静寂にもしも色がついていたなら、それはきっと薄い青色のように思った。 洞窟に染み出した地下水が、どこからともなく射し込んでくる日の光に照らされてゴツゴツした岩肌に乱反射するように、ヒソヒソ声が静かな図書室を別の色に染めた。 「だから、その」 ミルク色の頬をかすかに赤く染めて、あきひろは視線を落ち着きなく四方に飛ばす。学生服に包まれた身体を、後ろの本棚に少しつけて。 同じクラスのあきひろと、わたしが付き合うようになってから2ヶ月が過ぎた。 この2ヶ月、わたしはイライラしっぱなしだった。 「だからなによ」 身体の前で腕を組んで、わたしはあきひろを見上げた。こういう態度が相手に与える威圧感を知らないわけじゃない。知っていて、わざとやっている。 あきひろは何か言いかけた口をつぐんで、わたしの顔を注意深く覗き込んできた。そこに怒りの色を探していた。 苛立ちは何色だろう。 きっと様々な色が入り乱れて、何色なんて特定もできないに違いない。だけど感覚だけはよく分かる。 卵の殻を剥がした時に、殻と白身の間に見つかる薄い皮膜。あれがベッタリと顔に張り付いているような感覚。鬱陶しくて、顔の前でやみくもに手を動かしたくなる。あれにも似ているかもしれない、蜘蛛の巣が顔にかかったとき。 自分ひとりだけ、その糸を取ろうとして、どこか間抜けなほど意地になって手を動かす。 あきひろはわたしの顔を見詰めたまま、もう完全に沈黙してしまった。 いつもそう。いつもあきひろはわたしの前に立つと口を閉じる。言って欲しいことを、決して言わない。 イライラする。 確かに、確かに、そういうあきひろの乱暴じゃないところに惹かれた。でもわたしが求めていた彼氏は、こんなウジウジしたやつじゃない。 「どうしてまだ言っちゃいけないのよ」 ズバリと、わたしは核心をつく言葉を口にした。「わたしと付き合ってるって、あきひろにとってそんなに恥ずかしいことなの」 「ち、違うよ」 くっきりとした二重の瞳をパチリと一度だけ合わせて、あきひろはそう言った。細面の顔に困惑がじんわりと広がっていく。 しばらく待ってみても、あきひろは違うと言ったきり何も言わなかった。戸惑いを全身から発散させて、叱られた子供みたいに唇の先を少し尖らせている。 どうしても話したいことがあるからと、あきひろを教室から無理やりのように引っ張ってきて、図書室で10分。その間にあきひろが言ったことといえば、だから、とか、その、とか、違うよ、なんて主体性のない言葉ばかり。 わたしはため息をついた。 その空気の流れで、急に何か言わなければいけないのだと気付いたように、あきひろがほとんど聞き取れないような小声で言った。 「何も、そんな、みんなに言って歩かなくたって」 「へーえ、そう」 もう苛立ちはわたしの中で極限まで膨れ上がっていた。今、ちょっとした刺激を与えられたら、パチンとわたしまで弾けて飛んでしまいそうだった。 あきひろと付き合い始めて2ヶ月。 わたしたちの仲は、校内の誰にも知られていない。あきひろが、しばらくみんなには内緒にした方がいいと言ったせいだった。 わたしだって馬鹿じゃない。 あきひろは教室の中では大人しい方で、いきがっているだけの幼稚で頭の軽い男子たちから、わたしのことでからかわれるかもしれない。そういうのがウザイというのも分かってる。 だけどそれだっていつまでも隠しておけるものじゃない。 それにわたしの気持ちも考えてくれたっていいじゃない。 「ねえ、中西さんって知ってる?」 わたしの突然の質問に、あきひろはポカンとした。しばらくして「知ってるけど……」と怪訝なものを含んだ声で答えた。 知っていて当然だった。中西というのは、わたしの隣の席に座る女子の名前。わたしとあきひろと同じクラスの、クラスメートなのだから。 「あの子ね、授業中ずっとあきひろのこと見てるの。知ってた?」 あきひろはポカンとしたままだった。決して頭の回転が悪いわけでもないのに、あきひろは時々、そうなる。そのことが、わたしには理解できない。どうしてわたしの言いたいことが分からないのか、分からない。 苛立ちばかり。 付き合うこと、彼氏彼女の関係って、もっと甘くて楽しくて、ぽうっとしたまま日々が過ぎていくような、そういうものだと思っていた。 あきひろのことが好き。 その気持ちは今も変りない。――でも不安ばかり。 苛立ちなんて、裏を返せば単なる不安。 あきひろは本当はわたしと付き合うことに乗り気じゃないのかもしれない、本当はわたしのことなんてそんなに好きじゃないのかもしれない、本当は告白された相手が中西さんだったら中西さんと付き合っていたのかもしれないって、不安に思う。 最初に好きだと言ったのはわたし。 あきひろは色の白い顔をいつになく赤くして、ただ「うん」と言った。