+-++-++ 桜色の狂騒 ++-++-+
   
 

 桜の時期になると毎年そうだ。
 花巻はひどい頭痛に顔をしかめた。ズキズキというのかズンズンというのか、頭の奥で頭痛の種が芽吹いて、頭をグルリと棘の付いているツタでぐるぐる巻きにされて、ギリギリと絞られているように思う。
 鏡の中の顔は青白かった。完全に二日酔いだと分かった。
 花巻は洗面所で歯を磨いていた。このところ、夜明け近くまで飲み明かす毎日だった。
 歯ブラシの、ちょっとした刺激でウエッとなりそうなのをこらえながら、花巻は今日からの予定を頭に浮かべていた。スケジュール帳を見なくても分かっていた。
 花見だ。明日も、明後日も、花見だ。

「夜桜だのなんだの騒いだって、結局最初の五分も花見てないし」
 つい、ぼやきが出た。
 花巻は桜が好きだった。日本人なら桜を見て心騒がせない奴はいないだろうと思うくらい、桜が好きだった。
 けれど社会人になってからというもの、桜というのは飲み会のオプションであり、口実であり、付属物であり、最重要なものではなくなってしまった。
 ま、こうやってセンチメンタルなところとかロマンチックなところとか、磨耗させてすり減らしてやっていかなきゃ、正しい社会人にはなれないってことだ。
 花巻はコップに水を注いで口をゆすいだ。
 そのとき、洗面所の白い陶器の上を何かが流れていった。
 なんだろうと思った時には、それは排水溝の奥へと流れていった。一瞬だったけれど、ピンク色で、どことなく桜の花びらのように見えた。

「おいおい、俺あんとき口をあけて寝てたのか」
 花巻は昨夜のことを思い出した。酔いつぶれて、ほんの少しの時間だったけれど眠ってしまったのだ。満開の桜の下で。
 しかし、ふとおかしなことに気付いた。
 昨夜は確かにずいぶん酔っ払っていたけれど、帰ってからちゃんとシャワーも浴びたし歯も磨いたはずだった。歯を磨いたのなら、桜の花びらなんて取れているはず。
 花巻が二日酔いの頭で本格的に考え出そうとした時に、思いがけずクシャミが出た。
 そのせいか、今まで考えようと思っていたことまで吹き飛んでしまった。風邪を引いたのだったらまずい。今夜も花見の約束が入っているのだ。さっさと風邪薬を飲まなければ。花巻の頭はそんな考えにシフトした。
 花びらのように見えたものについては、
「酔ってたせいで、磨きが甘かったんだな」
 花巻はそう結論付けて、朝の支度に取り掛かった。

*

 花巻は営業職のせいか、誰に対してもだいたいは人当たりがソフトだった。それは取引先の小うるさい担当者に対してもそうだったし、近所のお喋り好きな主婦プラス吠えまくる犬に対してもそうだった。
「おはようございます」
「バウバウッ」
「おはよう。今日もいい天気ねー」
「そうで――ックション」
「バウバウッ」
「あらま、風邪ひいたの? それとも花粉症?」
「たぶん風邪だと思うんですけど」
「バウッバウッ」
「あらー。お大事にねー。……まあ、木村さんの奥さん!」
「ワゥワウッ」
 毎朝のように顔を合わせる主婦との会話は、いつもこんな風だった。こんな風というのは、主婦が答える前に、何故か犬の方が花巻に向かって吠えたてる。それも木村さんの奥さんというのも犬を連れていて、その犬も花巻に向かって盛んに吠えたてるのだ。

 いったい自分の何が気に食わないのだ。
 花巻は犬語を喋ることができたら、一度聞いてみたいと思った。そのくらい、その二頭の犬は吠える。吠えまくる。主婦二人は花巻の存在を忘れ果てたようにお喋りに夢中だが、犬の方は花巻の存在を決して忘れなかった。吠える。吠えまくっている。
 さすがの花巻も、笑顔が引きつりかけてきた。
「それじゃ――」
 失礼します、と言おうとして、花巻は大きなクシャミをした。その瞬間だった。
 ヒュッと、何かが飛んでいくのが見えた。花巻がクシャミをした、その勢いで。口から出た、何か、ピンク色のものが。ふたつ。
 なに……と思ったとき、それはペトリと張り付いた。
 二頭の犬の、その鼻の頭あたりに。
 それは見る限りでは、桜の花びらのようだった。アーモンドのような形の曲線の先端を、片方だけうっかり切り取ってしまった感じの。

