仲島家の二階の部屋の窓は、外が白々と明けてくるまで暗くなることはない。この一年、一日も例外はなく、朝まで電気がついている。 その部屋では、去年大学受験に失敗した仲島家の長男が……スヤスヤと寝入っていた。 フガッと鼻を鳴らして、机に突っ伏した状態で眠っていた仲島幸作はハッと眼を覚ました。机の上に広げていた英語の参考書には、大きな大きな、琵琶湖のような形をした立派な湖が出来あがっていた。よだれの湖だ。 また眠ってしまった。 幸作は参考書を机の隅に追いやると、のっそりと立ち上がった。立ち上がるとき、机の引き出しで膝を打った。小学校に入学する時に買ってもらった学習机は、幸作には少しどころではなく小さすぎた。 のっそりと立ち上がった幸作は、あくびをしながら伸びをした。伸びをすると、天井に手が届く。幸作は身長が百九十センチもある大男だった。 自分の頭が芳しくないのはこの家の天井や柱に頭をぶつけまくったせいだと、機嫌の悪い時などは、幸作はそうやって家に責任をなすりつける。幸作の家は古い日本家屋のせいか、全体的に天井が低いのだ。天井の所々には、幸作がぶつかって作ったへこみすらあった。 天井だけではない。机の引き出しは幸作に何度も膝をぶつけられて、この十年の間、開かずの引き出しになってしまっていた。おそらくは中のレールが歪んだのだろうと幸作は考えていた。 幸作は頭をぶつけないように気をつけながら自分の部屋を出ると、背中を丸めるようにして廊下を進んだ。一階に降り、玄関から庭に出た。小さいながらも、幸作の家には庭があった。 夜明け前の深い藍色に包まれた庭は、ひっそりと眠ったように静かだった。 幸作は庭に立つと、大きく深呼吸した。朝の冷えた空気が肺の中いっぱいになる。 二度目の大学受験を三週間後に控え、幸作は最後の詰め込みに余念がなかった。もう失敗はできないのだ。幸作の家はそれほど経済的に恵まれてはいない。今度失敗したら大学は諦めて就職しよう。幸作はそう決めていた。 武者震いのような、底冷えの震えのようなものが幸作の足から全身に渡り、幸作は腕の上部をさすりながら家に戻ろうとした。 その時のことだ。 すいっと、見たことのない小鳥が幸作の家の庭に飛び込んできた。ハトでもないスズメでもない。セキセイインコでもなさそうだ。 何だろうと幸作が寒さも忘れて見ていると、その小鳥は庭の片隅に植えられている木に止まった。全体の形は十姉妹に似ているが、薄桃色だった。 はて、桃色の十姉妹なんていたっけか? 首をひねりながらも、寒さに負けて幸作が家に戻ろうとしたとき。 「ちょっと!」 どこからともなく、小さな声がした。小さいけれど、耳にしっかりと届く、響きの良い声だった。 幸作がキョロキョロしていると、なおも声が響いてくる。 「ちょっと、そこのあんた、ここだってば」 それは庭の片隅の木の辺りから聞こえてくる。そこには、さっき飛んできた薄桃色の十姉妹がちょこんと止まっていた。 はて、十姉妹も人間の言葉を真似するんだっけか? もしそうだとしたら、飼われていた小鳥が逃げ出したのかもしれない。薄桃色の小鳥なんて珍しいから高価そうだ、今頃飼い主が探しているかもしれない。 そう思いながら幸作が木に近付くと、薄桃色の小鳥の横にブラーンと、何かが垂れ下がっている。 なんだと顔を近付けると、それがわぁわぁ喚いてきた。 「なにボンヤリ見てるのよ! さっさと助けなさいよ!」 高圧的に怒鳴られて、幸作は思わずサッと手を出した。それに驚いたのか、薄桃色の小鳥が羽音を立てて飛び上がった。 「きゃあああ」 小鳥が飛び立つ時に枝が揺れたせいで、枝にぶら下がっていた何物かは地面へ向かって一直線。その手前で、幸作が何とかキャッチした。 手の平にちょこんと乗っているそれは、親指と同じ大きさの女の子だった。 「ふう、あぶなかったわ。