個人のちっぽけな正義なんて、自分のポケットの中でグッと握っていればいいじゃないか。 それをわざわざ取り出して、やいやいこれを見ろ、これこそが正義なのである、なんて唾を飛ばしながら大声で宣言して、なおかつただ見せるだけじゃ飽きたらず、なんで赤の他人に無理やりにでもそれを握らせようとするんだよ。 そんなに人の手垢がつかないと不安なのか。 純粋でピュアな正義ほど、ポケットの中でじっくり握っていればいいじゃないか。そのうち嫌でも人の手垢がベタベタと付いてくる。知識って名前の手垢が。 なあ、そうだろ、ベイビー。 十姉妹のくちばしをなでながら、忠志は確かそんなことを言った。それは中学の卒業式の日のことで、俺と忠志は学校の屋上にいた。 「ベイビーっておまえ、俺はおまえより生まれた月が三ヶ月も前なんだぞ」 「はいはい、そんなことが言いたかったわけじゃないけど、悪かったよ。お前は偉い、おれよりずっと大人だ」 「ふざけんなって」 俺は忠志に呼ばれて、卒業式の終わった後すぐに、学校の屋上までやって来た。忠志のある計画を実行するために。 正直、俺は反対だった。そんなことをなんでするのか、忠志に詰め寄った。そうしたら、さっきの、哲学なんだかよく分からない言葉が返ってきたのだった。 屋上は乾燥しすぎて鼻が痛い。鼻の奥に小さな針でも刺されているように。屋上より下は砂埃のまじった風が、つぼみもついていない裸の木を揺らしていた。 おもむろに、忠志が紙袋を俺に投げてきた。自分でもふたつの紙袋を肘のところからぶら下げている。十姉妹の鳥かごを持って、紙袋をぶら下げている中学生だった男、もうすぐ高校生になる男。 それは黙って見ていると、こっちに変なインスピレーションを与えてくる姿だった。 「なあ、マジで考え直さないか」 俺の言葉など、この世の何より無視してもいいものだと思っているように、忠志はただ首の骨をポキと軽く鳴らしただけだった。 逃げて帰りたい。 そう思う反面で、俺は、これを手伝わなければいけないような気がしていた。 何故なんてそんな都合のいい言葉は頭のどこにもなく、自分の行動を問うような高等とも言える意識は、屋上に来る階段の途中で落っことしてでも来たかのようだった。 俺は自分のポケットに入れていたはずの正義を、どこかで落としたとでもいうのだろうか。 忠志の言葉をぼんやりと思い出して、そんなことを考えた。 忠志はまっすぐ前を向いて、鳥かごから十姉妹を放した。十姉妹は屋上から落下しかけたけれど、ほとんど聞こえないくらいの羽音をさせて持ち直した。学校の桜の木を越えて、グイグイ伸びていくように飛んでいく。 「さあ、そろそろやるぜ。これは日々踏み潰されていく我々のための儀式だ」 踏み潰される。蹂躙される。それは忠志の口癖だった。我々は蹂躙されることを拒否できない存在なのだよ。分かるかい。忠志は確か、中学に上がったばかりでそんなことを言った。 俺は口を開けたまま、忠志のいる二組の女子はかわいい子が多いなとか、そんなことを考えていた。 根本的に俺たちは、なんで喋っているのかさえも分からないくらい、分かり合えない者同士だった。違いすぎて楽しいとか、そういうものでもなかった。 忠志は小学校五年生の時に大都市から引っ越してきた転校生だった。その大都市という目もくらみそうな派手な看板を引っさげた転校生は、何の思い付きか、クラスでも目立たない俺をいたく気に入ったらしい。 確かに同じクラスだった。けれど、席は途方もなく離れていた。転校してきた初日、すぐ横の席のクラスメートが話しかけてきたのをほとんど無視するような形で、忠志は俺の横にやって来た。 そこ、いい席だね。 忠志は確か、そんな不可思議なことを言った。俺がその言葉に対応できないでいると、忠志は急に窓の方を向いて、ほらここからなら窓に映った黒板がきれいに見える、とかなんとか言った。 それがどうしていい席なんだ。俺はそんな疑問を飲み込んだ。 よく意味は分からないながらも、こういうのは運命とかなんかそういう言葉で表される自然の不思議なんだろうと思った。 ただ俺がその席に座っていたのは、クラスでもわがままで通っている女子が席を替わって欲しいと言ったからで、別に窓に映った黒板がきれいに見えるから選んだわけでもなんでもなかった。 けれどそれさえも、運命なんだろうと自分を無理やり納得させた。俺にとって忠志は、とにかくエキセントリックなだけの存在だった。 自分には自分のルールがある。それを独自だとは思わない。だからお前は好きな時にそれに乗っかればいいじゃないか。 忠志はそんなことを言って、俺を屋上まで引っ張ってきた。好きな時に乗っかれと言っておきながら、こっちの意思を慮ることはない。忠志は常に自分の背中に通っている軸だけで決定し、行動し、おおむねマイペースだった。 「絶対に大問題になるだろうな」 俺は忠志から渡された紙袋を手に途方にくれた。中を覗いてみる勇気はなかった。いや、本当はチラリと覗いたのだけれど、その色とりどりの物体に恐れをなして目を逸らしただけのことだった。 屋上から見える校庭は、それぞれの方法で別れを惜しむ生徒たちで幾何学模様を描いていた。ポツンポツンとグループが点在している。教師も今日ばかりは物分りのよい顔をして、生徒のためにか体面のためにか記念写真に付き合ってやっているようだった。 後ろ向きの俺と違って、忠志は今日が特別な日だと分かっているように瞳を輝かせていた。確かに今日は特別な日だった。俺たちの卒業式だったのだから。 