「なんで……」
 桜の花びらが?
 花巻は顔をあげて、近くに桜が咲いているのかどうか見渡した。けれどこの辺りには桜の木は一本もなかった。
 花巻が面食らったのとほぼ同時に、犬たちは吠えるのをやめた。吠えるのをやめただけではなく、激しい勢いで花巻に尻尾を振り、そしてクゥーンと、花巻が今まで聞いたことのない甘え声で鳴き始めた。目の色が、さっきまでとまったく違っていた。
「まあ、どうしたの」
「ちょっと。あら、やだ」
 主婦二人が犬の異変を感じ取って、お喋りをやめた。犬はまるで古タイヤを引きずる昭和のスポ根少年のように、主婦を引きずる勢いで花巻に迫ってくる。鼻息が尋常じゃない。まるで花巻のことを、ご馳走か、つがいの相手だと思っているようだった。
 何がなんだかよく分からなかった、けれど。
「それじゃあの、急ぎますんで」
 花巻はダッシュでその場を逃げ去った。後ろから「駄目よ」「待て」「こら」「急にどうしちゃったのよ」という主婦の悲鳴にも似た声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
 正直に言えば、振り返りたくなかった。見てはいけないものを見てしまいそうで。

*

「いったい、あれは何だったんだ……」
 ようやく会社について、自分の机で書類の整理をしながら、花巻は今朝の出来事を思い起こしていた。
 洗面台の上を流れていった花びら。
 犬の鼻の頭に張り付いた花びら。
 何度考えても、納得のいく結論には至らなかった。だいたい、犬たちのいた場所には桜が咲いていなかった。
 じゃあ、あの桜の花びらはいったい何処からやって来たのだ。
 悩む花巻を、あのムズムズが襲ってきた。クシャミだ。猛烈にクシャミがしたい。しかしさすがに正面に座る同僚に大量の唾を吹きかけるわけにもいかず、花巻はそっぽを向いてクシャミをした。
 ところが。
 その中に、またしてもあれが含まれていた。桜の花びらに似た、あれ。
 それが思いもかけないほど勢いよく、飛びに飛んで、営業部の一番奥に座っている人物の頬に張り付いた。
 部長だ。
 営業部の、鬼より怖い女部長。最近本社からこの支店にやって来た、やり手と噂の藤川部長。その藤川部長の、きれいにファンデーションの塗られた頬に、ペタリと。

 ギエッと思った瞬間、部長が顔を上げた。花巻と目が合うと、クイクイと人差し指を折って「こっちに来なさい」というジェスチャーをする。
 花巻は恐る恐る立ち上がり、部長の前に立った。部長はやけに涙で光った瞳を花巻に向けてきた。
「花巻くん」
「部長、あのこれは、事故でして」
「なんの話? それより、どうかしら、今晩」
 女ざかりの部長に、デスクに肘を突いて胸元をチラリと見せ付けられ、花巻は固まった。これを断ると出世に響くのかと一瞬考え、そんなことを一瞬でも考えた自分の頭に、二日酔い以上の頭痛を覚えた。
「今夜はK社との約束がありますので」
 そそくさとそう言うと、花巻は藤川部長の前から逃げた。部長の「花巻くぅん」という、聞いたこともないような呼び声を無視して。
 頭痛はもう、脳天を割られるような痛みになっていた。

*

 おかしい。絶対に何かおかしい。花巻は男子トイレの個室にこもって、己の頭を壁にこれでもかというほど打ちつけたい衝動と戦っていた。
 いつも吠えることしか頭にない犬の変化。
 そして鬼の藤川部長の変化。
 おかしいだろう、どう考えても。そのおかしいのが自分の頭なのか、それとも桜の花びらのようなものを見てしまう自分の目なのか。花巻は考え、どちらにしろおかしいのは自分なのだと気付き、やはり頭を壁に打ちつけたくなった。
 春だからか。
 春だから、頭がおかしくなったのか。俺の頭はそんなにやばいのか。残業のし過ぎか。連日の憂さ晴らしを兼ねた飲み会のせいか。花巻は狭いトイレの個室で壁に身体をぶつけながら転がりまわりたくなった。
 そんな花巻に
「おい、花巻、戦略会議だってよ」
 と、トイレの外から呼ぶ声がする。渋々トイレのドアを開けて出た花巻はふと、どうして自分がここにいると分かったのか不思議に思い、そのことを尋ねた。
 すると同僚はゲラゲラ笑いながら言ったのだ。
「おまえ、トイレの外にまで響く声で“俺の頭はやばい”って独り言いってたぜ。お前が気にするほど、そんなにきてないと思うけどよ」
 同僚は花巻の生え際を凝視した。
 そんなことじゃないと、花巻は言いたくなって、けれど言ったら確実に変人扱いされると分かっているので口をつぐんだ。

