早朝の人通りのないアパートの通路に立って、牧瀬は白い息を吹き上げた。耳が寒さのせいで痛かった。鼻の奥が鋭い針でも差し込まれたようにツンとする。 二月も終りだというのに、折からの異常気象のせいか大雪が降った。 いつもは高いビルと空に向かったフォークのようにツンツンした街路樹が特徴のこの街にも、ふわりと白い綿をかぶされ、優しい佇まいになった。 牧瀬はこの街に住み始めて七年になる。小学生だったら中学生に、中学生だったら大学生になるほどの月日を、この街で過ごした。その七年の間に、ここまで雪が降り積もったのは初めてのことだった。 手すりの上に白い雪、まるでかまぼこだ。 どうする当てもないのに、牧瀬は手を伸ばして、手すりの上で弓形の小山を作っている雪を集めて雪玉にした。手の平からしみこんでくる冷たさが、童心さえも縮ませる。牧瀬はすぐに雪玉を外に向けて放り投げた。 かつては新築だったこのアパートも、いまやすっかり俗世の埃をかぶっている。今は埃というよりも雪をかぶって、灰色の空の下で眠りこけているように丸くなっていた。角に雪が積もり、全体が丸々として見えるのだ。 セメントを流し込んで平らにしてある通路には、誰の落としていったものか、ピンク色の紙切れが落ちていた。おそらくはガムの包み紙だろう。マナーのなっていない住人もいるらしい。 牧瀬はガムの包み紙を拾おうとして、そこが濡れているように光っていることに気付いた。 凍っているのだ。 牧瀬の立っている通路は二階、その通路の途切れるところ、ちょうど階段の手前あたりがすっかり凍ってしまっている。 ふと牧瀬は、昨夜のことを思い出した。 呑んだ帰りで、とにかく喉が渇いていた。だから途中のコンビニでミネラルウォーターを買って、部屋に戻るまで我慢できずに、ペットボトルの口に唇をくっ付けながら歩いて帰ってきた。 ふわふわしていた。昨日はかなり呑んだ。足元が少しふらつくほどだった。 そのせいで、アパートの階段を登りきったところで、ミネラルウォーターをこぼしてしまったのだ。 まさか雪が降るほど冷え込むとは思わなかった。昨夜は酔っていたせいで、その冷え込みに気付かなかった。 まさか凍るとは。 このままにしておいて、誰かが滑ったら大変だ。チラリと、牧瀬の視線が通路の奥に飛んだ。――誰か、階段の手前で滑って、そのまま階段を転がり落ちたら、大怪我をしてしまうかもしれない。 牧瀬は今出てきた部屋のドアに取って返すと、玄関の上に置いてあった靴ベラを持って出てきた。 何とか削り取れないだろうか。 プラスチック製の靴ベラは、面白いように氷の上で滑った。どこかに引っ掛けて、お好み焼きをひっくり返す時の要領で氷を通路から引っぺがそうとするのだが、どこにも引っかからない。ツルツル滑るだけで、まるでアイススケートをしているようだ。 これでは埒が明かない。 牧瀬は再び自分の部屋に取って返すと、何か役に立ちそうなものはないかと部屋を見回した。 部屋の中は薄暗く、湿っているように感じた。玄関からすぐにキッチン、その反対側はユニットバス、その奥に六畳の部屋という、どこにでもあるありふれた安アパートの部屋だ。 靴を、スケート選手の三回転ジャンプのように回転させながら脱ぎ散らかすと、牧瀬は部屋に入った。目に付くものを、一応、使えるかどうか考えてみる。 やかん。確かにお湯をかければ氷は融けるかもしれない。しかし、また後で凍ったらどうする。 フライパン。まったく役に立たないだろう。はさみ。確かにフライパンよりは役に立ちそうだが、不十分だ。 何か、何か、役に立ちそうなもの。 部屋の中を落ち着きなく視線が飛び回る。そのとき、牧瀬の視線がテーブルの上に置かれた紙の束にとまった。 新しいシナリオだった。 まだ全体の半分も書けていない。途中で筆の止まったシナリオ。 牧瀬は小さな劇団を運営している。企画していた舞台の資金繰りがつかなくて、方々に頭を下げてお願いして回り、ねばってみたが、結局お流れになった。小さい劇団ながら俳優たちもいる。昨夜はみんなで愚痴をこぼしながら安い居酒屋で呑みに呑んだ。 薄暗い部屋の中にあって、やけに白の部分の目立つシナリオ。 このところ牧瀬は、シナリオを練ることに苦痛を覚えていた。何をどう考えても、面白いと思えなかった。小さな劇団だからシナリオを書けるのは牧瀬ひとりだ。それなのに、どうしても筆が進まない。 その理由は……。 余計なことに頭がふらつきそうになって、牧瀬はテーブルの上のシナリオを掴み取るとゴミ箱に投げ捨てた。 筒型のゴミ箱に紙の束は全部入りきらず、何枚かが床に落ちた。床を滑っていく紙片が一枚、牧瀬の目に留まった。 床を滑る紙片は、おもちゃの家のような三角屋根をした箱にぶつかって止まった。工具箱だった。手が足りない時には牧瀬も大道具の仕事をやるのだ。 