とりたてて何が不満というわけでもないのだけど、学校からの帰り道はいつも俯き加減になる。いつもそうなのだから、今日は尚更だった。 いつも左手で持っているカバンの重さだとか、制服がちっとも汗を吸わなくて気持ち悪いとか、首筋に巻きついてくる自分の髪の毛にまで、変な言い方をすれば絶望する。 絶望なんて、へこんだくらいの意味合いでしか使ったことがないのに。 へこむ、という言葉よりも何倍も重い"絶望"をあえて選んでしまうほど、わたしはたぶん頭に血が上っているのだ。 空は明るい。さっき六時の鐘が鳴ったとは思えないくらい、明るい。このまま夜を忘れて一晩中踊りあかせそうなくらい、明るい。 でも明るいのは空だけで、行き会う人たちの顔は暗かった。 明日、わたしたちの町は接収される。 財政は破綻。財源が尽きた。労働者のほとんどが町から逃げ出した。それを穴埋めするための不法就労も問題になった。そして、最も深刻なダメージを与えたのが、町の未来を託していた企業誘致に失敗したこと。 わたしたちの町は、明日から隣町の傘下に入る。 相合傘の下でふたつの町が肩を寄せる。そんなことなら笑えるけれど、実際はそうじゃない。わたしたちの町の有力者はほとんど、町から追い出される。まさに追い出される。家や土地などの資産は没収されて。 わたしの両親が企業誘致を推し進めたグループの中心人物でなかったなら、「へーそうなんだー」という程度で、今日のクラスメートたちと同じ反応をしていただろう。無関心、無気力、他人任せ。 こんな町、別に名残惜しいなんて思わない。 空にかかる山の稜線は深緑のクレヨンで空に線を引いただけに見えるし、道路はところどころ歯が欠けて入れ歯も真っ青なくらいガタガタだし、人はめったに見かけないし、馬鹿の一つ覚えで"美しいこの自然と共に暮らそう"と繰り返す。 自然は美しい。まるで枕詞よろしく「自然は」という言葉の後には「美しい」という言葉が続くものだと思い込むほど、大人たちからそう教えられてきた。 それは嘘じゃない。 でも、現実とは噛み合わない。 わたしたちの町はあまりに自然を特化させすぎて、企業から嫌われた。自然をなるべく破壊しない工場建設を提案して、採算が見込めないと嫌われた。 自然は嫌われる。嫌われることがある。 そして、失敗した人間は特殊な場合を除いて、ほとんどすべて嫌われる。 わたしは高台に建つ自分の家を目指して歩いた。途中、坂道で立ち止まり、山に挟まれてすり鉢状になった町を見下ろした。西に傾いた太陽はまだ赤く燃えるほどじゃなくて、町は白い布をかけられたみたいに白っぽく見えた。 不意に、名前を呼ばれた。 「あの、磯田さん、本当に、出ていくの?」 振り返ると、羽生さんが立っていた。羽生さんはクラスでも大人しいタイプで、わたしみたいな勝気なタイプとは、グループがまるで違った。話したことも、そんなにない。 わたしが黙って頷くと、彼女は大きな種を喉に詰まらせたみたいに顔を赤くした。途端にポロリと、行き場を失った透明な種が転がり出てきたみたいに、本当に冗談みたいに、透明すぎる涙をその大きな瞳からこぼした。 「なぜ泣くの」 不思議なほど、冷たい声が出てきた。それは、彼女の父親が企業誘致を阻止するグループの中心で、言うなればわたしの両親の政敵だったせいもある。 だからわたしは、彼女がこんなところまでわたしを追いかけてきて、惨めな敗残者に唾を吐きかけようとしているのだと、そう思った。 けれど彼女は、透明な何かの種のような涙を流すばかり。 彼女の涙は、この町が何百年も大切に守り抜いてきた種だ。西に傾いた太陽に照らされて、思わず黙って見詰めてしまうくらい、輝く美しい種だと感じた。 わたしは彼女に背を向けた。さっさと歩いて帰ろうと思った。 けれどその足を止めさせるものがあった。羽生さんが、急にわたしの手を取った。そのまま、道を外れて山の中に入っていく。 「どこに行くのよ」 羽生さんの手は細くて小さくて女の子そのものといった感じで、そこから伝わる熱に、なぜかわたしの全神経が拒否の構えを見せる。 