 そして同僚と並んで会議室に向かっている途中で、あれがきた。ムズムズだ。クシャミの前の鼻のムズムズ。
 まずいと思った花巻は、とっさに手で口を覆おうとした。が、それよりもクシャミの方が一瞬早かった。
 花巻がクシャミをしながら見たのは、自分の指と指の間を抜けて飛んでいくピンク色のあれだった。桜の花びらのような、あれ。
 そしてそれは、たまたま前から歩いてきた女子社員の額にピトリとくっ付いた。
 花巻が心の奥で怪獣のような叫び声を上げる中、その女子社員は花巻をちらりと見た。黒ブチの眼鏡越しだった。
 ところが、女子社員はそれっきり花巻の方に視線もくれずにすれ違っていった。吠えまくっていた犬や藤川部長のような反応を、まったく、少しも、見せることなく。
 花巻はアレという肩透かしの気分になって、隣の同僚に尋ねていた。
「今の、誰だ?」
「ああー、経理のなんとかって、えーと、名前忘れたけど、お堅いって有名だよ」
「なるほど」
 どこか暗い印象のある女子社員だった。黒ブチの眼鏡に真ん中からバッカリと分けただけのボブ、横髪が顔のほとんどを覆い隠している。
 しかし花巻にとってそれはどうでもいいことだった。
 あの女子社員が特に変わった反応を示さなかったということは、犬の件も藤川部長の件も、たまたまというだけのことだった可能性が高い。
 なんだ、ただの思い過ごしか。
 そう思った花巻を、またもムズムズが襲った。けれど、今度は花巻ももう手で口を覆うことはなかった。思い過ごしなら、気に病む方が余計に悪化するというものだ。

 ところが。
「ックショーイ!」
 豪快にクシャミをした花巻の口から、なんと、何十枚もの桜の花びらに似たあれが飛んだ。何十枚、一瞬にして。
 そしてそれは、たまたま廊下を歩いていた営業部の老若男女の、首やアゴや腕やそこここにピタリと張り付いたものだから、さあ大変。
 ほんのさっき、あれは思い過ごしだろうと思った花巻を、目の色を変えた三十人あまりの営業部員がドドッと襲った。
「ねえー、花巻くぅん」
「おい、花巻。お前ってやなやつだ」
「今晩とか、予定、あいてる?」
「すっげムカツクぜ、お前の顔」
 営業部員が花巻を取り囲んで、やいのやいの言っている。どうやら女性には好かれ、男性には嫌われるらしい。さっきまで隣で笑っていた同僚も、今や花巻のことを親の敵のように口汚く罵ってくる。
 何がどうなっているのやら、花巻にはさっぱり分からなかった。最早パニックだった。
 花巻は「うわー!」と叫び、人々の間をかきわけて逃げた。その後ろを「待て」や「待ってぇー」という声が追いかけてくる。声だけではなく、営業部員たちが追いかけてくる。

 おかしい。おかしい! おかしい!
 自分の頭がおかしいのか、みんなの頭がおかしくなってしまったのか。春だからか。春だから、みんなおかしくなってしまったのか。
 走って逃げる花巻の視線の先に、さっき花巻の傍を素通りした女子社員が見えてきた。女子社員は走ってきた花巻を不思議そうに振り返って見ている。
 花巻はその女子社員の手を握り、資料室と書かれたドアを開けて入り、急いで鍵をしめた。
「あの?」
 怪訝そうな女子社員の声をさえぎって、花巻は一気にまくしたてた。
「きみだけなんだ。この会社、というか、営業部のみんながおかしくなって。女はみんな迫ってくるし、男はみんな殴りかかってくるし。それも、何故なんだか、俺の口から桜の花びらみたいなのが飛んで、それがくっ付いた奴は、もれなくおかしくなるらしい。本当なんだ。だけどさっき、きみにもあれがくっ付いたのに、きみだけはおかしくならなかった。きみだけがまともなんだ。いったいどうしてなんだ。どうなってるんだ」
 ハァハァと息を切らしながら女子社員に詰め寄っていた花巻は、黒ブチ眼鏡の奥の冷静な瞳を見て、ハッと我に返った。