あやうく任務が果たせないところだった」 逆さにしたチューリップのような紅いスカートを、パンパンと手で払うと、その女の子は幸作を見上げてきた。 「わたしは春の精。今年はここの梅の木から"春を起こす"ことに決めたから。だから、あの枝に戻して」 幸作は言われた通り、木の高いところの枝に女の子を乗せてやった。 それから幸作は何事もなかったようにクルリと回れ右をすると、そのまま頭をボリボリかきながら家に戻った。 すごいじゃないか。勉強のしすぎで幻覚を見るほど、おれは頑張っているんだ。 そんなことを思いながら。 * 二度目に幸作が起きたのは、正午近くだった。少し仮眠を取ろうと思って、つい寝過ごしてしまった。本当は一時間か二時間で起きる予定だったのに、六時間も眠ってしまっていた。 幸作は慌てて机につこうとしたが、階下から「ごはんよー」という声が聞こえて、そちらの方に足を向けた。 茶の間と呼ぶのが相応しい六畳の和室には、幸作以外の家族がそろっていた。今年八十になる祖母、年齢不詳の母、三つ年下の妹。幸作の父は十年前に他界している。つまり幸作以外は全員、女性だった。 「幸作、今日も一日中お勉強をするの?」 まるで少女のような微笑を浮かべて、幸作の母が茶碗を差し出しながら聞いてきた。今日は土曜日なので、家族みんなが家にいた。家族みんなの視線が幸作に集まった。 「するよ」 母の問いかけにぼそぼそと答えると、幸作はお茶碗の中のご飯を丸呑みするように食べた。とにかく時間が惜しかった。家族の問いかけにろくろく返事もしないで、幸作はご飯を食べ終わると立ち上がった。まだ食べ始めてから五分も経ってなかった。 「お兄ちゃん、ちゃんと噛んで食べたの?」 妹の非難めいた問いかけには答えもせず、幸作はのそのそとまた二階に戻ろうとしていた。 そのとき。 「コーサク、喉が渇いた」 一瞬、幸作はその声がどこから響いてきたのか分からず、家族の顔を見回した。家族も、急に立ち止まった幸作を見詰めてくる。耳の遠い祖母がひとりだけ、何か幸作に言われたのかと勘違いして「はぁなんだい?」と聞いてきた。 なんでもないというジェスチャーを祖母にして、幸作が歩き出そうとしたら、再び声が聞こえてきた。 「コーサク、喉が渇いたわ。水が欲しい」 ふと見れば、庭の梅の木に紅いものが見えた。今朝の、あの春の精とか言っていた女の子だった。 「お、あ……」 庭を指差してうろたえている幸作を、家族は胡乱な目で見ていた。どうやら家族にはあの女の子が見えないらしい。 幸作は二階に駆け上がった。しっかり眠ったはずなのに幻覚をみている。こんなことでは駄目だ。幸作は参考書を開くと遮二無二取りかかった。 ところが。 「コーサク、喉が渇いたと言っているのよ。あたしが干からびてもいいのっ?」 二階の部屋に戻ったというのに、幸作の耳には、あの女の子の声がしっかりと聞こえてくる。 「コーサク、お水ちょうだいってば。水、水、水、お水ちょーだい!」 まるで耳元でがなり立てられているようだった。 幸作は我慢できなくなり、大きな身体を揺さぶるようにして階段を駆け下りると、洗い物をしている母を押しのけて水道からグラスに水をくむと、庭に裸足のまま駆け下りた。途中、まだ茶の間でゴロゴロしていた妹の足を蹴っ飛ばして、「痛いじゃんか、ばかぁ」と怒りを買った。 ハァハァと息を弾ませて、幸作はあの女の子を見上げた。確かに、ちょこんと枝に座っている。 幸作はジャバーッと、持ってきた水を梅の木の根元にかけた。その途端。 「ちょっと。木にかけてどうするのよ。あたしが喉渇いたって言ってるの」 ムムムッと幸作は眉と眉の間を寄せて唸ると、再び台所に行き、今度は妹の足を蹴っ飛ばす前に妹が足を引っ込めたので蹴っ飛ばすこともなく、再び庭に戻ってきた。グラスを高く掲げて、女の子の前に差し出す。 「さっきから何やってんの、お兄ちゃん……」 背後に妹の冷めたい声を聞きながらも幸作は必死だった。