+-++-++ 誰も、知らない ++-++-+
   
 

 いったい何年ぶりだろう。
 二日ほど剃らないでいた頬は、ザラリとしている。七月の下旬、うだるような暑さはまだ遠く、ザラリとした頬も乾燥していた。
 逸夫は湿っぽい土蔵に足を踏み入れて、その薄暗さにめまいのようなものを感じた。もう三十路も超えて久しいというのに、昔からこういう薄暗い場所が苦手だった。
 土蔵にはほとんど日が射さしていなかった。天井近くにある通気を兼ねた小さな窓から、なにか光の粉が零れ落ちるように、土蔵の床をところどころ照らしていた。

 真っ暗ならばまだいい。
 塗りつぶされてまんべんなく黒いのならば、まだ諦めもつく。
 けれど、明るいところと暗いところがまだらにあると、あの境界線を越えたらアウト、越えなかったらセーフというような、目の前で鋭い刃が振り下ろされるのに近い、ヒヤリとした恐怖感がある。
 臆病者だと自分でも思う。
 何がそんなに怖いのだと聞かれても、逸夫自身でさえうまく説明できない。言葉にすれば陳腐なものだからとか、そういう意味で説明できないのではなく、あの恐怖に対応する言葉が見つからないのだ。

 ちょうど三日前、婚約者が去っていった。三行半にも満たない、ただ一言だけを残して。
『別れる』
 真っ白い便箋の真ん中にポツンと、几帳面に上下左右どちらにも均等な空白をとって、整った文字が書かれていた。それを見た瞬間、逸夫は怒りや悲しみや失望より先に、彼女らしいと思った。
 "別れて"でもなく、"さようなら"でもなく、"別れる"と思ったままに書かれていることが。
 懇願でも儀礼的な言葉でもなかったことが、彼女らしいと思えた。
 婚約者はツバキという名前で、昔から強情で押しが強くて強引で人の顔色なんて知ったことじゃないゴーイングマイウェイな人だった。
 そして、逸夫とは幼馴染の間柄だった。お互いにオムツをしている時に対面してから、もう二十五年以上になる。

「はぁやれやれ」
 ツバキと歩いてきた二十五年を思い出して、逸夫は思わずため息に近い呟きをもらしていた。振り回されてばかりの二十五年。それなりに楽しくはあったけれど、あっけないほどいつの間にか過ぎた二十五年だった。
 逸夫は土蔵の湿気と自分の恐怖感を追い払うために、顔の前でパタパタ手をふった。ぬるい風が頬を、そっと撫でていく。さっきまで感じなかった汗を、額とわき腹と背中あたりに感じた。

 土蔵の引き戸は、万が一にもひとりでに閉まらないように開け放しておいた。その上に、念には念を入れて引き戸のレールの上に、持ってきたペットボトルを置いた。薄くレモン色に色づいたペットボトルは、ダイヤモンドを散りばめた服でも着ているようだった。水滴が滑って、レールの上に黒い点を描いた。
 逸夫はそろそろと歩みを進めた。
 昔、ツバキにそそのかされて悪戯をしかける時にだって、こんな抜き足はしたことがない。それほど慎重に歩いた。土蔵に何らかの精霊がいたとしても、決して眠りを妨げられなかっただろう。

 ツバキはいつも足音を立てて歩いた。土蔵の中では特に。逸夫が怖がるのを知っていてわざとそうしていると、逸夫にも分かっていた。分かっていてなおさら、怖かった。
 うるさく足音を立てているのはツバキだというのに、何故か罰を受けるのはツバキではなく自分だと、逸夫はなんとなく信じていた。どうあっても、ツバキにだけは不幸が向かわないのだと思えた。
 思えたのではない。
 そうじゃないといけないと思っていた。信じていた。
 自分の好きな人が、世界中の何よりも愛されている存在だと、無条件で信じていた。だから罰を受けるのは自分になるだろうと、無条件に思った。
 そのくらいのアンラッキーは、別に、ツバキが傍にいてくれるならイーブンだと思えた。そのくらい、好きだった。
 障害がなかったわけじゃない。この二十五年にはさまざまな障害が立ちふさがったと言っても言い過ぎではない。
 婚約して、ようやく結婚することが決まり、式場の予約、招待客の調整、引き出物の選出……

