空に飛行機雲を見つけるとき、あたしは不機嫌なことが多い。 その理由は様々で、せっかく買った洋服に小さなシミを見つけたとか、コンビニの店員の態度が気に入らなかったとか、電車で隣のおじさんがものすごい異臭を発していたとか、親とケンカしたとか。 「あー、ちくしょーもーばっきゃろー」 普段は絶対に使わない言葉を使って、川沿いの歩道に下りる階段に腰掛ける。風が一陣吹いてきて、あたしの鼻をムズムズさせた。 大きなクシャミをした途端、胸にたまった鬱憤まで顔の前で舞ったように思う。 クシャミの後でまた「ばっきゃろー」なんて呟いて、その威勢のいい言葉とは裏腹に、あたしの首は根元から折れて顔が下を向いた。 鬱憤が、涙というしょっぱい雫を作り始めたとき、あたしの目が小さな動くものを見つけた。 「アリ……?」 あたしの足元で、その小さくて黒いアリはまるで誰かの落したホクロみたいにポツンと忘れ去られたように存在していた。アリは枯れかけた草に登ろうとして、その感触がまるで針だったみたいに慌てて下りて……。 「あんた、まだ冬眠しないの?」 もう11月の足音がそこまで来ている時だった。アリは冬になると巣に閉じこもって出てこないと思った。周囲を見ても、そのアリ以外にアリは見当たらなかった。 「あんた、どっから来たのよ。たった1匹で……」 ナチュラルにアリに話しかけている自分に気付いて、あたしは笑いたくなった。笑いたくなった後で、すぐまた鬱憤があたしの胸の中で笑いを吹き消した。イライラして、足元でウロチョロするアリを踏み潰してやろうかと思った。 こいつはとても小さな存在で、今ここであたしがこいつを踏み潰したからって世界が終るわけじゃないし、誰かが困るわけじゃない。 そう思って、急に泣けてきた。 あたしだってちっぽけな存在じゃないのよ。 10月に入ってから、あたしはあたしの時間があたしのものじゃなくって、母さんや父さんや担任の先生のための時間のように感じる。 あたしは高校3年生。いわゆる受験組なんていう言葉で囁かれる立場。 でもあたしは楽観していた。自分の身の丈に合った二流の大学か短大に行けばいいと思っていた。でも両親や担任の先生は違った。 もう少し頑張れば一流の大学にいけるんだから。 それが両親と担任の先生の合言葉で、のんびり構えていたあたしのお尻をこれでもかというほどぶった。ぶって、ぶって、あたしのお尻が赤くはれ上がっていても知らんぷりして、それでもぶった。 頑張れという言葉のムチは、確実にあたしのお尻をはれ上がらせている。 「いったい誰のための受験なのよーっだ!」 思わず叫んでから、誰かに聞かれていたら恥ずかしいと思って周囲を見回した。幸いにもこの寒さのせいか、人の姿はなかった。ただ足元を小さくて黒いアリがウロチョロしているだけで。 アリはあたしの靴に上ろうとして、まるで「うわっクサッ!」とでも言ったみたいな触覚の動きをみせて、あたしの靴に背を向けた。そしてあたしの腰掛けているコンクリートの階段を下り始めた。 「失礼ね、もう」 あたしは、あたしの靴はアリからも相手にされないほどのものかと思って面白くなかった。でも万一アリがあたしの靴を登り始めていたら、その時には容赦なく振り落としていただろうと思う。 そういう自分の自分でも理不尽だと思う心の在りように、あたしはあたしなりの解釈で、今を不完全なままコンプリートする。 コンプリートってこの間覚えた言葉で、とにかく使ってみたかった。そういう思いつきだけで生きているようなあたしが、アリを追跡してみようと思ったのは不思議でもなんでもないことだった。 アリはコンクリート製の階段を、まるで忍者のようにスルスルと下りていく。自分の背丈の何倍もある壁を、ほとんど直角に。 「あんた、人間だったら日光江戸村で一儲けできるよ」 行ったこともない場所の名前を挙げて、あたしはアリが階段を下りきるのを待っていた。それほど時間がかからず、アリは川沿いの歩道に歩を進めた。 どうせアリの行動範囲なんてたかが知れているから、巣穴を発見して、今日の鬱憤をその巣穴に押し込んで帰ろうと思った。アリには迷惑だろうけど、王様の耳はロバの耳と叫んだあの床屋の掘った穴より、アリの掘った穴の方がいい。 アリと一冬を過ごした鬱憤が、来年の春、あたしの笑顔を見て行き場を失えばいい。もう二度とあたしのもとへ戻ってこなければいい。 来年の春。 そんなの今は想像できないけれど。 この間行われた模試の結果が芳しくなくて、あたしは親とケンカした。特に母さんと。あたしはもう受験なんてやめる、お兄ちゃんみたいに学校卒業したらすぐに働くとまくし立てて家を飛び出した。 あたしにはお兄ちゃんがいる。 大学には進まず、高校を卒業したらすぐ知り合いの店で働き出した。昔からおバカな人だった。 成績は下から数えた方が早いくせに勉強はしないし、親に何を言われてもヘラヘラ、妹のあたしに足蹴にされても全然堪えた風にない。5日前には、近所の子どもたちにせがまれて、ジャングルジムでヒーロー物の変身ポーズを披露してそのまま頭から落下、10針も縫う大怪我をした。 