とにかく女の子に黙ってもらわないと、勉強に集中できないのだ。 女の子は満足そうに水を一口だけ飲み、ぷはーっと口元を袖で拭いた。 「ああ、美味しかった」 それを聞いて、幸作はすぐにグラスを持って家に戻った。足の裏が真っ黒なのも構わず、家族の胡乱な視線にも構わず、そのまま幸作は二階の自分の部屋に戻った。 さあこれで邪魔されずに勉強ができる。……と思った瞬間。 「コーサク、コーサク!」 再び女の子の声が聞こえた。 幸作はシャーペンを握り締め、今度こそ無視を決め込もうと思った。参考書に顔を近付けて、余計なものをシャットアウトするよう努めた。 しかし女の子の声は止まない。 「きゃあ、虫よ。やだやだ、あたし、虫は大嫌いなの。助けて、コーサク、助けてー」 助けてと言われて無視できるほど幸作は図太い神経をしていなかった。再び大きな身体を揺さぶって階段を駆け下りると、庭に飛び降り、梅の木に駆け寄った。 その勢いで、まるで風圧で吹き飛ばされでもしたように虫は飛び去っていった。何の虫だか分からないほど小さな虫だった。 「ああ、怖かった」 女の子がホッとしたのを見届けて、幸作は走って二階に舞い戻った。 しかし勉強を始めてすぐに、また女の子の声が聞こえてきた。幸作が無視して梅の木まで行かなかったら、女の子はいつまでもいつまでも、幸作を呼び続けた。仕方なく幸作は庭に駆け出す。たいていはつまらない用事だった。 幸作が二階と庭を何度も往復するのを、家族は「大丈夫かしら」という声を囁き交わして見ていた。家族の心配も無理はない。少しも大丈夫ではなかった。 幸作は少しも勉強が手につかず、それなのに時間だけは確実に過ぎていく。焦りが幸作の身をジリジリと焼いていく。 それでも女の子は幸作を呼び続けた。 「コーサク、コーサク、コーサクったら!」 * そんな状態が二週間近く続いた。 今夜も仲島家の二階の部屋には電気がついている。フガッと鼻を鳴らして目を覚ました幸作は、参考書の上に出来あがった湖に、ドンヨリした目を向けた。 また眠ってしまった。 幸作は腕を伸ばしてティッシュを掴み取ると、よだれの湖を消しにかかった。あまりに強くこすりすぎたものだから、参考書はページごとビリッと破けてしまった。 ええい、もう。 普段は温厚な幸作も、思わずチッと舌を弾いて不穏な音を鳴らした。シャーペンを放り投げ、首を左右に回す。骨がポキポキと鳴る音がした。 「コーサク、ねえ、見て見て」 幸作が起きるのを待ち構えていたように、女の子の声がした。頭の中に直接声を流し込まれているように、何よりもクリアに響いてくる。 「コーサクったら、ちょっと来て。ほら見てよ。今夜は月がとてもきれいよ」 入試まであと一週間。幸作に月など眺めている余裕はなかった。 幸作はこれまで何度も、女の子に黙ってくれと頼んだ。家族や近所の人の胡乱な目に耐えながら、梅の木に何度も手を合わせ、頭を下げた。そのたびに女の子は分かったと言い、ホッとした幸作が勉強を始めると、十分もしない内に話しかけてくるのだった。 「ああ、ロマンチック。春の月はおぼろ。ほんのりと淡く光って」 女の子の言葉の途中で、幸作は我慢の限界にきた。膝を机の引き出しにぶつけながら立ち上がり、窓へと走り寄った。 そして窓を開け放し、一階の屋根のあたりに天辺が少しだけ見えている梅の木に向って、幸作は夜中だというのに大声で怒鳴りつけた。 「いい加減にしろ。やれ喉が渇いただの、虫を追い払えだの、鳥が来た、廃品回収の車が来た、月がきれい、それがなんだ。どうして何度頼んでも黙ってくれないんだよ。お前なんか春の精じゃない、害虫だ。うるさいんだ。邪魔をしないでくれ!」 近所の家々の窓が明るくなる前に、幸作はピシャリと窓を閉めた。ついでにカーテンも閉めた。イライラが身体の中にたまりにたまって、その上怒りで熱せられ、ポップコーンのように爆発して飛んでいってしまいそうだった。 