それって付き合ってもいいってことなのと、わたしが聞くと、やっぱり「うん」とだけ答えた。 あきひろの口数が少ないことは知ってる。 知ってるけど、はっきり言って欲しいことだってある。 「あきひろ、わたしのこと、どう思ってるの?」 「ど、どうって……」 「好き?」 パッと、花が咲いたようにあきひろの頬が赤くなった。それでも口は動かない。わたしはあきひろの方へ一歩、足を進めた。その一歩で、急に居心地が悪くなったように、あきひろが後ろを振り返った。後ろには本の背表紙が並んでいるだけ。 「好き?」 わたしはもう一歩、あきひろの方へ足を進めた。もうわたしとあきひろの間は30センチもないくらい。 あきひろはまた後ろを振り返った。もう後ろには一歩も行けないのに、それでもあきひろは足を後ろに動かしたのか、本棚がドッと低く鳴った。あきひろの顔には驚きと戸惑いが張り付いていた。 わたしは手を自分の顔の位置まで上げた。ゆっくりと、本棚に手をかける。指先が本の背表紙に当たって、不思議なぬくもりを伝えてきた。わたしは右の腕と左の腕を前に突き出し、その間にあきひろをはさんだ。 そして再び聞いた。 「わたしのこと、好き?」 あきひろは真っ赤な顔をして、どこか怒っているようにいつもの「うん」なんて嬉しくもない言葉を吐いた。そんな主体性のない言葉、どれだけ聞かされたって不安は消えない。 わたしはあきひろの顔をジッと見詰めた。 「わたしのことが好きなら、キスして」 急にそんなことを言われたせいか、あきひろはまるで殴られたみたいに呆然としていた。しばらくして、動揺が全身をくまなく震わせてから、それがようやく舌まで達したのか、上擦ったような声を出してきた。 「だ、誰か来たらどうするんだよ」 「誰も来ない」 「でも、もし来たら」 「あきひろ」 言葉が駄目なら、態度で示してよ。そこに、せめて、という言葉は付けたくない。そんな女々しい言葉、わたしには似合わない。 あきひろは耳まで赤くして、わたしを見下ろしている。緊張のせいなのか、困惑のせいなのか、ほとんど無表情にも近い顔で。 無言の時が流れる。 静寂が薄い青色の布を広げて、わたしを、あきひろを、図書室全体までをも、すっぽりと包み込んでしまったよう。 ドキドキと、わたしの胸は鳴っていた。 でもそれは甘い鐘の音とはまるで違った。わたしはただ不安ばかりを感じていた。強引な手に出て、あきひろに呆れられてしまうかもしれないと思った。 真面目で奥手なあきひろ。 そういうあきひろが好きだったはずなのに。 どうしてわたしは今、そういうあきひろに、いつものあきひろを捨てろと迫っているのだろう。それも自分の不安を消してもらうためだけに。 不安はなんて、醜いものなんだろう。 もう胸の不安がどうしようもなくなったとき、間延びしたようなチャイムが響いてきた。午後の授業の予鈴だった。 「予鈴だ、もう行かなきゃ」 あきひろはそう言った。この図書室に引っ張ってきてから、初めて聞いた主体性のある言葉だった。 わたしはストンと、本棚にかけていた手を外した。脱力感でいっぱいだった。 結局、あきひろにとっては、せっかくの昼休みをギャンギャン問い詰められて潰されただけのことだったのかもしれない。 自然と顔が下を向いた。 あきひろの上履きがわたしから遠ざかって……また何か忘れ物でもしたようにセカセカと戻ってきた。 そして―― わたしの頬に軽く、触れてくるものがあった。唇の感触。あきひろそのもののように、優しいキスだった。 わたしが顔を上げると、もうあきひろは逃げるように背を向けて本棚の間をドアへと歩いていくところだった。後ろからでも分かる、真っ赤になった耳と首筋。 あきひろがわたしに見せてくれた、精一杯の気持ち。 頬が溶けるくらい熱くなった。あきひろのことを、好きになって良かったと思った。そう思っただけで、なんだか涙が出そうになった。 ふと、あきひろの足が止まった。クルリとわたしの方を振り返って……。 「放課後に……」 あきひろは、ずっと胸の中でその言葉をあたためていたように、本当に大事そうにゆっくりと言った。 「放課後に昇降口で待ってるから、一緒に帰ろう」 わたしは顔をくしゃくしゃにして、あきひろのもとへ走った。
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| 理想の彼氏とは違うけれど……。 どんな理想も、不安を消してはくれない。 それよりも、精一杯のところで気持ちに応えてくれる。 そんな人の方が、頼もしく見えることもあります。 (2005.12.11) |
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