バカとしか言いようがない。 こんなバカなお兄ちゃんみたいにはなりたくない。小さな頃からあたしはそう思って今まで生きてきた。 そんなお兄ちゃんの取り柄は休まず働くこと。 頭を縫ってフラフラしていても、仕事は休まずに行った。そう、まるでこのアリみたいに働くことばかり。 「あんた、働くのって楽しい?」 靴で踏まないようにアリの後をつけながら、あたしはアリに本気で聞いていた。答えは期待してなかったけれど、アリはまるで「甘っちょろいな、お嬢ちゃん」とでも言ったみたいな触覚の動きをみせた。 日々を懸命に生きる命の、なんと言うか、たくましさをアリの小さな触覚に感じた。 あたしは働くのを1年でも延ばしたいがために、大学に行くような気がしていた。今はまだ働きたくない。自分の時間を過ごしたい。 でもその自分の時間を、親や担任の先生に食い潰されて、今のあたしの鬱憤はたまる一方だった。 どうしてお兄ちゃんにできたことが、あたしには出来ないんだろう。 学校を卒業したらすぐに働くって、どうしてお兄ちゃんはそんな決断ができたんだろう。 アリのちょこまかした動きを目で追いながら、あたしはそんなことを漠然と考えていた。考えていたというより、思い出していた。 お兄ちゃんが今のあたしと同じ高校3年生のとき。 『おれは進学しないから、その分、美代のためにとっておけばいいじゃん』 三者面談が終った日の夜、お兄ちゃんはそう言って両親を黙らせた。あたしをダシに使って、自分だけ逃げた。 あたしはそのとき、そう思った。 でも今は……。 アリはあんな小さな身体で、休むことなく歩道を進んでいく。アリの行動範囲なんてたかが知れていると思っていたのに、もうずいぶん歩いてきたような気がした。さっきまで腰掛けていた階段が、もう遥か彼方。 このアリは本当にただの蟻なんだろうかと思い始めたとき。 前方から伸びてきた黒い影に、アリが吸い込まれて消えていった。 「あっ――」 思わず目を凝らしているあたしの頭の上から、少し息の切れた声が落ちてきた。とてもとても聞き慣れた声。 「おまえ、こんなところで何やってんの?」 その声に、あたしはアリを探すのをやめてすぐに顔をあげた。お兄ちゃんが、5日前にジャングルジムから落ちて作った頭の傷をガードするために、頭に白いネットをかぶった姿でそこに立っていた。 「何って、お兄ちゃんこそ」 お兄ちゃんの鼻の頭は真っ赤だった。 「おれはコンビニに行く途中」 コンビニはもう行き過ぎていると思うけど。 「あっそ」 あたしは鼻の頭を赤くして息を切らしているお兄ちゃんの横をすり抜けて、さっさと歩いていった。もうアリの巣を探そうとも思わなかった。 お兄ちゃんはあたしの後ろからついてきて、何も言わずに歩いている。まだあたしたちの世界が成績なんて関係なかった頃から、こんな風だった。 いつもお兄ちゃんはそうだった。 「ねー、お兄ちゃん、おなかすいた」 「あー? しょーがねーな、コンビニに着いたら肉まん買ってやるよ。おれ様のお給料で」 「やった。言ってみるもんだね」 「ありがたく思え」 「へへー、ありがたやありがたや」 あたしが両手で拝むまねをしていると、お兄ちゃんは両手をポケットに突っ込んで、次になぜか下唇をムーッと突き出した。 「あそこのコンビニ、ツケがきくかな」 そう言って、お兄ちゃんはズボンのポケットをつまんでポケットの内側を引っ張り出した。すっからかんの、内側を。 「財布もってこなかったの?」 あたしの言葉に、お兄ちゃんは「おまえ、持ってるか?」と聞いてきた。 「しょーがないわねー。あたしのお小遣いでおごってさしあげるわよ」 「おおー、ありがたやありがたや」 「でもうちに帰ったら返してよ」 「おまえ、それは奢るとは言わないんだぞ」 あたしとお兄ちゃんは笑いながらコンビニまで歩いた。 お兄ちゃんはアリに似ている。あたしとあたしの家族に、おバカな笑いをせっせと運んでくる。そういう存在。 あたしはお兄ちゃんみたいになりたくないと思ってきたけど、お兄ちゃんのことは嫌いじゃない。 あたしが鬱憤をためながらもあの家に帰るのは、お兄ちゃんがいて、お兄ちゃんが笑いという大切な糧を運んできてくれるからだと思う。あたしたち家族が凍えないでいられるのは、その大切な糧のおかげだと思う。 来年の春、あたしは大学進学のために家を出る。 そのとき、あたしはきっとお兄ちゃんにこっそり「ありがとう」を告げる。告げるつもり。めいっぱい、かっこつけて。 だから今は親や担任の先生にお尻をぶたれても、頑張ろうと思う。
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あの蟻はいったい何だったのでしょう。 妹思いのお兄ちゃんの分身だったのか。 ただの通りすがりの蟻だったのか。 小さな小さな蟻が運ぶのは、 甘い砂糖だけじゃない、のかもしれません。 (2006.10.29) |
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