牧瀬は工具箱を開き、マイナスドライバーを手にとって部屋を出た。 やろうと思った舞台は資金繰りがつかなくてお流れ。新しいシナリオを書こうと思えば、まったく筆が進まない。 何もかもが八方塞がりだ。 その苛立ちをぶつけるように、牧瀬は氷にマイナスドライバーを振り下ろした。コツッと氷の表面に金属が当たり、かすかにヒビが走る。 こうやって少しずつ砕いていけば。 早朝の人気のない通路にしゃがみ込んで、牧瀬はマイナスドライバーを振り下ろし続けた。コツッ、コツッ、コツッ。そんな小さな音が、雪に埋まった静かな街に響く。 そうして何度目に振り下ろした時だろう。 マイナスドライバーが氷を砕いた瞬間。その隙間から、かすかに白い色のついた、どちらかと言えば透明に近いドングリのようなものが、ポンッと飛び出てきたのだ。 氷の破片でも飛んだのだろう。 牧瀬はそう思い、再びマイナスドライバーを振り下ろした。すると、再びポンッと、透明に近いドングリが飛び出てくる。何度やっても出てくる。振り下ろすたびに出てくる。 しかもそれは、まるで意思を持っているかのように、牧瀬の周りをグルグルと飛び回っているのだ。 なんだこれは、と思ったとき。 奥の部屋のドアの開く気配がした。 急に牧瀬は顔色を変え、いたずらの現場を見咎められた子供のように慌てた。いくら凍結の原因を自分が作ったとは言え、早朝にアパートの通路でマイナスドライバーを振っている姿なんて、見られたくもないと思った。しかもこの虫のようなドングリ。いやドングリのような虫。いや虫でもないドングリでもない、今や二十匹はいそうなこれを、どう説明すればいいのだ。 そんな牧瀬の思いとは裏腹に、相手は親しそうに声をかけてきた。 「おはようございます、わあー。氷蜂ね」 「こおりばち?」 近付いてきた相手は、どこか懐かしそうに目を細めて、飛び回っているそれを見詰めた。化粧っ気はないが、顔立ちの美しい二十代の女性だ。 「わたし、出身が北の方なんですよ。この氷蜂が水の上に着地すると、そこが凍って、その氷を砕くとまた氷蜂が飛び出すって、そういう昔話をおばあちゃんから聞いたことがあって。まさか本当にいるとは思ってもなかったけど」 彼女は心底楽しそうに笑った。 その笑顔に、牧瀬は一瞬ボウッとなった。 「それにしても、こんな日にこんなところに水を撒くなんて、誰の仕業かしら。きっと昨夜の酔っ払いね」 「よ、酔っ払い?」 「そう。夜中に大騒ぎしていたんですよ。ジュリエットー、ジュリエットー、大好きだ、愛してる、なんて叫んで。あんなに大騒ぎするロミオだと、密会もできたものじゃないですよね」 笑う彼女の前で、牧瀬は赤くなる顔をどうにもできなかった。氷蜂が一匹、牧瀬の顔に当たり、その熱のせいか無残にもジュッと消えてしまった。 「あ、あの、すみません。ご迷惑をおかけして」 牧瀬は正直に頭を下げた。後で自分の仕業だとばれたら、それこそ目も当てられないと思ったせいだ。 「え、じゃあ、昨夜の酔っ払いはあなた?」 「はい、すみません。凍結の原因を作ったのも自分です」 彼女は「まあ」と言ったまま、牧瀬の顔をしげしげと見ていた。それから少し恥ずかしそうに笑って言った。 「私、てっきり……」 「てっきり?」 牧瀬が聞くと、彼女は顔を赤くした。 「私、今ちょうど現代版ジュリエット役をやっていまして。もしかしてファンの人が叫んでいたりしてなんて、ちょっと夢想して……あ、私、まったく売れてないんですけど、劇団に所属してまして」 「知ってます」 「え?」 「知ってます。自分はシナリオを書いていまして」 同じアパートに住む女性が劇団で女優をやっていることを知ったのは、ほんの偶然からだった。先輩からなかなか面白い劇団があるから観に行こうと誘われ、行ったところに彼女が立っていた。 顔立ちの美しさと演技力の確かさ。牧瀬は一瞬で魅了された。彼女にふさわしいシナリオを書きたいと思った。昨日も、彼女の劇団の公演を観ていた。 そのせいで、叫んでしまったのだ。酔いにまかせて、愛の告白を。 「まあ」 彼女は顔を赤くして、大きな瞳を弓形に細めた。ようやく雲の隙間から顔を出した太陽が、彼女の顔を輝く光で染めた。 その輝く光に当たり、何匹かの氷蜂がジュッと消えていった。 春はもう、すぐそこまで来ている。
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| 街の片隅で芽生えるものは? このお話はいただいたメールを読んで、 ふと思いついたお話です。 春の訪れは、いつも何気ないところから。 (氷蜂は架空のイキモノです) (2006.03.04) |
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