+-++-++ こんな夜になら ++-++-+
   
 
 マンションの玄関を開けようとしたら、鍵が落ちた。
 キィンと、コンクリにぶつかって寒々しい音を立てる。あれだけ何度も言っているのに、管理人は通路の蛍光灯を変えようとしない。チカチカチカチカ、明るくなったり、暗くなったり、目がおかしくなるっていうの。
 鍵を拾おうとして、自分のやけに青白い指に気付いた。まるで血の気がない。そう言えば、手袋を忘れてきたじゃないか。チッ。そんな小さな破裂音が、口の中からは飛び出さず、唇の奥で弾けた。
 雪が降っている。
 吐いた息は、それと同じくらい白く見えた。
 腰を屈め、膝を折り、通路に転がった鍵に手を伸ばした。その瞬間に、フッツリと、全身から力が抜けていった。ドッと、膝がコンクリに当たる鈍い音がした。
 指先は鍵に触れている。
 かじかんでいるわけじゃない。今までずっとポケットに手を入れてきた。それなのに、どうしても、その鍵を拾い上げることができなかった。

 たとえば。
 そんな風に、あいつはよく切り出した。

「たとえば、自分でも抑えきれない衝動ってものがあるだろ。無性に髪が切りたいとか、無性にナツメロが聴きたいとか、無性におでんが食いたいとか」
「ああ、おでん、いいね、食いたいね」
「今現在の話じゃなくてさ。まぁそりゃ今でもいいけど、無性にこうしたいってことがあるだろ。いつもじゃないけど、たまに。どういうサイクルで廻ってくるのか分からないけど」
「ああ、無性に女が抱きたい、とかね」
「あのな」
「はいはい、真面目に、真面目に」
「その、無性にっていう気持ちは本当に、自分の中から湧いてきたものだと思うか?」
「は?」
「だから、その衝動は自分の中にそれとは気付かずにずっとあったもので、ある瞬間にふと湧いてきたものだと思うかって聞いてるんだよ」
「そりゃ自分の気持ちなんだから、自分の中から湧くんじゃねーの?」
「おれは違うと思うね。気持ちは自分ひとりのものじゃないと思う」
「なんじゃそら。そしたらお前あれか、気持ちを誰かと共有してるとか、そうか、純愛映画の観すぎだな」
「そうじゃないよ」
「何がそうじゃないんだよ。この万年純愛主義者が。桃香ちゃんにちゃんとアプローチしてんのかよ」
「それは今の話に関係ない」
「あっそう。ふん。今時、思春期の坊やだってそんな切り返しはしてこないだろうよ」
「うるさいな、だから気持ちってものはさ」
「伝えるためにあるのだ!」
「だーもう、そうかもしれないけど、今はそういう話じゃなくて、深層心理の中ではすべての人とつながってんじゃないかって思うわけ」
「へーほー」
「真面目に聞けって」
「はいはい。それで?」
「だから、たとえば。景気判断にしてもそうだろ。何だかよく分からないけど景気がいいようだ、じゃあ財布の紐を緩めましょう。景気が良くないようだ、じゃあ財布の紐を締めましょう。ニュースの影響もあるだろう。でも、その、なんだ。感じ、印象、雰囲気、そういうものをさ、日本全国の色んな境遇にいる人たちが同じように受けるわけだ」
「うち、まったく景気よくないんだけど」
「そういうこともある。おそらく、日本全国にその切り返しをしてくる人間はごまんといると思う。その気持ちは、お前だけのものじゃない」
「ボーナスさえなかった……」
「それはお前だけじゃない。おれもだ」
「うっそ。マジで」
「だからさ、シンパシーとか、そう大げさなものじゃなくても、同情心でもいいさ。まったく自分には経験のない悲しい物語に、不覚にも泣いたりすることがあるじゃないか。まったくそんな気分になるような要素もないのに、不意に虚しいと言うか、物悲しいような気分になったりすることも」
「ああ、まぁねぇ」
「そういう時にさ、たとえば今、誰か、悲しい気持ちになったやつがいるんじゃないかって思ったりするわけだよ」
「お前……」
「何だよ」
「サラリーマンやめて物書きにでもなれば」
「――ったく」

 もちろん今言ったことはすべて幻想さ、いつだってあいつはそう締めくくった。どんな話をしていても。
 それがあいつの照れ隠しのやり方だった。

「なぁ、たとえば、もし……」
「もし?」
「おれが死んだら」
「は?」
「たとえば、だけど。もしおれが死んだら、誰かは泣くと思うんだ。大勢じゃなくても、親しい連中の何人かは」
「そりゃ普通そうだろうな。けどなんで――」
「もしおれが死んだら、それはそいつが悲しくて泣くわけじゃないと思わないか?」
「は? どういう意味だ? こういう場合は泣くものだから泣きましょ、なんて、血も涙もない連中に囲まれてるとでも思ってやがんのか?」
「そうじゃなくて」
「じゃあどういう意味で」
「だからこの間も話しただろ。それはそいつの中から湧いてきた気持ちじゃなく、どこか別のところから、たとえば深層心理の中でつながった糸みたいなもので、伝わってきた気持ちかもしれない」
「どこから伝わってくるんだよ」
「たとえば。おれから」
「……お前、最初に、もしおれが死んだらって言ったじゃん」
「だから霊界から」
「ぷっ、おま、それ最高のジョークじゃんかよ!」
「ジョークのつもりで言ったわけじゃないんだけどね」

 まぁでも幻想さ、そうだろ、すべては幻想なんだ、だからもう笑うな。
 あの時あいつは、いつになく幻想という言葉を繰り返した。まるで自分に言い聞かせるみたいに。

 携帯電話の液晶画面に、『桃香』という名前がともったのは、あいつの姿を見なくなってからしばらく経ってのことだった。
 報せを受けて向った病院の、その白ばかり目立つ病室の中であいつは、やたら大仰な機械に囲まれて眠っていた。昏睡状態だと、桃香ちゃんは言った。
 ガンなの。もう分かった時には転移が始まってて、手遅れで……。
 途切れ途切れの言葉。
 あなたにはギリギリまで知らせるなって。わたしも、彼が入院して初めて知ったわ。誰にも知らせてなかったみたい。わたしがお見舞いに行くと、あなたにだけは、ギリギリまで知らせないでくれって。あいつは案外ナイーブなんだからって。

 雪が降っていた。
 日本全国、ほとんどの地域で記録的な大雪が降り続いていた。

 玄関のドアの前に座り込んで、鼻水を垂らしながら泣いている男がいる。今、ここに。だけどこれは自分の中から湧いてきた悲しみじゃない。そうだろ。
 お前が霊界から送ってきた悲しみなんだろ。
 今ようやく分かったよ。
 この涙が、本当にお前が送ってきた悲しみのせいなんだとしたら、どこかでまだお前とつながっているという証拠に、なるんだな。

 こんな夜になら、お前の言う"幻想"とやらを信じてもいいんじゃないかと思う。

 こんな夜になら。


 
end  

 

友よ、どんな幻想も寒くてたまらないよ。
あなたなしでは……。

(2006.01.09)
 

 

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