幸作に怒鳴られた女の子はさすがに反省したのか、その夜はそれ以上何も話しかけてこなかった。その夜だけではない。 その夜から、女の子は幸作にまったく話しかけてこなくなった。 * ピリピリしていた幸作は、そんなことは気にも留めなかった。机にかじりつくようにして勉強し続け、入試の日を迎えた。 まるで高熱を出してフラフラになっている人のように、幸作は夢うつつで二度目の入試を終えた。無我夢中というような充足感もなかった。ただ終った。終ったという実感もないままに。 それから合格発表の日まで、幸作はほとんど寝て過ごした。一年間の疲れが一気に出たようなものだった。抜け殻と言ってもいいような状態だった。 そして合格発表の日。 朝、電車で大学まで発表を見に行った。地元の国立大学一本に絞っていた幸作は、今日受かっていなければ進学を諦めることに決めていた。そんな大事な日を迎えても、まるで深海にでも沈んでしまったように、幸作の心は不思議と騒ぐことがなかった。 それは張り出された番号の中に自分の番号を見つけても。 あった。 ただそれだけだった。 再び電車に乗り込み、自分の家へと戻る。タタンタタン、という電車の連続的な振動音。何かを小声で話している声。くぐもった笑い声。誰かのクシャミ。 そんな何でもない音を聞いているとき。 不意に、涙がこみ上げそうになった。 幸作は梅干を口いっぱいに頬張った人のように、自分の顔がクシャクシャになっていくのを感じた。大きな身体をひねるようにして窓の方に向ける。電車の窓を一瞬、紅色に染まった梅が通り過ぎた。満開だった。気持ちがようやく、喜びにゆるんだ。 胸の中を喜びで満たして電車を降りた幸作は、家への道を歩いた。特に急ぎはしなかったけれど、自然と早歩きになっていた。 いくつ目の角を曲がった時だろう。ふと、幸作は不自然なことに気付いた。 自分の家へ近付くにつれて、家々の庭から色が消えていく。電車の窓から見た時には梅が満開だったはずなのに、幸作の家の近くの梅は、まったく咲いていなかった。つぼみすら見当たらなかった。 早歩きが小走りになる。 ちょうど幸作が自分の家の玄関に走り込んだ時、庭では幸作の祖母と母が二人並んで、あの梅の木を見上げていた。 「今年は梅が咲かないねぇ」 「ええ、ほんと。確か、あの人が亡くなった年も咲きませんでしたわ。まさかそんなことはないでしょうけれど、ね、少し気になって。……何もなければいいけど」 母の言葉に、幸作は足を止めた。 父の亡くなった年。十年前。幸作の頭を、素早くよぎるものがあった。 「あら、幸作、戻ったの? ね、ね、どうだった?」 幸作は母の声に答えることなく背を向け、二階の自分の部屋へと駆け上がった。頭の中ではあることが、繰り返しグルグルと回っている。 十年前。父の亡くなった年。梅の木。開かずの引き出し。――学習机の! 幸作は部屋に駆け込むと、力任せに机の引き出しを引っ張った。小学校に入学して以来、幸作に膝をぶつけられ通しだった引き出し。いつの間にか開かなくなって、それ以来、何度引っ張っても開かなかった引き出し。 それが、ガゴゴッという音を立てて開いた。 その途端、コロコロと、引き出しの奥から転がってくるもの。引き出しの中には、梅のつぼみがひとつだけ、入っていた。 幸作は床に膝を付いて、十年ぶりに開いた引き出しに顔を近付けた。つぼみは十年前のものとは思えないくらい瑞々しいままだった。 十年前。 幸作は春の来ることを恐れていた。幸作の母と白衣を着た医者が、どんなに手を尽くしても春まではもたないだろうと話していたのを聞いてしまったせいだ。幸作は誰のことを話しているのかすぐに分かった。 『梅はね、春告草ともいうんだよ』 それは父の言葉だった。幸作の父は桜よりも梅を愛した。そういう人だった。冬のように真っ白な病室で、父は少し淋しそうに笑って言った。