東京駅から新幹線に乗り、窓の外を流れていくのどかな田園風景を眺めるともなく眺めて、生まれ故郷の小さな町に帰ってきた。相変わらず閑散としていて、相変わらず静かすぎるほど静かで、相変わらず、何とも言えない故郷の匂いがした。 山に囲まれた小さな駅を降りた途端、プンと鼻の奥の方をついてくる。土の湿ったような匂い。この匂いを嗅ぐと、理屈ではなく肩の力が抜けていく。 * 「こうちゃん、今日の晩ごはんはどうする?」 さっき昼ごはんを食べたばかりだというのに、母親が台所から顔を覗かせ、カフェの店員がつけているような洒落たサロン(前掛け)で手を拭きながら聞いてきた。サロンは去年、俺が母の日に送ったものだった。 なんだよ、そんなの真っ正直に着けてんなよ。 送ったのは自分だというのに、妙に照れくさくて、表面上はかったるいフリをしながら母親のサロンを見ないようにそっぽを向いて言った。 「別に何でもいい」 「いやあねぇ、それが一番困るのよね」 言葉だけは困ったようなフリをしながら、しかし母親はどこかスキップでも始めそうな勢いでいそいそと台所に消えていった。 そのすぐ後で、 「ああ、そうそう。三好のおじさんがスイカをくれるって言うから、お母さんちょっと出かけてくるからね」 なんて声が飛んできた。俺はスイカがあまり好きじゃない。そういうことは、離れて暮らしているとすぐに忘れるみたいだった。 大学進学のために故郷のこの町を出て、就職して、これまで夏に帰省することはほとんどなかった。学生時代はサークルの仲間と、海だ、山だ、レポートだと忙しく、就職してからは盆休みが取れても期間が短くて、まぁどうせ正月に帰るんだからいいかという具合で先延ばしにされる。 どのくらい帰っていないか、指を折って数えてみたら、右手から始めて左手まで折る羽目になった。 丸七年。七年間も夏には帰っていなかった。 日中でも扇風機ひとつでしのげる暑さの中、畳の感触を確かめるようにゴロリと横になった。今住んでいるアパートは全面フローリングで、畳の感触を感じるのも実家に帰ってきた時のみ。 柔らかいようで硬いようで、どこか大きな葉っぱで身体を受け止められているような畳の感触を楽しみながら、俺は身体を反転させた。縁側から家の中へ、顔が、視線が、眩しい外の景色から少し薄暗い家の中に注がれる。 そして、ふと、押入れが少しだけ開いていることに気付いた。 「なんだよ、だらしないなぁ」 いつもなら部屋がどんなに散らかっていてもまぁいいやと思えるのに、何故かこの時だけはそんな風に思えなかった。肘をついて「よっこらしょ」なんてオヤジみたいに言いながら身体を起こして、押入れまで這っていった。 押入れのふすまに手をかけて締めようとしたとき、それが目に飛び込んできた。 ちょうど部屋からの光が一筋の黄色い帯のように押入れの中に線を引いていて、その線にツタをからめるようにして、朝顔が。 「これって……」 懐かしさに、押入れを引き開けた。 その瞬間のことだった。 ぽわんっと、水底から浮かび上がってきた水泡が破裂するような音を立てて、朝顔の中から白髪の婆ちゃんが飛び出てきた。その婆ちゃんは体長二十センチもない。 朝顔といっても、別に押入れの中で朝顔を育てているわけじゃない。 浴衣の柄だ。 俺がガキの頃に着ていた、ほんの小さな、小さな小さな浴衣。 その小さな浴衣の朝顔から、小さな婆ちゃんが飛び出てきたのだ。 「えー……と」 押入れのふすまに手をかけたまま固まっている俺の前で、婆ちゃんは浴衣の上で正座をして、俺を懐かしそうに見上げてくる。 「まぁこうちゃん、ずいぶん大きくなって」 「……そりゃ婆ちゃんが縮んだからだと思うけど」 案外冷静な自分に驚いた。朝顔から飛び出してきたのが、赤の他人じゃなかったからかもしれない。 