフェでデビューする日を楽しみに日々がんばっているという……

「なぁ、飯島、聞いてる?」
「聞いてはいたが、右から左に抜けていったな」
 飯島が耳に指を突っ込みながらそう答えると、朝比奈は不満そうに唇を尖らせた。

 だいたい……と、飯島は頭痛をかみ締めながら思った。
 今は朝比奈の与太話に付き合っている暇なんてないのだ。飯島には2つ年下の妹がいるのだが、最近少し様子がおかしい。
 夜中にこっそりと出ていくような足音がしたり、近付くと慌てて携帯電話を折りたたんだり、兄として非常に気になる。見過ごせない。
 そりゃあ妹だってお年頃だ。今年で23になるのだから、自分の兄に隠し事の1つや2つ、3つまでなら許そう……いや、まぁ隠し事くらいあるだろう。
 しかし、あんなにかわいかった妹が。いつもお兄ちゃんお兄ちゃんと言っていた妹が。うるっさいわね、ほっといてよ! ……なんて兄に向かって怒鳴ってきた。
 飯島のショックはメーターを振り切って、検知不能なところにまで落ち込んだ。

「――でさ、カフェ子にとって代官山の王子様は、いや本当を言うと王子様じゃないけど、その相手は」
 朝比奈の与太話はまだ続いていたようだった。
 飯島は深く後悔した。こんな話に付き合っていないで、やはり妹を問いただすために家にいれば良かった。こんなことをしている間にも、妹は兄に言えない秘密を作っているかもしれないのだ。
 唸るように、飯島は口を開いた。
「一体全体、お前は何が言いたいんだよ。人を呼び出しておいて、いつまでカフェオレについて無駄話をしているつもりなんだ?」
 イライラを抑えきれず、飯島は厳しく問いただした。朝比奈の話を聞いていると、いつもピントのずれたカメラを覗き込んでいるような気分になるのだ。

 そんな飯島の苛立ちを少しも察した様子はなく、朝比奈は再びふにゃふにゃ話し始めた。今度はようやく目の前に飯島がいると分かったのか、ちゃんと正面を向いて。
「えぇとね、だからさ、おれはつくづく思うんだけど、土曜日とか日曜日になると、街にたくさんの人が出てくるだろう?」
「休日を街で過ごす連中が多いからだ」
「おれも休日。……まぁ自営業だから、毎日が仕事日で休日みたいなものだけど」
 朝比奈はこうふにゃふにゃしてみえて、ふにゃふにゃとはかけ離れた世界を生きている。表向きは大きなお屋敷に住むお坊ちゃんだ。けれど家業は特殊だと、飯島は昔聞いたことがあった。
 朝比奈の家に行くと、サングラスをかけている人や、動物柄のシャツを着ている人や、自分の親でもない人を親父と呼んでいる人の割合が高くなる。硬派な仁義なき……。そんな家業だ。

「それで、えぇと、今……」
 と言ったきり、朝比奈が腕時計とにらめっこをしたままなので、飯島は自分の時計をチラリと見て言った。
「2時27分」
「あ、そうだね。時計って時々ワケが分からなくなる。5と6の間なのに、27だなんてね。やっぱりデジタルの時計にすれば……」
 話の途中で飯島の眉間に寄った深いしわに気付いたのか、朝比奈が小さく咳払いをした。
「えぇとね、とにかく、土曜日の午後2時半に、おれたちは街にいるだろ?」
「それがどうした」
「おれは、休日に、街にいて、カフェオレを飲んでいる」
「ああ」
「先週オープンしたばかりのカフェ。雑誌にも載ったお洒落なところだよ」
「だからなんだ?」

 飯島は眉間にしわを寄せた。朝比奈は小さく息を吐いた。

「つくづく思うんだ。どうしておれは、休日の土曜日の午後2時半に、カフェオレを飲んでいるんだろう」
「――は? どういう意味だ」
「だからね……」
 朝比奈はカフェオレボウルのふちを指で叩きながら言った。
「どうしておれは、土曜日の午後2時半に、新しく出来たオープンカフェで、しかもピッカピカにきれいでお洒落なところで、カフェオレを飲んでいるのか聞きたいんだ。しかも飯島と一緒に」
「俺はカフェオレなんか飲んでない。コーヒーだ」
「それは分かってるよ」
 飯島の空になったコーヒーカップに視線を向けて、朝比奈が唇を尖らせる。その仕種はとても同年齢の男には見えないほど子供じみていた。

 特殊な世界を生きる人間は、どこかで社会と隔絶されるため子供っぽくなると聞いたことがあるが、朝比奈はその典型だった。こんな男が世の中にはいる。世の中とはなんと恐ろしいところだ。そんな世の中のせいで、妹も……。あんなに可愛かった妹が……。

 飯島は自分の眉間に寄ったしわを、ますます深くした。
「あのな、いいか、俺はお前に呼び出されたんだぞ」
「それも分かってるよ」
「だったらなんだ?」
 飯島に問われて、朝比奈は一瞬考え込んだが、すぐに口を動かし始めた。
「おれが聞きたいのは、どうして飯島はそんな風にムスッとした顔でいられるのか、ってことさ。ほらご覧よ。休日を楽しむ人たちの顔を」
 朝比奈は人差し指で、カフェにいる人々を端から端までさしていった。さされたほうは不審そうな目を向けてくる。
 飯島は指を引きちぎる勢いで、朝比奈の指を下ろさせた。

