白い紙を貼ったように見える窓ガラス。六月に入って夏服になった私たちと同じ。強い日差しに照らされて、今にも溶けていきそうなくらいだるそうだった。 教室でただひとり、私だけが机についている。みんなはグラウンド。先週、足を捻挫した私は、体育の時間に教室で自習するように言われた。 白い窓の向こうから、まるで弾むボールのように声がたくさん飛んでくる。 先生から渡された自習用のプリントの、その半分までを終えたところでシャーペンが止まった。問題が分からなかったわけじゃなく、簡単な漢字を書き間違えたせい。 不意に、何もかも面倒くさくなった。 私は腕を天井に向かって伸ばし、大きなアクビをした。誰もいない教室。声を出さない、息だけのアクビだったのに、やけに遠くまで響いたように感じた。 アクビのせいでにじんだ涙、教室が少し歪んで見えた。首を回して、伸ばしていた腕を下ろしたとき、机に思い切り肘をぶつけた。 「いったーッ」 思わず肘を押さえた瞬間、机の上にあった消しゴムが床に落ちてコロコロと転がった。 「ああ、もう」 ずいぶん遠くまで転がっていったのか、机についた状態で見える範囲には、私の消しゴムは見当たらなかった。ちびて丸くなった消しゴムだから、難なく転がる。教室を縦断できるくらいに。 私はシャーペンを握りなおして、何とかさっき書き間違えた漢字を、正しい漢字に見せられないか、図形を整えるようにちょこちょこ線を引いてみた。 けれど、駄目だった。 何だか余計に変なものになった。もはや漢字とは思えないくらいのものに。 それでも私は、立ち上がって探すのが面倒くさかった。だって私は捻挫しているのだから。立ち上がるだけで大仕事、ましてや消しゴムを探して歩くなんて、逆立ちして歩いた方がマシなくらいだった。 書き間違えた漢字を見る。消しゴムが転がっていっただろう行方を見る。やっぱり立ち上がって捜さないと駄目かと思ったとき。 隣の机に消しゴムが置かれているのに気付いた。 秋山の机だった。 不思議なことに、消しゴムだけがポツンと、しまい忘れられたように置かれている。まるで白い雲をちぎって丸めて四角に固めたように、それは嘘みたいに真っ白な消しゴムだった。 「ラッキー。ちょいと拝借」 私は手を伸ばして、秋山の机からまだ新しい消しゴムをつまみ上げた。そして書き間違えた漢字の上に、消しゴムを滑らせる。 と。 それはきれいに書き間違えた漢字を消し去った。 でも。 それだけじゃなかった。 その消しゴムは、まだ何も書いていないプリントの上に新しい文字を浮かび上がらせた。ただの文字じゃない。私の筆跡の、私が書いたとしか思えない文字だった。 「え、なにこれ……?」 * ザワザワとした教室の中で、隣の秋山の真っ黒い頭がヒョコヒョコと、落ち着きなく上下している。あれーとか、おっかしーなとか、そんな独り言を呟きながら。 「どうかした?」 私の声に、秋山が顔をこっちに向ける。女子から人気のある黒目がちの大きな瞳で、秋山は私を見詰めて聞いてきた。 「春野さん、おれの消しゴム知らない?」 「さあ?」 私が首を傾げると、秋山は今まで見たこともない真剣な表情で、私の方に一歩近付いてきた。 「あの消しゴムさ、二日前に露天商やってた婆ちゃんから買ったんだけど……。ここだけの話、ヤバイんだ」 「ヤバイって?」 私は興味を引かれて、秋山の方に顔を近付けた。秋山は周囲を見回して、もう一歩、私に近付いた。 「あの消しゴム、未来を浮かび上がらせる代りに、未来を消していくんだ」 「………」 「いやっ、そのっ、別になんだ、その、おれがドリーミンなわけじゃないよ。その消しゴムを売ってた婆ちゃんがそんなこと言ってて。で、なんと言うか、気味が悪いから捨てようと思ってさ。もし誰か知らないで使ったら、大変なことになるって言うか。いや、別にほんと、嘘じゃないんだけど、変なこと言ってごめんな」 秋山は、私が信じていないとひとりで勝手に判断して、ひとりで勝手に慌てて、ひとりで勝手に謝ってきた。