それでも、久しぶりに顔を合わせて何を話していいか分からなくて口ごもる、そんな昔と変わらないやけに間延びしたような空気が流れた。 俺は何か言いたかった。 でもその何かは、言葉としては未完成のまま、喉の奥に引っかかっている。 婆ちゃんは俺を見上げたまま、とても年を取った人とは思えないほど身軽に立ち上がると、俺の方へと歩いてきた。 「どれ、ちょっとお付き合いしてちょうだい」 そう言って、俺の前に立って歩き出した。婆ちゃんが十歩行けば、俺は一歩行く。そうやって距離を保ちながら、部屋を横断し、廊下を進み、玄関まで来た。 「ここからはこうちゃん、悪いけど、抱えてくれると助かるねぇ」 そう言われて、俺は好きな女の子が大切にしているぬいぐるみをその子に代わって抱えるように、そっと、おっかなびっくり、婆ちゃんを両手の上に乗せた。 「ほー、高いねぇ」 婆ちゃんはまるで新しい遊具で遊ぶ子どもみたいにはしゃぎ、俺の顔と床を交互に見ては楽しそうに笑う。 「婆ちゃん、これからどこに行くの」 俺が聞くと、婆ちゃんはまっすぐに玄関の先を指差した。 「こうちゃんの好きな夏みかんをとりにいくんだよ」 * 母親は俺の好きなものを忘れていたけど、婆ちゃんは忘れていなかった。 「よく覚えていたね」 俺が言うと、婆ちゃんはちょっと誇らしげに胸をそらせて、「そりゃあね」と何度も頷いた。 「こうちゃんは本当に夏みかんが好きで、皮を剥いてくれ剥いてくれって、いつもせがんできたからね」 その頃のことを、俺はよく覚えていなかった。覚えていなかったことが、素直に残念に思えた。 俺は小さな婆ちゃんを手のひらに乗せて、田舎のあぜ道を歩いた。セミが、その鳴き声で耳に騒音幕を張るようにひたすら鳴いている。頭の上で、風が木の葉を揺らす音が聞こえる。 もう、夏みかんのシーズンは終わっている。 街ではまだ夏みかんは売られていても、もう木の上にはない。みんな収穫されて、みんな箱に詰められて出ていった。あの日、俺たちが学校を卒業して実家を出ていった時のように。 緑の山、緑の樹木。何の飾りもない。ただ緑の葉っぱがついている。普通の、なんてことのない木々。その木々の中に、夏みかんの木があった。 ついこの間まで、夏みかんを抱いていた木。むしり取られて、その実の重さから開放されたように枝を伸ばし、けれど何故かしょんぼりとして見える。何故か淋しそうに見える。 「あらまぁ、ひとつも残ってないねぇ」 婆ちゃんは大して残念そうでもなくそう言うと、俺の方を振り返って笑った。笑うと、しわのひとつひとつが彫刻刀で丁寧に彫られたみたいに薄い影を作った。 「こうちゃんは朝顔も好きだったねぇ」 急に、思い出したように婆ちゃんが言った。 俺はそのことを覚えている。夏休みの自由研究で、毎朝、朝顔の観察日記をつけたこと。家族で旅行に行っている間に朝顔を枯らしてしまって、婆ちゃんに八つ当たりしたこと。 ――婆ちゃんが大丈夫って言ったからあのまま置いていったのに! その年は小さな池が干上がるほどの暑い夏で、朝顔も暑さでやられてしまったのだった。自由研究が途中で駄目になったことと、朝顔が駄目になったことを、俺は婆ちゃんのせいにして責めて、泣いて、婆ちゃんを困らせた。 「あの時は……」 言いかけた言葉を、婆ちゃんがさえぎった。別に言葉をかぶせられたわけでもなく、そんな仕種をされたわけでもない。 婆ちゃんはただ笑顔で、俺の顔をじっと見詰めているだけなのに、俺は言葉を続けなくていいのだと思った。 見上げた空の真ん中に、大きな雲からちぎれたような小さな雲の塊が浮かんでいた。 湿った土の匂いがする。 夏が過ぎていく。 俺は手のひらに婆ちゃんを抱えて、来た道を戻り始めた。夏の暑さが、どうしてだかあまり感じなかった。不意に、婆ちゃんが俺を見ないで、進んでいく道だけを見詰めて言った。 