 そうだった。引き出物を選ぶために、ツバキと一緒に百貨店に行ったとき。
 値段と見栄えで、もっとも適正だろうと思えたものを逸夫は指し示した。何の変哲もない普通の平皿だった。これなら値段もそこそこ、見栄えもなかなか、応用も利くし、機能性もいい。バランスが良いと思えた。
 けれどツバキは鼻で笑って相手にしなかった。
『まるで工業製品でも選んでいるみたいね』
 皿はまるで工業製品ではないかのように、ツバキは言った。皿だって、いまどき手焼きで作られるものなんて少ないだろう。そのことを逸夫が言うと、ツバキは哀れなものにでも語りかけるように言った。
『分かってないのね。お皿は工業製品とか、手焼きとか、そんなのまったく関係ないの。この上に料理がのって、どんな団らんを演出できるか、どんな笑い声にふさわしいか、そういうことを考えるべきものなの』
 ツバキの言っていることは、逸夫の理解の範疇を超えていた。何となく感触は分かるものの、薄皮一枚を隔てた向こう側のものだと思えた。

 その時のことを思い出して、逸夫は知らない内に苦笑いを浮かべていた。
 昔から変わらない。ツバキはどんな時もツバキで、きっと自分と離れている時もツバキであり続けるだろう。
 だけど自分は……
 逸夫は目的の箱を見つけて、それを見下ろした。箱の蓋部分には毛筆で、何かの図形にも近い言葉が書かれている。
 不意に、逸夫の胸に不安が満ちた。

 土蔵の周りを何かが回っているように感じる。風、だと思う。音なんてよく聞こえないのに、頑固にそうだと思う。黒い小さな影であるはずはない。なにかこの世のものではないもののはずはない。
『――…』
 耳元に何か感じる。聞こえないはずの声で何か囁かれているように感じる。くすぐったい感覚よりも、背筋がゾッとする。
 逸夫は箱を見つめた。両手で持てるくらいの箱だ。その箱を包むように細長いものが巻かれている。

 それに指をかけようとした瞬間。
 まるでその瞬間を待ちわびていたように、ドンと大きな音がした。土蔵の中いっぱいに音のボールを投げ入れたように、ドンという音はそこら中を跳ね回っているようだ。

 逸夫は心臓をどぎまぎさせて振り返った。
 土蔵の入口にはツバキが、引き戸に身体を預けるようにして立っていた。それから足音をドシドシさせて歩いてくる。
「見ちゃ駄目だって言ったじゃないの!」
「み、見てないよ、まだ」
 ツバキだった。頬を膨らませ、逸夫の手から箱を奪い取る。それからその箱を大切そうに両腕で抱きしめた。箱の中からコトンと小さな音がする。
 逸夫は頭をかいた。
「これがあるなら、戻ってくるかなと思って」
 ツバキは無言だった。じっと、立ったまま、逸夫を見つめている。ツバキの抱えている箱は、ツバキの宝物入れだった。子どもの頃から大切にしている。逸夫でさえ、その中に何が入っているのか知らない。ツバキはとても物を大切にする。それこそ家族のように。
 だから、ツバキがこの箱を置いて出ていくとは思えなかった。

「さすが、幼馴染だけあるわね。わたしのこと、よくご存知で」
 とうとうたまらなくなったという風に、ツバキは笑い出した。笑いながら逸夫を押しのけて、元の場所に箱を戻している。戻すということは、出て行くのをやめたということなのだろう。そんなことはツバキは一言も言わないけれど。
「怖がりのいっくんが、これがあるかどうかを確かめるために土蔵に入るなんてね」
 ツバキは逸夫のことを、昔のように読んだ。子どもの頃の呼び方だった。逸夫も笑いながら応じた。
「それは恐らくね、愛の力だと思うよ、ツーちゃん」
「ふーん。それにしても喉渇いた。あそこに置いてあるジュース、飲んでもいい?」
 逸夫の言葉を受け流し、ツバキは入口の方を振り向いた。引き戸がひとりでに閉まらないように置いた、あのペットボトルのことらしかった。逸夫が「それ、もうぬるいかもしれない」と言うと、ツバキはさっさと土蔵を出ていった。相変わらずの調子で言いながら。
「冷蔵庫にビールあったよねー」