けれど忠志は卒業式よりも、今俺たちがやろうとしていることの方こそ特別なのだと、その瞳にしっかりと刻みつけて、屋上から人が作り出す幾何学模様を眺めていた。 「旅立つ我々に祝福を! 祝福を!」 出し抜けにそんなことを叫んだかと思うと、忠志は無造作に紙袋の中に手を突っ込み、そこから引っ張り出したものを屋上からばら撒いた。 忠志の声に気付いたのか、数人の生徒がこっちを見た。けれど、まだほとんどの生徒が記念写真に夢中でこっちには気付いていなかった。 「祝福だ! 踏み潰される我々に、祝福!」 いたって真面目な面持ちでそんなことを叫ぶ忠志に、俺も従った。祝福なんて叫ぶ真似はできなかったけれど、紙袋の中から色とりどりの物体をつかみ出して投げた。物体はヒラヒラと飛んでいくやつもあれば、直滑降に落ちていくものもあった。 紙袋の中でそれを握って掴むたび、まるでさっきまで人がはいていたような生暖かさを感じて、気味が悪かった。 ようやく生徒のほとんどが気付き、教師も気付いた。何か大声で怒鳴っている。忠志もこれ以上ないくらい真面目な口調で怒鳴り返した。 「これから先、デリケートなものは、それに見合ったもので包み隠さなければいけない。だけど我々はラッキーだ。どんな種類のデリケートなものでも、包めないものはない。ほら、拾え、拾って包んで、生きていこうではないか!」 俺たちが屋上から投げているのは、大量の下着だった。それも下着と名の付くものであればすべて。パンツもトランクスもブリーフも、女物のブラジャーも。 これらは忠志が今まで貯金していたお小遣いをすべてはたいて買い集めたもの、だと説明を受けた。実際のところなんて、俺に知るよしもない。忠志は手の内を明かしたことがない。 「さ、ずらかろう」 紙袋をすべて空にした忠志は俺に言った。その後で、俺の紙袋にまだ半分以上残っているのに気付いて、意味深に笑った。 「そんなに名残惜しむこともないだろ。またすぐに見飽きるほど見られるようになる」 「勝手ばかり言うな」 「ちなみに、ベイビーというのは十姉妹の名前だ」 「は?」 「さっきベイビーと言ったのはお前にじゃない」 「……そうかよ」 俺は半分やけくそ気味に屋上から下着をばら撒いた。ちょうど真下にやって来ていた教師の頭に真っ赤なブラジャーが乗っかって、世にも奇妙な生き物がこっちを見上げて怒鳴っていた。 それを見下ろして俺は、やっぱりこの儀式に俺は必要だったのだと思った。真っ赤なブラジャーをかぶった教師を作り出せるのは、忠志じゃなく、俺なのだと。 * そんなことを思い出しながら、俺は白いタキシードを着て笑っている新郎を眺めていた。隣にはレモン色のドレスに身を包んだ新婦。 結婚式の披露宴が終わった直後だった。 若いふたりがこれから歩んでいく大切な儀式。新郎と新婦はたった今、拍手の続く披露宴会場から出てきて、これから帰る招待客に愛敬を振りまいている。 忠志から結婚式の案内状が届いた時には、純粋に驚いた。 あいつが結婚なんて、この世の終わりかと思ったくらいだった。その次に、懐かしさとわき腹のあたりにこみ上げる笑いと、あいつめ、上手くやりやがってという意味もないむかつきが襲ってきた。 会場を後にする招待客たちは、一様にすばらしい披露宴だったと笑顔を新郎新婦に向けている。それは端から見ていても、胸のくすぐられるような、美しい光景だった。 俺は会場の前でブラブラしながら待っている。なるべく最後を選んだ。人の流れが閑散としてきて、俺は歩き始めた。 徐々に忠志が近づいてくる。 「さあ、俺は俺の正義を今もポケットに持っているか」 俺は小さな声でそう言い、自分を鼓舞した。そうしないと、今決意していることがもろく崩れていきそうだった。 そしてようやく忠志の顔が目の前に来た。 「来てくれてありがとう。遠いところを悪かったな」 すっかり大人になった忠志は、デリケートなところを何重にも包み隠したような顔でそう言った。俺は「いや」と小さく答えた。隣の新婦が目に入った。美人なタイプじゃない。ただ人好きのするおとなしいタイプの人だった。 それで余計に心が決まった。 俺はおもむろに紙袋に手を突っ込み、中から下着をつまみ出して忠志の頭の上から降りかけてやった。あの日にも劣らない、色とりどりの下着だ。 忠志はポカンとした後で、急に何かの発作に襲われたように笑い出した。隣の新婦はどんな顔をしたら失礼にならないのか分からないという風な困惑した顔で、今日この日に一生を誓い合った相手を見ていた。肩のところに紫のブラジャーをひっかけている男を。 そして俺は言った。 「おまえはまだ、おまえの正義を今もポケットに持っているか?」 決まったと思った。我ながら最高の祝福ができたと思った。 忠志はまだ笑い続けている。 それから言葉にならない言葉を何とか表すためなのか、忠志は目の縁に涙の粒を抱いたまま、白いタキシードの中からしわくちゃのレシートを出してきた。 二杯のコーヒー代が清算されている、何の変哲もない、ごく普通のレシートだった。
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| エキセントリックな友達が選んだのは、 何の変哲もない、ごく普通の幸せ。 どんな人でも人はそれぞれポケットの中に、 色々なものを持っているのです。 そしてそれが自分を強くしていくのです。 (2007.05.19) |
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