+-++-++ 試着室 ++-++-+
   
 
 人は誰しも心を刺激してくる"言葉"を、ひとつくらい抱え込んでいるはずだ。その言葉を耳にした瞬間、どういうわけか制御不能の状態に陥ってしまう。そして必ず失敗をする。
 その言葉やそれにまつわる失敗を思い出すたび、どうにもたまらなくなってワッと声を上げて布団にもぐり込みたくなる。もしくは、耳を押さえたくなる。
 ――その"言葉"は内側から響いてくるのに。
 とにかく、何とも言い表せないほどの羞恥や後悔で唸りたくなる。
 そんな言葉を、私は抱え込んでいる。

*

 いつもの通勤ルート。
 その途中にあるちょっと洒落た雰囲気のブティック。柔らかい春色のツーピースを着たマネキンが、行きも帰りも、私を見送ってくれる。
 いつも気にはなっていた。
 通るたびに横目で様子を窺っていた。
 けれども、私は一度もそのブティックの前で足を止めたことはなかった。アレが見えるせいだ。
 アレ。
 ……試着室が。
 店内がそれほど広くないせいなのか、一面がガラス張りのせいなのか。ゴテゴテと赤や紫やピンクの花たちが舞うブーケの飾られた試着室の扉が、通るたびに見える。まるで一昔前の、派手さで売っていたテーマパークのようだ。
 そんな外見のケバケバしさとは裏腹に、扉はまるで寡黙な老人のようにいつも閉じている。
 まるでヨボヨボのおじいさんに、無理やり化粧をほどこして、花飾りをかけているみたいだ。
 そんな連想をしたって、私の心をなだめてくれるわけもない。私はあのブティックの前を、少し歩調を速めて通り過ぎる。心持ち俯き加減で。

 今日もそのつもりだった。
 だけど、ふと、本当にふと、としか言えないタイミングで、私の足が止まった。ショーウィンドウが前と変わっていた。マネキンは春らしい薄い萌黄色のツーピースではなく、少しカチッとして見えるサファリ風のシャツとズボンを着ていた。
 あのツーピース、もう売れてしまったのか。
 そんな気持ちが私の足を止めさせた。その瞬間、店内の奥で立っていた40代くらいの女性店員と目が合った。
 人懐こそうな店員は、私と目が合った途端、ニッコリと微笑みかけてきた。とても自然な笑みだった。
 聞くだけ、聞いてみよう。
 私は店内に足を踏み入れた。

「あの……」
「はい、今日はどういったものをお探しですか?」
「いえ、あの……」
 足を踏み入れた時の気持ちはどこへやら、私はモゴモゴと口ごもるばかりで、どうしても言葉が出てこなかった。
 焦った私は、何とか不自然に思われないよう店内を見回した。そして、あのツーピースが奥のハンガーにかけられているのを見つけた。
「あのツーピース……」
 まだ私の言葉が途中にもならない段階で、店員は素早く奥に向かい、そのツーピースを持って戻ってきた。
「お目が高くていらっしゃる。これは直輸入のお品でして、イタリアから取り寄せたものなんですよ」
「はぁ……」
 売れたわけではなかったのか。
 そう思った私が、断りの言葉を続けるために息を継ごうとした瞬間。
「試着されてみてはいかがですか?」
 店員は奥のヨボヨボのおじいさん、試着室の扉を、指をきっちりと付けた手振りで指し示した。
「いえっあの――」
「どうぞ遠慮なさらないで。試着するのはタダなんですから」
 店員は愛想よくそんなことを言いながら、グイグイと私を試着室の前に押していく。扉の前でツーピースを渡されて、私はどうすることもできずに、試着室の扉を開けて中に入ることになった。

 前面の鏡が、異様な威圧感を持って私を見詰め返してくる。
 私は鏡から目を逸らして、どうしようか迷ったけれど、結局はツーピースの袖に腕を通した。スカートのドレープは上品で、上着のボタンホールの仕上げも丁寧だった。
 こっそり値札を見てみたら、この1着でいつも買っている洋服が5着は買えそうな値段だった。
 あまりの値段にフラリとしながらも、ツーピースを着たまま試着室を出ると、店員がすぐさま大仰な口ぶりで言ってきた。
「まあ、大変よくお似合いですわ!」
 その言葉を聞いた瞬間、私の頬は真っ赤に染まった。