「人様に向けて指をさすな。非常識だ」
「だって不思議なんだよ。こんな洒落たカフェに座っているのに、飯島はまるでキングコングみたいに」
「お前、キングコングをその目で見たことがあるのか?」
「……ないよ」
「ないなら言うな」
 飯島の鋭い突っ込みに、朝比奈はしばし黙っていたが、再び口を動かし始めた。
「まるで動物園のゴリラみたいに不愉快そうだ。ほら、貧乏ゆすり。それT動物園のボスゴリラにそっくり」
「………」
「おれはつくづく不思議に思うよ。同じ時間に同じ場所に座っていて、みんなが笑顔の中、どうして飯島だけそんな風にムスッとした顔をしていられるのかがね。何かイヤなことでもあった?」

 飯島はぐっと詰まった。
 妹の隠し事、朝比奈の要領を得ない話。頭はズキズキと痛む。きっと戸惑いも苛立ちも、スパイクシューズを履いて人のことをガンガン踏みつけているに違いない、と飯島は思った。

「お前はいったい何が聞きたいんだよ。自分がカフェでカフェオレを飲んでいる理由か? 俺が不愉快そうな顔をしている理由か?」
「うーん……?」
 朝比奈は小首を傾げた。「変だな、なんか違う気がするよ」
「おっまえ――」
 ついさっきまでそんな風なことをふにゃふにゃ喋っていたじゃないか!
 飯島は寸前まで出かかった怒鳴り声を、やっとの思いで飲み込んだ。そんなことを怒鳴っても無駄なのだ。怒鳴ってすむくらいなら、最初から頭痛の種にはなっていない。

「もっと簡潔に言え」
 頼むから。飯島がそう告げて、ようやく何か覚悟でもしたように、朝比奈が先ほどよりはきっぱりとした声を放ってきた。
「あのさ、飯島」
「なんだよ、腎臓は売らないぞ」
「腎臓なんかいらないよ」
「じゃあなんだ」
「……おれね、結婚するよ」
 急に飛び込んできたその言葉に、飯島はいささか驚いた。

 朝比奈が結婚?
 誰に先を越されることがあっても、朝比奈にだけは先を越されないだろうと心の中でひそかに思っていたはずが。このピントのズレた男が、ふにゃふにゃした朝比奈が、結婚……!

「だからね、はい、これ」
 朝比奈はカフェオレボウルの底に残っていたわずかなカフェオレを飲み干すと、それを飯島の前に置いて、顎の下で両指を絡ませた。
 しかし飯島には意味が分からなかった。
「これは何だ?」
「えぇと、まだ分からない? まいったなぁ。カフェ子のシンデレラストーリーまで話したのに」
 どこか困ったような顔をして朝比奈は、テーブルの隅に置かれている水の入ったグラスに手を伸ばした。そして飯島の前に置いたカフェオレボウルの中に、その中に入っていた水をあけた。薄く濁ったカフェオレボウルの水が、飯島の当惑顔を映していた。

「分からないって、何がだ? これは何の真似だ?」
「えぇと、だからね、杯を交すっていう意味のつもりというか。ほら、うちの家業、飯島も知っているだろ。カフェオレボウルって、杯に似てると思わない?」
 思わん。カフェオレボウルはカフェオレボウルだ。杯にはちょっと無理があるだろう。飯島はそう思い、ふと別のことに思い当たった。
 朝比奈の家業のことだ。昔観た、やくざ映画を思い出す。

「……なんで杯を交す」
 飯島は自分の眉間がピクピクと動いているのを感じた。いやな予感がした。予感というよりも、頭痛の種がどんどんと大きく育っていくような気がした。
 チラリと妹の顔が浮かびかけ、飯島は慌てて消した。浮かんだ瞬間にさらわれるような気さえした。が、消しても消しても浮かんでくる。

 いつも妹はお兄ちゃんお兄ちゃんと寄ってきた。……その兄の横には誰がいた。ふにゃふにゃとした与太話で笑わせる朝比奈がいたんじゃなかったか。

 なんで杯を交す必要がある。
 聞いておきながら、聞きたくなかった。だが朝比奈は言った。

「だから、おれ、飯島の妹と……」
 妹の隠し事、朝比奈からの呼び出し、カフェオレボウル、義兄弟の杯――!
 次の瞬間に上がった飯島の叫びは、ゴリラというよりゴジラに近いものだった。カフェにいる人たちはみんな、耳を押さえて何事かと振り返った。


 
end  

 

ああ、勘違い、勘違い。
飯島の妹はお兄ちゃんと言いながら、朝比奈狙い。
朝比奈を得た今では兄がうっとうしく感じる、と。
恋する女とは、妹とはいえ恐ろしきものなのです。
シスコンもほどほどに(笑)

(2005.10.20)
 

 

インデックス           小説置き場