そういう慌て者のところが、秋山が女子に人気のある理由なのかもしれない。 私もそういう秋山の慌てた姿を、少しかわいいと思ってしまった。 * 足の捻挫がずいぶん回復してきた頃。私は自分の異変に気付いていた。教師に指されても気付かないでボンヤリしていることが増えたし、考えようとしても途中でその考えが霧散してしまう。 「春野さん、春野さん!」 足を引きずりながら歩いている私に、後ろから秋山が声をかけてきた。振り返ると、何かを決意したような顔。 「春野さん、ほんとにおれの消しゴム、知らない?」 「……知らないわよ」 「ほんとに?」 重ねて聞かれて、私はもう答えるのも億劫だった。秋山の声を無視して教室に入ろうとすると、秋山は私の腕を掴んできた。 「春野さん、このところ変じゃない? なんかボーッとしてるし、いつもだるそうだし。ほんとにおれの消しゴムのこと、知らないんだね? ほんとのほんとに、知らないんだね?」 「しつこいなぁ。知らないったら知らないの。もう体育の時間、始まっちゃうよ」 私の答えに不満そうな顔をしながらも、チャイムの音を聞いて、秋山は渋々掴んでいた腕を離して廊下を走っていった。 その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、私は教室に入った。 誰もいない教室。自分の席まで足を引きずって歩いた。席につくと、自然と秋山の机に視線が向いた。 秋山の机の上には、黒いリストバンドがポツンと置かれていた。いつも秋山が腕にはめているもの。 私は腕を伸ばしてそれをひと撫ですると、息を吐いて、教師から渡されたプリントを机に広げた。プリントの上には私の苦手な数学の問題が二十問、並んでいる。 すぐにプリントをやる気にはなれなくて、私はもう一度秋山の机に視線を向けた。 秋山は、私が秋山の消しゴムを取ったことに気付いている。 でもその理由は分かっていない。きっと。 私は指先をポケットの中に入れると、あの日、秋山の机から拝借した消しゴムをつまみ出した。もうずいぶん小さくなった。最初は私の親指くらいのサイズだったのに、今はもう、親指のツメくらいの大きさになっていた。 体育の時間、自習をする時だけ、私はこの消しゴムを使った。プリントをやるのが面倒くさい。それもあるけど……。 私は足を引きずって窓辺まで歩いていった。 グラウンドでは、楽しそうにサッカーをやっている男子たちの姿。背の高い秋山は、すぐにどこにいるか分かる。今、敵のボールを奪って、味方にパスを出した。そのまま敵のゴールまで走っていく。 早くプリントをすませれば、グラウンドを見ていられる。 グラウンドじゃない。 秋山を見ていられる。 味方からラストパスをもらった秋山がシュートを放ち、それがゴールネットを揺らした。嬉しそうに味方とハイタッチを繰り返す秋山。 私は視線を外して、自分の机に足を引きずりながら戻った。 秋山に謝ろうと思った。机の中からルーズリーフを取り出して、半分に切った。半分になった紙に一言、書いた。消しゴムを取ってごめんなさい。 それからその下に、書こうと思ったわけでもないのに、私はいつの間にかシャーペンを走らせていた。 好き。 気付いたら、そんなことを書いていた。 自分の気持ちに気付いて、恥ずかしくなって思わずその言葉を消そうとした。秋山の机から取った、あの消しゴムで。 その瞬間―― 私は真っ白になった。 音も視界も、ただただ真っ白に。 最後に聞こえたのは、シュートを外したらしい秋山の、「あーあ」という失望した声だったように思う。
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| 消しゴムで消えるのは 文字だけではないかもしれません。 気持ちだって、伝えるタイミングを逃したら ある日、忽然と消えてしまうかもしれません。 (2006.06.04) |
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