+-++-++ ドーナツ半分の恋 ++-++-+
   
 

 印象ということの意味でいえば、それは最悪だったと思う。
 最悪とまではいかなくても、最悪に近いものだったことは自分でも自覚している。
 その日は、昨日の夜中のテレビで、ひいきにしている海外のサッカーチームがありえない逆転負けを喫して、朝からとにかく機嫌が悪かった。
 相手チームの健闘や、パスをカットした選手の個人技に拍手を送ることもできない。ただただ、ひいきチームに「なにやってんだよ!」と怒鳴り声を送りたくなる。実際、テレビに向かって意味不明の言葉も叫んだ。
 安達というクラスでも成績のいいことを鼻にかけている男に言わせたら、そのひいきチームの勝敗とお前と、いったい何のかかわりがあるのだと、見下すような瞳を隠さない。
 確かに、自分の胸に手を当てて考えても、そのチームに入りたいと思ったこともなければ、入れると思ったこともない。
 だけど、そんなことは問題じゃないだろう。
 自分にかかわるかどうか、自分の人生にかかわるかどうか、そんなことですべてを判断するのは面白くないじゃないか。
 自分の人生にかかわることだけにしか喜びを見出せなかったら、この先、何を糧に生きていけと言うのだ。人生の喜びの半分は、他人の喜びに同調することで作られているんだ。嘘じゃない。絶対そうだ。
 
 そんなことで鼻息を荒くしていたせいで、目つきが悪かった。ごめんなさい、という声の主が誰なのか確かめもせずに、ギロリと睨んだ。
「本当にごめんなさい。あの、よかったら半分にしますか?」
 小さな手で差し出されたのは、チョコレートのかかったドーナツ。火曜日の限定で購買に入る、レアアイテム。
 睨んでから後悔したのはこの際、まぁいい。よくはないけど、仕方がない。
 だけど、相手が誰であるか認めて鼻の穴が膨らんだことだけは、この先、布団に入って寝る前に思い出しては、顔を真っ赤にしてもだえるに違いない。
 相手はドーナツを差し出したまま、再び聞いてきた。
「あの、半分にしますか?」
「別にいらねーし」
 自分でもギョッとするくらい無愛想な声が出て、相手が下を向いたのは分かった。それで喉がすぼまった。昨夜はあんなにののしる言葉が次から次へとわいてきた頭も、フォローの言葉はひとつも出してこなかった。
 険悪なものが広がった。リノリウムの床は冷気だけでなく、なにか言い知れぬ苛立ちと興奮と絶望が、沈殿して淀んでたまっているように感じた。
「悪いな、高坂。こいつ、今日は機嫌が悪いんだ」
 後ろからそんなフォローの言葉が投げられて、なんていいやつがいるのだと振り返れば、件の安達だった。自分が誰かのミスをうまく処理することで、女子連中の株を上げようという魂胆か!
 くそう、この野郎。そう思いながらも、その言葉でホッとしたように顔を上げた高坂を見たら、それでいいかと思った。
「だいたい高坂の方が早く取ったんだから、遠慮なんかする必要もないんだ」
「でもほとんど同時だったから」
 高坂は器用に袋の中でドーナツを半分にすると、ポケットティッシュを取り出して、それをこっちに差し出してきた。こっちが受け取らないでいると、何を考えてしゃしゃり出てきたのか、代理人よろしく安達が受け取ったのだ。
 それだけでなく、
「気にすんな」
 そんな気安い言葉を、高坂にかけていた。
 
 安達には腹が立つ。女子と気安く喋るところも、頭のよさそうな外見とそれに見合った頭の中身と、何より、こいつは一年の時に高坂と同じクラスだったというだけで、安達には他のもてそうな連中より余計に腹が立つ。
「まだ昨夜の試合結果を引きずっているのか? 自分に何のかかわりもないのに」
 安達に言われて、ムカッときた。だけど次の瞬間には落ち込んだ。そうだ。自分に何のかかわりもないチームの逆転負けに気を取られて、かかわりのあるもの、かかわりになるかもしれない絶好のチャンスを潰したんだ。
「お前の言うことは、もしかしたら、たまには正しいのかもしれない」
「もしかしたら、たまには、ってなんだよ。ほとんどの場合で正しいと思うぜ」
「言ってろよ」
「これ、どうする?」
 安達にティッシュで包まれたドーナツを出されて、まだ自分がズボンのポケットに手を入れたままだったことに気付いた。だからだ。別に受け取るのが気まずいとかそういうことまでは頭になかった。
 それなのに、安達は勝手に判断して、そのドーナツをほおばった。
 瞬間的に殴りたくなったけど、グッとこらえた。まだ廊下には高坂の姿が見える。校舎の長い廊下がこんなにも恨めしいと思ったのは初めてだ。
 安達はドーナツを飲み下してから言う。
「真面目に忠告するけどさ、あんまり自分にかかわりのないものに熱くなるなよ」
「そういうお前は熱くなることはないのかよ? 氷のハートか?」
「なんだよ、氷のハートって。面白くもない。でもまあ、熱くなることもある。自分にかかわりのあることにはな」
 そう言った安達の視線は、遠ざかっていく高坂の後姿を捉えて、それからこっちに向けられた。その瞳の色だけで、こいつも高坂のことが好きなんじゃないかと思えた。
 その次の瞬間にはもう、安達の胸倉を掴んでいた。
 殴ったのはまあ、やりすぎだと自分でも自覚している。
 