 その瞬間から、私はもう駄目だった。
 ヒラリ、ヒラリとスカートを広げるように何度もターンをし、今や開け放たれた試着室の奥の鏡を見ては、ウットリと自分の姿に見入る。
 ナルシスト。
 私は本当にどうしようもないナルシストだった。
「じゃあ、これをいただこうかな」
 私がそう言うと、店員は満面の笑みで頷いた。
 試着室でツーピースを脱いでレジで支払いを済ませる。現金の持ち合わせがなかったので、カードで支払うことになった。
 店員はツーピースを丁寧に折りたたみ、ブティックのロゴの入った紙袋に入れてくれた。メンバーズカードまで作ってくれた。それから私を見送るために、店の外まで出てきてお辞儀をした。そのくらい、高い買い物だった。

 しばらく軽快な足取りで歩いていた私は、ブティックから離れるにつれて次第に足が重くなった。
 またやってしまった。
 ため息と共に、なんとも言えない苦いものが胸からあふれてきた。似合う、そう言われて買わなかったものはなかった。どんなに高い洋服でも、時には借金をしてでも買った。
 病気なんじゃないの。
 知人や親に、そんな風に言われたことがある。だから試着室には入るまい、入るまいと気をつけて、最近ではずいぶんマシになっていたのに……。
 だいたいあのマネキンの着こなしが駄目だったのが悪い。
 だから、着てみたいなんて思ってしまったのだ。
 私は古ぼけたアパートの階段をのぼりながら、何度も何度もため息をついた。今月も、きっと来月も、フリカケご飯でやり過ごすしかない。
 雨や土埃で薄汚れたアパートのドアを開けると、廊下にもはみ出すようにして洋服が所狭しとかけてある。家具と言えるようなものはほとんどない。部屋の7割を洋服が占めている。

 かけられた洋服の重みで、もう今にも壊れそうな洋服かけに何とかスペースを作って、今日買ったツーピースをかけた。
 その直後――
 とうとう重さに耐えられなくなったのか、洋服かけが壊れて、今まで買った洋服が私の上に落ちてきた。
「ああ、もうっ」
 床一面に広がった洋服をどうすることもできず、私は大声で唸った。絶対に後悔すると分かっているのに、どうしても、私はあの言葉に打ち勝つことができなかった。

 私の方が似合うのに――

 他人の誉め言葉なんか信じていやしない。試着室から出てきた時に店員が言う言葉なんて、すぐに言い当てられるほど聞き飽きている。
 私はただ、自分の挑発に、負けてしまう。
 私の方が似合うのに――
 この言葉が私の心を刺激する。どうしても、どうしても、どうしても。

 洋服で埋まりそうな部屋で私はひとり、ため息をついた。「似合う」と言われて買った洋服なのに、試着室以外で着たことは、今まで一度もなかった。
 買った瞬間に、そんな服を着てどこへ行くつもりなのだ、デートの予定もないくせに、と我に返るせいだ。

 そう言えば、総務部の田中さんに彼氏が出来たとか。あの根暗で無愛想な田中さんに。話を聞いた時には信じられなかったけれど、写真を見せてもらったら、田中さんには勿体無いくらいの好青年だった。

 私はノロノロと立ち上がり、壊れた洋服かけを何とか修理できないかと、微妙にゆがんでいるポールを握った。こんなことも、恋人がいたらやってくれるだろうに。

 ああ、洋服なんかより、恋人が欲しい。私によく似合う恋人が――…


 
end  

 

田中さん、ピンチです!
私の方が似合うのに、なんて理由で恋人を奪われたら
たまったものじゃありませんよね。
洋服と恋人は同じには出来ないけれど、
女心は内なる自分の挑発に弱いものなのです。
試着するつもりで恋人を奪うとか……
主人公が悪い気を起こしませんように。

(2006.05.06)
 

 

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