+-++-++ 卒業カレンダー ++-++-+
   
 

「やあ、後輩」
 文芸部の先輩がそう言ってわたしを呼び止めたのは、先月の末のことだった。
 その日はわたしたち2年生にとっては期末考査の範囲が発表された日で、3年生は久しぶりの登校日だったと思う。
「うわ、何ですか、先輩。まだ生きていたんですか」
 わたしは素直になれない自分のほっぺたをつねってやりたいと思いながら、ツンとして立ち止まった。先輩は他の3年生から離れてこっちに歩いてきた。ぶらりと歩く様は、何故かよたった近所の猫を思い出させた。
「あのさー、テストが終わってからでいいから、部室の掃除しておいてよ」
「は?」
「卒業まで、おれ、来ないから。どうせ誰もやんないっしょ?」
「なんでわたしが」
「ちょうど今、目に付いたから」
「ついてないー」
 うちの学校の文芸部は、登録している部員数だけでいけばクラスを2つ足した以上の人数がいる。それなのに、どうしてわたしが。部員の中で特に熱心だったわけでもないのに。
 ブツブツと言うわたしを、先輩は斜め上から眺めて笑った。そうだ。いつも笑っている人だ。この人は。
「そんじゃあ、お願いねー」
 近付いてきた時と同じように、ぶらりぶらりと歩きながら、先輩は去っていった。廊下の先で笑い声が響いていた。チャイムが鳴る前の、ジーッという小さな雑音が、スピーカーを震わせていた。
 そのとき、わたしは何も変だと感じなかった。
 自分の気持ちを抑えるので、精一杯だったせいで。

*

 春めいた白っぽい日差しが、窓際に舞う埃をチリチリと細かく散った金剛石のように光らせている。埃っぽい教室は、先月の末から誰も使っていない。
 文芸部の部室。
 テスト週間に入る前までは、誰かしらいて、机の上には小説から週間漫画まで積みあがっていた。文学論なんてやらなかった。ただみんな、誰かがいることに安心して、誰かの好きな本を読んで、普遍的共通の錯覚を持った。
 わたしたちはビビッドな発動期を生きている。
 学校と制服と、常套的感受性で。
「あーあーあー、見事にぐちゃぐちゃだ」
 先月の末、先輩に頼まれてから今日まですっかり忘れていた。テストはとっくに終わっていて、明日からはもう3月だった。
 部室の中は乱雑をきわめていた。
 誰が持ってきたのか分からない雑誌や本を、部室の壁側に置かれている本棚に入れながら、気付けばわたしはため息ばかりついていた。
 掃除をするのがいやなわけじゃない。もちろん、いいわけもないけれど。
 手を止めて、部室を眺めた。
 シンとしている。
 窓から差し込んでくる光は白く長く、その中に黄金の春の粒が混じっていて、ああわたしが入部届けを出しに来たとき、その時もこんな風に窓から陽光が差し込んでいて、先輩はあそこで笑っていたっけ、と思い出を反芻した。
 反芻したせいで、目の表面が湿っぽくなった。
 好きになったのは、その瞬間だった。
 入部届けを出しにきたとき、先輩はわたしをみて「よろしく、後輩」と笑った。ただそれだけで、好きになった。部室に通うたびに、その想いは大きくなった。
 だけどわたしは"ビビッドな発動期"と言い換えたくなるほど恥ずかしい思春期を生きていて、感受性は常套的なものしか持ち合わせていなかった。
 先輩が親しそうに話しかけてきても、わたしはこれっぽっちも素直になれなかった。素直になってたまるものかと思った。素直になった途端、この想いのすべてを何時間かけても喋り続けそうだった。
 好き。
 そんな一言で表現したら、もったいないような気がした。
 だけど何に対してそんな風に思ったのだろう。何だってよかったじゃないのって、今は思う。今――先輩がこの部室に来なくなってからは。
「あーあ、ばかみたい」
 天井に向かって大きなため息を吐いてから、わたしは背中を部室の壁に押し付けた。片足に体重をかけて、もう一方の足をブラリと揺らしてみる。部室の床に、わたしの影がやけに大きく広がっていた。
 そして、ふと、あるものを見付けた。
 壁にかかったカレンダー。
 寄りかかった壁の向こう側。窓からの光を受けて、白い日数が打ち据えた金属みたいに光ってみえた。
 日付が止まったままのカレンダー。
 わたしは腕を伸ばして、そのカレンダーをめくった。3月の日付、卒業式の日に真っ先に目がいって、目をそらそうと思った。そらしたところで、その日がなくなるわけじゃないけれど。そらしたいと思った。
 だけど、そらしてしまう前に、わたしは見付けた。
 そこに、あるものを。
 めくられたカレンダー、その新しく見えた3月の日付の上に、セロハンテープで貼られたメモ書きを。
 整っているのにどこか斜めによたった文字で、そこにはこう書いてあった。
『やあ、後輩。部室の掃除ご苦労さん。お礼に今度うまいものでもおごるから、いつでも連絡されたし。番号は080‐****‐****』
 わたしは震える指をメモ書きに伸ばした。
 一度で掴むことができず、三度目でようやく掴めた。世界が、まるで海の中にもぐってしまったように、ゆらゆら揺れていた。目の前のカレンダーが、まるで真珠にでもなったように光っていた。胸がいっぱいで、涙があふれた。
「ばか、先輩。気付かなかったらどうするのよ」
 メモ書きを剥がすとき、カレンダーの日付を何日か横断してむしりとってしまった。その中には卒業式の日も含まれていた。
 消えてしまった卒業式の日付。
 決してその日がなくなったりはしないけれど、わたしたちはセロハンテープでつながれた。わたしと、先輩。その切れかかっていた関係が。
 そしてようやくわたしは思い至った。
 3年生は部活動を秋で引退している。秋に引退した先輩が、どうして先月になっていきなり部室の掃除なんて頼んでくるのか。
「ばか、わたしったら。なんでもっと早くに気付かないのよ」
 わたしはメモ書きを胸に押し当てて、誰もいない部室で思い切り泣いた。
 きっとわたしは卒業式では泣かない。
 好き、と笑顔で言うために。
 カレンダーをめくるように、わたしはひとつ、成長したのだ。



 
end  

 

切れかけた関係をつなぐのは、
セロハンテープでも電話番号でもなく、
つなごうとする気持ちだと思います。
卒業しても変わらずに付き合える人に、
1人でも多く出会えるといいですね。

(2007.02.15)
 

 

 

 

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