*
 
 ドーナツ屋の前で足を止めて、迷った末に何個か買った。カラフルなトッピングに負けない明るい店内には、女子中高生が多くいた。青い、サッカー日本代表のユニフォームを着ている子もいた。
 そうか、代表の試合があったのか。
 口の中でなじみのないドーナツの名前を唱えながら、ぼんやりとそんなことを考える。あんなに熱かった時代は過ぎ、今はニュースで結果を追うだけで精一杯だ。あの頃は普通だった朝方までの海外の好ゲーム観戦も、今はできない。仕事に遅刻することはできないし、朝からブスッとしていられる身分でもない。
 バツ三になった。
 離婚暦が三つ。
 結婚し、離婚するたびに、サッカーを観ることが徐々になくなっていった。疲れていた。ぐったりと。なにかに沈み込んでしまいたいくらいに。疲れに重さを感じたのは、二回目に離婚届に判を押した瞬間だった。
 金で解決できるならと、三人の元妻には慰謝料を惜しまなかった。だからって恨まれていないとは言い切れないけれど、それなりに貢献はした。どの妻との間にも子どもはできなかった。それが唯一の救いだとしたら、なんともやりきれない。
 離婚してひとり、真っ暗な部屋の湿った布団に横になっていたら、ときどき高坂のことを思い出す。
 春休みが来るたびに、同じクラスになれるよう、ひそかに願掛けをしていた。
 一度だって、その願掛けに効果があったためしはなかったけれど。
 高坂とは、あの購買の前で話したっきり、二度と話すことはなかった。
 あれが話すという行為に相当するのかどうかはおいておいて。
 
「よお、こっちこっち!」
 手を振られて、居酒屋の奥まった座敷に歩いていった。変に卑屈な笑顔になっているかもしれない。卒業して以来、今回までずっと、同窓会には顔を出さなかった。
「卒業以来か? すごく久しぶりだな」
 笑いながらグラスを突き合わせ、好きでもないビールを喉に流し込む。そうしながら視界の隅で、高坂の姿を探した。噂では結婚して子どもがひとりいると聞いた。生活に疲れた暗い顔をしていたらと想像して、それが別れた妻たちの顔になって、やめた。
「ところでおまえ、なに持ってきたんだ?」
「ああ、ドーナツ」
 隣から覗き込まれて、ドーナツの入った箱をテーブルの上にあげて見せた。テーブルの卓上コンロの上では白菜が煮えている。
「鍋にドーナツかよ。食べ合わせが悪そうだな」
 笑う同級生の隣から、不意に「そう言えば」という声が飛んできた。
「おまえ、安達とひとつのドーナツを取り合ったっていう噂は、本当か?」
「まさか」
 胸をドキリとさせながらも、笑うだけの余裕はあった。卒業してから身につけた。笑いながら、内心の動揺ですぼまった喉に無理やりビールを流し込む。最近では、どんなに困っても黙り込むということはなくなった。
「けど、安達は気にしてるんじゃないか?」
「なんで?」
「おおだって、お前が来るって聞いたら、あいつ、ドーナツ買ってくるとか言って出ていったぜ。高坂と」
 ついでのように付け加えられたその名前に、喉はいよいよすぼまって、口の横からビールが少しこぼれた。それを手の甲で拭いながら、なるべく何気ない風を装って聞いてみた。
「安達と高坂って、結婚したのか?」
「は? おまえ、知らないの?」
 同級生はグラスを傾けて喉を湿らせから信じられないことを言った。その言葉と、遠い席で突如起こった笑い声が重なった。だから、聞こえていないフリをしてもう一度確かめた。
「すまん。なんて言った、今?」
「だから、あいつら兄妹なんだって。苗字は違うけどさ」
 高坂の父親と、安達の母親が子連れ再婚をしたらしい。その際、安達は再婚相手の籍には入らなかった。だから苗字が違う。
「事情は分からないけどさ、あの頃、安達ってやけにクールぶったところがあったよな。実際、自分を抑えてないとやってられなかったのかもしれないけどさ。いきなり同じ年齢の妹ができたって、そりゃやっぱり複雑だし」
 アルコールの匂いでもしてきそうな言葉を聞き流して、そっと目をつぶった。目の奥ではしきりとあの時のことが再現されていた。
 