手を離したい。 そう思う一方で、今この手を離したら自分が負けるような気がして、こちらからは絶対に離すものかとも思った。 山は、少ない税収の中でも何とか予算を回してきただけあって、整然と、恐ろしく秩序のある佇まいを見せていた。真っ直ぐに伸びた木が、何事も一途に思い込むこの町の性質にピッタリだと思って、やけに悔しかった。この山の中に、グニャリと曲がった木が一本でもあれば、わたしもここまで牙をむかなかったかもしれない。 牙をむく。 自分で自分の考えにハッとした。 敵意の種はいったいどの時点で、わたしの中に根を下ろしたのだろう。 両親の進める企業誘致が、反対派の妨害で遅々として進まなくなった頃だろうか。その結果、両親が政敵に破れ、町を去ることになった時だろうか。 それとも、この町に生まれて、この町に馴染めないと気付いた瞬間だったろうか。 唐突に、それも圧倒的な疎外感を覚えて、わたしは足を止めた。ちょうど羽生さんも立ち止まって、わたしの方を振り向いた。そこにはもう涙はなく、微笑みが浮かんでいた。 「ここに、未来を植えているの」 羽生さんは少し恥ずかしそうな顔をして、その場所を指で示した。そこは山肌が少し露出したところで、その赤茶けた山肌には不思議な植物が植わっていた。 「これは?」 わたしは見たことのない植物を目にして、気付いたら羽生さんの隣でしゃがみ込んでいた。つないだ手は、もう気にならなかった。 その植物は、幹は細く、ツルンとしていて、葉っぱが1枚もついていない。倒れないようにするためか、添え木がされていた。添え木の横には「04」と書かれた札が挿してあった。 「交配種よ。まだまだ弱くて、雨が降るとすぐに枯れてしまうんだけど、でもいつかきっと強い木になる。強い木にするの、ぜったい」 羽生さんは力を込めてそう言った。それからわたしの方を向いて、小さな声で付け足した。 「だから、わたしのこと、忘れないで」 「どうして」 理由が分からなかった。でも何より、悔しかった。完敗だと思った。強い風が吹いたら倒れそうなくらい細い幹、葉っぱだって1枚もついていない。けれどそれは上に向かって伸びていた。山の頂を見上げるように、ただ真っ直ぐに伸びていた。 羽生さんはわたしの手を強く握ってきた。 そのせいでわたしは、もうすぐこの手を離さなければならないのだと気付いた。 この町にはカンフルが必要だった。すぐにでも財政を立て直す必要があった。それをしなかったから、隣町の傘下に入ることになった。それは譲らない。わたしの両親だって、決してこの町を悪くしようと思って企業誘致を推し進めていたわけじゃないのだから。 手を、誰とだろうと、組むのは難しい。 その手が温かいか冷たいか、組んでみるまで分からなければ尚更。 わたしは負けるということの本当の悔しさと、両親が企業を誘致してまで発展させたかったこの町から、去らなければならない寂しさを感じた。 そう感じた瞬間、わたしは自分で思うよりずっと、この町を愛していたのだと気付いた。愛していなかったら、最初から憤ることなんてなかったかもしれない。 「いつか戻ってきてね。私、がんばるから。私たちの町が、価値のない町だと思われないように、がんばるから」 私たちの町。羽生さんはそう言った。涙で瞳を光らせながらそう言った。 涙は透明な種だ。いつの間にか心に蒔かれて、いつの間にか芽吹こうとする。 わたしは羽生さんから視線をそらした。そっぽを向いて、涙をこらえた。 企業に嫌われ、明日から隣町の傘下に入るこの町に、夕暮れが近づいてきた。西に傾いた太陽は、それでもいつものように町と山々を黄金色に染めた。
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| 日はまた昇る。 だから挫けず種を蒔こう。 心に蒔かれた種は見えないけれど、 きっといつかは芽吹くだろう。 (2007.07.05) |
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