 いきなり走ってきて資料室に強引に引っ張り込んで、鍵までかけて、今の今まで気付かなかったけれど、両手で女子社員の両腕を掴んで、今にも襲い掛からんばかりの姿勢だ。
 花巻はサッと手を放し、なんと言って弁解すれば分かってもらえるか考えていた。
 そのとき、女子社員がクスリと小さく笑った。
「女性が迫ってくるのなら、別にいいじゃない。普通だったら、その花びらのようなものを利用しようとか、考えるんじゃないの?」
 女子社員に冷静なことを言われ、花巻はしばし固まっていた。
 この花びらを利用する?
 さっき囲まれた人垣の中には、花巻が入社してすぐの頃に憧れていた女の先輩もいた。高嶺の花で、一度も想いを口にしたことはなかったし、漠然と憧れているだけだったが。
 それが、あの花びらの影響で、そうだ、今夜の予定を聞いてきたのは、あの先輩だったじゃないか。それを思い出すと、花巻は少し惜しいような気もした。
 けれども……
 花巻は首を横に振った。
「あれは利用なんてしちゃいけない。あれは本当に桜みたいなものだ」
 桜はいつか散る。確実に散る。それも長い間は咲いていない。だからみんな桜の下で一時の狂騒に身を任せる。すぐに散ると知っているから。
 一時期の狂騒のような恋なんて、散った後に侘しさが残るだけじゃないか。

「おかしな人ね、花巻さん」
 女子社員はそう言って、ふわりと、暗い印象をかき消して柔らかく微笑んだ。それからドアに耳を近付けて、誰もいないとふんだのかドアを開けようとした。
「どうしてきみに、あれは効かなかったんだろう」
 花巻は思わず呟いた。
 そんな独り言のような花巻の呟きに、女子社員は振り返った。
「それはたぶん、私の名前が“染井芳乃(そめいよしの)”っていうからよ。実は私、桜の精なの」
 ポカンとしている花巻の前で、資料室のドアは閉まった。その閉まる直前に、「冗談よ」という女子社員の言葉を残して。
 その意外にも楽しそうな声に、花巻は頬がゆるんでいくのを感じた。
「変なのはそっちだ。桜の精だって?」
 笑おうとして、花巻はふと、真顔になった。本当に彼女はうちの女子社員だったろうか、本当に存在したのだろうか。
 頭のおかしくなった自分の作り出した、幻影じゃないのか。
 もう、消えてしまっているんじゃないのか。

 花巻は急に心細いような恐怖を覚えて、慌てて資料室のドアをあけた。あまりにも慌てすぎたせいで、廊下に置いてあったゴミ箱を蹴飛ばして、中身をぶちまけてしまった。
 その音に、女子社員は振り返った。
 消えていなかった。ちゃんといた。ホッとする花巻の前で、女子社員は黒ブチの眼鏡を光らせて、キリッとした顔でゴミを拾うようにジェスチャーで示す。花巻が素直にゴミを拾い始めると、ヨシヨシという風に頷いた。それから、女子社員はバイバイというように小さく手を振って廊下の角を曲がっていった。
 その仕種に、花巻はキュウッとネクタイを絞られたように思った。
 なんだよ、かわいいじゃないかよ。桜の精ね。染井芳乃ちゃんね。
 ゴミを拾いながら、いつしか花巻はニタニタヘラヘラ笑うのを止められなくなっていた。こんな感覚はもう随分昔に置き忘れていたように思う。
 この感覚はまるで……。
 花巻はそっと胸を押さえた。

 それは春が来て桜が咲いて、ただ純粋に桜を楽しんでいた頃の気持ちに、少しだけ似ていた。



 
end  

 

桜の咲く頃は出会いの季節。
桜はすぐに散ってしまうけれど、
その出会いは一生ものになるかもしれません。

(2007.03.20)
 

 

 

 

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