「大丈夫、人間は朝顔みたいにしぼんだりしないよ」 * 「―――」 気付いたら、俺は畳にほっぺたをくっ付けて寝ていた。カナカナカナと、遠くでひぐらしが鳴いている。もう夏も終る。 「ただいまー。ふー、暑い、暑い」 玄関から母親の声がした。玄関を踏みしめるドタドタという足音。 いつの間にか俺は眠ってしまっていたようだ。畳に手をついて身体を起こすと、膝を畳にこすりつけるようにして押入れの前に進んだ。 押入れのふすまは、開いてはいなかった。 そっと、ふすまを横に滑らせると、暗い空間に座布団やダンボールでぎっしり詰まった空間があらわれた。 どこにも朝顔の浴衣なんてない。 俺はひとつ息を吐いて、視線を縁側に向けた。その向こう、庭に鉢植えの朝顔が置いてある。もう日も傾き、ほとんどの花が閉じている。 けれどひとつだけ、まるで俺が起きるのを待っていたかのように花を開いているものがあった。俺が見ている間に、その朝顔は花をゆっくりと閉じていった。 小さな朝顔の花。花が閉じると、まるである一点を力強く指差している人の指のように見えた。 俺は視線を家の中に戻すと、ゆっくりと仏壇の前に進んだ。ろうそくに火をつけて、線香を手向ける。 そして、いつもより長く、手を合わせた。 「あー、暑いし、スイカは重いし。あら、こうちゃん、どうしたの」 台所にスイカを運ぶ途中で、母親が仏壇に手を合わせている俺を見つけて足を止めた。スイカが床に下ろされる。 「あー、重い、重い」と言いながら腰を叩いている母親に向かって、俺は言った。 「俺、スイカより夏みかんの方が好きなんだよね」 「あらそうだった?」 母親は何か面白いものでも見つけたように、俺の方へと歩いてきた。スイカが置き去りにされる。 「そう言えば、お婆ちゃんも夏みかんが好きだったわね」 俺の隣に腰を下ろしながら、母親が言った。 「こうちゃん、お婆ちゃんが夏みかんを食べるのを見て、自分も食べたい、食べたいってうるさくて困ったものだったわ。しょうがないから皮をむいてあげると、すっぱーいなんて文句を言うのよ」 笑う母親の隣で、俺も笑った。 なんだよ婆ちゃん、俺の好物を覚えていたのは、自分の好物だったからじゃないか。俺は仏壇に向かって胸の中で呟いた。 それともうひとつ。 俺は別に朝顔が好きってわけじゃない。朝顔の観察日記が駄目になって、婆ちゃんは俺のために朝顔の浴衣を縫ってくれた。 男がこんなもの着られるかと思ったけど。 俺はその夏、どこのお祭りにもその朝顔の浴衣を着ていった。ほんのひと夏。その夏の終りに、婆ちゃんが他界するまで、ずっと。 朝に咲き、昼にはしぼむ。朝顔は、はかない。 だから……。 「母さん、俺やっぱ、向こうに戻る」 「え? まだ帰ってきたばかりじゃない」 隣に座る母親は目を丸くしていた。二日前、背広姿のまま、フラリと連絡もせずに帰ってきた俺を迎えてくれた時のように。 憔悴しきっていた。あの時は。でも今は……。 「うん、帰ってきたからこそ、戻るよ」 疲れたなんて言っていられない。途中でしぼんでしまわないように、最後まで、精一杯、やっていくしかない。 何だかんだと悩みはあるけれど、そんな時は―― 俺は隣に座る母親に、照れくささを押し込めて言った。 「また帰ってくるから。それまで、元気でいてくれな」 母親は今度もまた目を丸くして、しばらくして、その目を弓形に細めて笑った。
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| 小さな婆ちゃんの正体は、 あの世から戻ってきた祖母なのか、 朝顔の精が見せた幻だったのか、 それともただの夢だったのか。 永遠に分からない答えがあってもいいと思うのです。 (2006.08.09) |
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