+-++-++ 先生 ++-++-+
   
 

 西の山の稜線が、夕陽に当たって黒く沈んでいる。
 炎を灯したロウソクの芯が黒くこげるように、山の頂に建つ鉄塔が、西日に照らされながら巨大な山の黒い芯のように佇んでいる。
 走って呼び止めたはずの相手の顔が、日差しに遮られて黒く沈んでみえる。その向こう側の夕陽は、これから汚らしい世界に鉄槌を下すように禍々しく燃えていた。
「辞めるって、ほんと?」
 先生。せんせい。せんせー。どの発音で続けようか迷って、中途半端に途切れた。ぐらぐら煮えた鉄瓶が、把手をなくした状態で胸の中を転げまわっている。手にしたら火傷する。でもそのままでも苦しい。
 先生は、突然呼び止められた驚きのせいなのか、首を斜めにして立ち止まった。手は、ポケットから鍵を取り出した状態で止まっている。
 教職員用の駐車場だった。
 先生の愛車は、何の変哲もないママチャリと呼ばれる自転車。数学の西先生なんて有名自動車メーカーの新車を買ったというのに、先生はママチャリのまま。
 飄々として無頓着。周りの何に対しても無頓着。だから……。
「えっと、小石川さん……」
 先生の声は、いつも教室で聞いているものより一層戸惑った響きがあった。スラックスの膝部分に、大きな綿埃がついている。
 生徒を、さんやくん付けで呼ぶから、小学校の先生みたいに思われて生徒に人気がないんだよ。
 突発的にそんなことが言いたくなったけど、やめた。そんなことが言いたくて、先生を呼び止めたわけじゃない。
「学校、辞める……んですか?」
 職員会議を盗み聞きした。その前に、先生が辞めるらしいという噂は嵐の夜の松籟のように校内を駆け回っていた。
 先生は、無言で佇んでいる。教室でいつもそうであるように。どれだけ生徒が騒ぎまわってもそうであるように、無言で佇んでいる。
 西の空を、不吉な陰影のように烏が横切った。

*

 私語――なんて軽いざわめきじゃなかった。
「次のところを、海老沢くん、読んでください」
 先生の声すらよく聞こえない。
 携帯電話をいじっている子、黒板に背を向けて後ろの席の子とおしゃべりしている子、数人で集まって雑誌の中のグラビアアイドルについて大声で笑い合っているやつら。
 声、声、声、そこに電子音も加わって、教室は騒がしくて何でもありの無法地帯だった。
 そこで名前を呼ばれた海老沢が、「わっかりませーん」なんて声変わりがまだ完全に終わっていない裏返った声で答えたものだから、教室にドッという笑いの波が押し寄せた。
「分からないって、教科書を読むだけなのに?」
 教卓の前で先生は、とりあえず会話を続けようとする。
 けれど、海老沢はすぐにグラビアアイドルの載っている雑誌に向き合い、その隣にいた男子生徒が海老沢の肩に手を乗せる。――無視しろよ、という鎖で縛るみたいに。
「じゃあ……」
 先生は他の誰かを指名しようとするけれど、結局は自分で読み始める。誰も教科書を開いていない。誰も黙らない。誰も先生の声を聞かない。
 私はその騒がしい教室の中で、窓の外を眺めるフリをして、実際には胃をキリキリさせていた。

 最初はこうじゃなかった。
 先生は、少しばかり気が弱そうに見えたけど、優しい先生だったし、数学の西先生よりよっぽど女子生徒から人気もあった。青白くてヒョロリとした先生の印象は、ジャージ姿で生徒を追い回すだけの他の先生よりずっとよかった。
 先生は少しだって変わっていない。
 変わったのは、私たちの方だった。
 黒板に、整った文字を書いていく先生の後ろ姿を横目で見つめる。
 癖なのか、黒板の高いところに板書するときにカーディガンを腕まくりするから、先生の紺色のカーディガンの肘の裏側には白いチョークの粉が付いている。私は知っている。たぶん、私だけが気にしている。
 教室の中の声は、先生の声をかき消そうとしている。先生の声は、前よりずっと小さくなったように思う。数にはかなわない。気の弱い先生の姿は、無数のふてぶてしい話し声で蹂躙されていく。
 その姿が、私の胸の鉄瓶を煮え立たせる。鉄瓶の蓋が、寒冷地で歯が鳴るようにカチカチ鳴り始める。熱いのだか、冷たいのだか、それすらも分からないくらい、私の胸を苦しくさせる。どうにかしたい。どうにかできるものならどうにかしたい。
 でもその鉄瓶の把手をもぎ取ったのは、私自身だった。