『悪いな、高坂。こいつ、今日は機嫌が悪いんだ』
『だいたい高坂の方が早く取ったんだから、遠慮なんかする必要もないんだ』
『気にすんな』
 
 安達の言葉のひとつひとつが、今にして思えば納得できた。あいつは、自分が誰かのミスをうまく処理することで、女子連中の株を上げようと思っていたわけじゃない。
 高坂に、ただ言いたかっただけじゃないのか。ドーナツひとつで、あんなに遠慮する高坂だから。
 遠慮するな。気にするな。
 そう、言いたかったんじゃないのか。
「なんだよ、あいつ」
 すぼまっていた喉が一気に開いて、笑い声が飛び出してきた。変な顔でこっちを見ている同級生には構わず、座敷をおりた。
 
 居酒屋を出たところで、安達と高坂の姿を見つけた。安達は兄貴ぶっているのか、高坂の手からドーナツの箱を取り上げようとしている。遠くから見ても、仲のよい兄妹らしかった。どこにもぎこちないものはなかった。
「なんだよ、あいつ」
 かみ締めた奥歯からは、笑い声だけじゃない、何年も胸の奥でくすぶっていた想いが、じわり、じわり、あふれてくる。
 高坂はこっちの姿を見つけて、びっくりしたような顔で立ち止まった。思い出の中の高坂と、ほとんど変わっていない。ぷくっとした頬も、丸い瞳も、もしかしたら本人は気にしているかもしれないチビなところも、ぜんぶ含めて。
「よかったな。サッカーの代表、今日は勝ったんだって?」
 安達は相変わらずこっちを見下すような瞳をして、そのくせどこで聞いてきたのか試合結果を口にした。
「ああ、今日は最高に気分がいいぜ」
 こっちが笑うと、安達は首を縮めてヤレヤレといわんばかりのポーズをとった。まあいい。そんなポーズも今日は少しも頭に来ない。
 高坂は目が合うと、ドーナツの箱を差し出してきた。
「今日、来るって聞いたから。あの時のこと、ずっと気になってて」
 見上げる視線は、安達を非難しているようだった。安達を殴ったところは、高坂にも見られている。
 殴ったのはこっちだ。こっちを非難するならともかく、安達を責めるというのはどういう理由だろう。まさか、こっちの気持ちが筒抜けで知られていたのだろうか。
 そう思って、ヒヤリとした。
 ヒヤリとしてから、高坂が結婚したという噂を思い出し、気持ちが暗くなった。
 
「結婚、したんだって?」
「ああ」
 当然のように答えたのは、けれど高坂ではなく、安達だった。ニヤリと笑って、携帯電話を取り出した。
「おれの愛娘を見るか?」
 意外と、マイホームパパをやっているらしい。
「高坂は?」
「まだ……」
 首を振って、恥ずかしそうにうつむいた。噂はどうやらあてにならないものらしい。気を取り直して声をかけようとした瞬間、安達の視線とぶつかった。
 それで、何よりも前に言うことがあると気付いた。
「おれ、離婚したんだ。三回ほど。最低の男だし、その自覚はある。ただ、今の今まで、ずっと忘れていたことがあって」
 ドーナツの箱をあけた。あの時のドーナツと似たチョコレートのかかったやつをつまんで、半分に割った。
 遠回りをした。
 ここまで長い時間がかかった。本当はもっとずっと、シンプルなことだった。
 
「あの時のさ、ドーナツの半分、ありがとうな。嬉しかった」
 ずっと胸の奥でくすぶっていた。
 火曜日限定のレアアイテムのドーナツを分けてくれた高坂に、ありがとうの一言もいえない不器用な自分がいやだった。
 半分に割ったドーナツを差し出すと、高坂は瞳を潤ませた。
「ううん、いいの。半分にしたかったから」
 人生の喜びの半分は、他人の喜びに同調することで作られている。
 あのとき、熱い気持ちを持っていた頃、そう思っていた。信じていたといってもいい。いつから、その気持ちを忘れてしまったのだろう。
 最高に、気分がよかった。
 本当に久しぶりに気分がよかった。胸の奥が、じわり、熱くなった。確かに感じた。朝方までサッカーの観戦をしていた時とは違う。もっと範囲の広い、穏やかな熱さ。
 こういう熱さもあるのだ。
 高坂のぷくっとした頬に赤みがさしている。なにか、胸の熱さがお互いに同調しているようだと思えた。心の底から、そう思えた。
 安達はひとり鼻白んで言った。
「あのな、感激しているところ邪魔して悪いが、そのドーナツを買ったのはそいつじゃないぞ」
 兄貴としては、言わずにはおられなかったのだろう。
 そう言えば、安達にはあの時に殴ったことを謝っていない。ぶつくさ言いながら離れていく安達の後ろ姿に、声をかけようとした。
 そのとき、高坂に手を引かれた。
 安達に謝るのは、四回目の結婚が決まったらにしようと思う。



 
end  

 

ドーナツ半分の甘さが、
初恋の記憶。
 
(2007.11.24)
 

 

 

 

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