 あったと思うよ、と答えながら、逸夫は箱を見つめた。ツバキの置いた宝物箱の下にある、別の箱だ。
 片手で持てるくらいの、細長い桐の箱。

 それを視線でなぞった瞬間、土蔵の温度が一気に下がったような気がした。音はすべて凍りついたように消えうせ、自分の心臓の音でさえ、なにかコチコチぜんまい仕掛けのおもちゃのように思えた。
『おまえが悪い。何もかも悪い』
 そんな声は聞こえない。土蔵を見回したけれど、そんな声を投げてきそうな怪しげな影は何もない。
 けれど、それなのに、逸夫の頭にはその言葉が囁かれる。
 桐の箱の中には、一本の掛け軸が入っている。逸夫が生まれたとき、誕生のお祝い品としてもらったものだった。
 貰ったと言っても、それが不思議な話で、誰が届けに来たのか家の者は誰も覚えていなかった。気付いたら家にあった。他のお祝いの品と共に。
 掛け軸には見事な椿の花が描かれていた。
 箱を開けてそれを見た祖父は、その掛け軸をいたく気に入り、逸夫のベビーベッドの置かれている部屋にかけておいた。

 その夜だった。
 逸夫は高熱を出した。家人が気付いた時には既にぐったりとしていた。すると、どこからか修行僧のような男がやってきて、家に上がりこんだ。
 まっすぐに逸夫のベビーベッドの前まで来ると、男は掛け軸に目をやった。そこで何が行われたのか、その光景を見たものはいない。
 謎めいた男は祖父に桐の箱を渡した。中には丸められた掛け軸が入っていた。そして言った。
 決して開けないように。
 男が家から出ていった後、不思議なことが起こった。逸夫が寝ていたベビーベッドの上に、逸夫以外にもうひとり、赤ん坊がスヤスヤと眠っていた。女の赤ん坊だった。
 祖父はその女の赤ん坊にツバキと名づけた。
 ひっそりと、秘密裏に、赤ん坊は子どものなかった隣の家に引き取られた。
 事情を知っている祖父も、隣のおじさんおばさんも、まるで示し合わせたかのように同じ時期に亡くなった。
 ツバキは知らない。一切の経緯を。

「ちょっと、いっくん、ビールがないよー!」
 土蔵の外からツバキの、元気な声が聞こえてきた。逸夫は箱から目をそらし、「じゃあ買ってくるよ」と応えた。
 何事もない、いつもの調子で。
 ツバキが出て行く前と同じ調子で。
 逸夫は土蔵の鍵をしめた。もう二度と、この土蔵に足を踏み入れたくなかった。引き戸を閉める瞬間に、チラリと、桐の箱を見た。

 好きだった。一途に想い続けた。純愛だとか、そういう言葉で置き換えるのなら、それはただ"惹かれる"という一言でしか表せなかった。強烈な想いだった。
 だからどうしても、離れたくなかった。
 何が何でも、一緒にいたかった。

 今はもう誰も知らない。
 あの掛け軸には、椿の花と、その花を愛しそうに眺めているひとりの男の子が描かれていたことを。

 ぐったりとした赤ん坊と、壁からはがした掛け軸をピタリと付けて……。
 あの修行僧のような男が何をしたのか。

 掛け軸に描かれていた男の子があの瞬間、椿の花を一輪、掴んできてしまったことを。

 逸夫以外、誰も、知らない。



 
end  

 

あなたはだぁれ。
本当は、だぁれ。

(2007.07.27)
 

 

 

 

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