 私が、最初に先生を無視した。
 夏休みがあけてすぐだった。
『小石川さん、次を読んでください』
 先生に言われて椅子を引いて立ち上がった。教科書を持ち上げて、そこまでは読む気があった。
 でも不意に、脱力した。脱力したとしか言いようがなかった。
 舌は上あごに張り付いて動かなかったし、目は教科書の文字を少しも追わなかったし、指先は何かの呪いにかかったように小刻みに震えるばかりだった。
 私は何も言わずに教室を出ていった。
 困惑したような先生の声が聞こえた。追いかけてくる足音も聞こえた。腕をつかまれそうになって、睨んだら、先生は手を引っ込めた。
 私はそれまで何の問題も起こしたことのない生徒だった。模範的とも言えた。成績だってよかった。入学した頃はトップだった。
 そんな私の反乱に、教室は一気に騒がしくなった。先生が慌てて私のあとを追った姿は、廊下側の窓から身を乗り出すようにして、ほとんどの生徒に目撃された。
 そうして私は、先生を無視してもいい存在だと、教室のみんなに知らしめた。

*

「先生、辞めるって、本当ですか」
 私のせいですか。
 私が最初に先生を無視して、それでみんなが騒がしくなって、学級崩壊なんて下手な小説のタイトルみたいな状態に陥って、それで嫌味な教頭あたりにネチネチと指導力不足なんて突付かれて、それで、辞めるんですか。
 言いたいことは、言わなくちゃいけないことは、たくさんあったのに、私はその言葉たちをすっ飛ばして別のことを言い出した。
「先生は、私たちの胸にタイムカプセルを埋めていくんです」
 急にそんなことを言われて、先生は持っていた自転車の鍵を取り落とした。慌てて拾い上げて、え、なんてださすぎる声を出した。
 でも私は笑わなかった。笑えなかった。鉄瓶が胸の中を転げまわって、いっそのこと中身をすべてぶちまけないと収まりがつかない。
「先生、私たちのこと馬鹿にしているでしょ。学力と成績の区別もつかない、馬鹿なガキだって思っているでしょ。その通りなの。私たちは馬鹿でどうしようもないガキなの。そういうどうしようもないガキのやっちゃった、馬鹿な行為を、先生は私たちの胸にタイムカプセルとして埋めていっているの。私たちが大人になって、胸のタイムカプセルを開けたら後悔する。自分の愚かさを嘆く。ぜったい」
 大人になって真面目に新聞を読むようになったら、学級崩壊なんて言葉を目にしただけで、先生のことを思い出すだろう。
 通勤電車の中で、この世の愚のすべてを集めて固めたような学生の姿を見ただけで、先生のことを思い出すだろう。
 一人暮らしの暗い部屋に戻ってきて、誰も話し相手のいない冷たい布団に、疲れて棒のようになった身体を横たえた時にも、きっと先生のことを思い出す。
 これから先、先生のことはきっかけさえあれば何度だって思い出すだろう。
 だから、こんな幕切れはいやだった。

「私、先生のこと、好きだから。ほんとはずっと、好きだったから」
 入学した時にトップだった私の成績は、夏休み前の期末考査で中くらいあたりまで落ちた。成績と学力の違いに気付けなかった私は、学力を伸ばす努力なんて何もしていないのに、気持ちばかり焦っていた。何もかもが悪い方に動いているように思えた。
 先生を無視しようと思ったわけじゃない。
 ただもう、とにかく教室から逃げ出したかっただけ。
 でも先生なら、もしかしたら許してくれるかもしれないって、そういう甘えがあったのも確かだった。
「先生、辞めないでよ」
 こんな苦しいタイムカプセルを、私の胸に埋めないで。
 その言葉が自分可愛さから出たものだと、頭の片隅では自分で自分を非難する声が響いている。響いていたってどうしようもなかった。
 視線を落とした先に、先生の腕があった。紺色のカーディガンは夕闇の影を吸い込んだみたいに濃紺に見えた。やっぱり肘の裏側には白いチョークの粉がついていた。
 先生は無言だった。
 夕陽が山の頂にぶつかり、じわじわとにじんで溶けていくように西の空を赤く染め上げていく。
 先生はそのまま静かに自転車の鍵をあけてまたがると、ゆっくりとペダルを踏み込んだ。自転車の車輪が一回りする間、私の横をゆっくりと先生がすり抜けていく間――
 私は先生の言葉を待った。
 絶望感に胸を震わせながら。
「気をつけて帰りなさい……」
 先生の声は、教室で聞くより小さかった。

 煮えた鉄瓶は今も私の胸の中で転げまわっている。中身をぶちまけても、苦しさは同じだった。把手はもうない。中身もそのうちすぐに溜まるだろう。何も、変わらない。苦しさはずっと胸に残る。タイムカプセルとして。
 私は先生の後ろ姿を見送った。
 気をつけて帰りなさい。
 先生はそう言った。その後で……
 また明日。
 そう聞こえたのは、もしかしたら私の気のせいだったかもしれない。願望だったかもしれない。それでもいい。
 先生の声は、教室で聞くよりずっとずっと、身近に感じられた。



 
end  

 

後悔することを教えられるのは、
純粋に人を愛することのできる人だけ。
そのことに気付くのは、
純粋に人を愛した瞬間から。

(2007.09.16)
 

 

 

 

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