+-++-++ スピノザ・スピリッツ ++-++-+
   
 
 目の前には、大福餅のような丸いものがある。一口で食べるには大きく、二口で食べると卑しん坊だなんて思われそうなサイズだ。
 でも、大福餅じゃない。
 もしこれが大福餅なら、腐っているはずだ。カビが生えたように全体を、毒々しい色が満遍なく覆っている。
 でもそれも、カビじゃない。
 黄色のような、そこに淡い紫色が混じっているような、黄紫なんて色はなかったとは思うけど、そんなカビにもお目にかかったことはないように思う。
 黒や青や緑なら、腐った大福餅で片がつく。
 それ以前に、黄色ならきな粉餅じゃないのかと、そういう簡単な話ではなかった。
 触ってみたら、卵のように硬かったのだ。
 じゃあ、ペイントされた卵に違いないと思うだろうけど、持ち上げてみたら、ものすごく重かった。
 まるで石だ。
 じゃあ石なんだよと先走るのはよくない。
 何とも言えない匂いがするのだ。
 どんな匂いなのか、一口で説明するのは難しい。何といっても、"何とも言えない"匂いなのだ。
 それでも記憶をひっくり返して、なるべく似た匂いを挙げてみる。

 小学生のときボールを持ってこいと先生に言われて、体育用具室に入った瞬間の匂い。それは、ライン引きに使う石灰の匂いだ。

 中学生のとき両親に誘われて行った、さびれたキャンプ場の匂い。恐らく、木の葉が地面に降り積もって湿気た土の匂いだろう。

 高校生のとき、初めてのデートで入った映画館の匂い。たくさんの人がこぼした吐息と涙の匂いだったかもしれない。

 大学生のとき一人暮らしを始めて、部屋で呑み会をやった後の匂い。集まった連中がバンバン吸った煙草と、ガンガン呑んだアルコールの匂いだ。

 社会人になって資料室で共に作業していた同僚に、会社を辞めると聞かされた、つい昨日の資料室の匂い。埃に混じって同僚の甘い香水の匂いもしていた。

 石灰、土、吐息と涙、煙草とアルコール、埃と甘い香水、それらに共通する匂いの要素はないと思う。そう思うのだけど、それらに近い。
 どれが一番近くて似ているか、しばし考えた。それを鼻先にくっ付け、何度も匂いを嗅いだ。
 けれど、やっぱり一つには絞れなかった。この匂いだと断定しようとすると、他の匂いに変わってくる。じゃあこっちかと思えば、また他の匂いがしてくるのだ。
 とりとめのない匂いであることは間違いない。
 そして、その匂いに煽動されるように、心には様々な思いが浮かび上がってきた。

 石灰の匂い……
 体育用具室は苦手な場所だった。ジメジメとして、薄暗かったせいで。オバケが怖いというわけじゃない。ただ、自分の中の原始的なものが怯えていた。

 土の匂い……
 キャンプになんて行きたくなかった。日が暮れた山は真っ暗で、文明というものに囲まれて育った自分には恐ろしいところでしかなかった。

 吐息と涙の匂い……
 映画館に入る予定はなかった。そもそも、デートなんてしたくなかった。誘われて、断れなかっただけだ。

 煙草とアルコールの匂い……
 呑み会なんてしたくなかった。アルコールは苦手で、騒ぐことも苦手だった。それでも断りきれなくて仕方なく。

 埃と甘い香水の匂い……
 同僚には、会社を辞めてほしくない。できることならずっと、一緒に働いていたい。辞めると聞かされた時には、いやだと喉まで出かかった。

 この大福餅のようで、卵のようで、石のような、丸いものから漂う匂いは、いやだと思った時の匂いを思い出させる。
 いやだと思って、それを口にできなかった時の匂いを……。

 これが一体何なのか、考えても分からない。
 何故こんなものが目の前にあるのか。
 それを考えよう………。


 
end  

 

気持ちを言葉にできなかったら。
その気持ちの正体を考えても無駄でしょう?
なぜ、そんな気持ちになったのか。
まずはそれを考えてみよう。
注釈: スピノザというのは哲学者の名前です。

(2006.01.25)
 

 

インデックス           小説置き場