――もう一度、うちの庭の梅が見たかったな。 その日の夕方。幸作は梅のつぼみを、枝からひとつもぎ取った。それは幸作の家の庭で、一番早くふくらんできた梅のつぼみだった。 春なんか来るな。幸作はつぼみを引き出しに入れ、父を思い、ひとり泣いた。 父はそれから一週間もしない内に亡くなった。幸作の家の梅は咲かなかったけれど、病院の中庭に植えられていた梅は満開だった。 あの時のことを思い出し、幸作は目に涙をためて十年前の梅のつぼみをソッと摘み上げた。 その瞬間。 ポンッとつぼみが勢いよく開き、その中から親指大の女の子が飛び出した。赤いスカートをふわりと広げ、梅の花の上にクルクル回りながら降り立つ。春の精だといっていた、あの女の子だった。 「ふっふーん、驚いた? イリュージョンよ、イリュージョン」 女の子は花の上で、マジシャンがやってみせるようなポーズを決めた。ところが、あまりのことにポカンとしすぎて、幸作は何の反応も示せなかった。そのせいか、女の子は不満げに頬を膨らませた。 「少しは感心したらどうなのよ。何よ、まさかまだ怒ってるの? そりゃ意地悪したことは悪かったと思ってるわ。だけどね、それもこれも、十年前、コーサクがあたしの任務を邪魔したのが悪いんだから」 十年前、幸作がもぎ取ってしまった梅のつぼみには重要な意味があった。 一番早くふくらんでくる梅のつぼみは、"春を起こす"ためにどうしても必要なものだった。それを十年前、幸作がもぎ取ってしまったから、この付近の春は起きなかったと女の子は言った。 「一番早くふくらんでくる梅のつぼみは、春のつぼみなの。とっても、とっても、大切に愛でてあげなきゃいけないんだから。でも、あたしだって、あの時のコーサクの気持ちが分からなかったわけじゃない。だから……」 女の子は少し間を置いて、それからフンとそっぽを向いて早口で言った。 「だからもう許してあげる」 急に、春らしい強い風が幸作の部屋に吹き込んできた。いつの間にか気付かぬ内に、部屋の窓が開いていた。 女の子は梅の花から飛び上がり、風に乗って窓から外に出た。女の子を追って、幸作も窓に走り寄った。 「邪魔してごめんね。でもコーサクはね、自分の力で"春を起こした"のよ。おめでとう。これからも頑張って」 そんな言葉を残し、女の子はまるで光の中に溶けていくように消えてしまった。その瞬間、一階の屋根の上から少しだけ覗いている梅の木が、見る間に咲き始めた。 一階の茶の間からだろうか、幸作の母と祖母の驚いた声が聞こえてくる。 「おばあちゃん、見て。梅が、ほら。幸作、梅が咲いたわ」 「まあ、こんなことがあるのかねぇ。不思議なこと。コウちゃん、ちょっとおいで」 ふたりは帰ってきてすぐに部屋へと駆け込んだ幸作を、きっと今度も駄目だったのだろうと思ったのか、気遣っているようだった。 サクラサク、ならぬ、ウメサク。 じわりと、幸作の胸にどんな言葉でも言い表せない喜びが広がった。 幸作は大きな手をグッと握った。その喜びを手放さないように、強く強く握り締めた。そして―― 「害虫だなんて言ってごめんな」 もうそこにいるかどうか見えなくなって分からないけれど、幸作は窓の外へ身を乗り出すようにして、大きな声を出した。 春の精に向かって謝ると、幸作は大きな身体を揺らすようにして階下に向かった。 「母さん、ばあちゃん、おれ、受かったんだよ!」 その日、幸作の家の小さな庭には、家族の明るい声と、梅の花の優しい香りが満ちた。
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| 春のつぼみは誰の中にもあるもの。 辛いことがあっても、悲しいことがあっても、 大切に愛でて、いつか春の花を咲かせよう! (2006.03.18) |
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