握り締めたら、それは本当に手の中にあるのかどうかも分からないくらい平べったかった。ブレザーのボタン。ほんの三ヶ月前まで、あいつの制服にくっついていた。 ほんの三ヶ月。 口の中で呟いて、そのぼんやりとした曖昧さにどうしようもなく胸が痛くなった。 時間なんか関係ない。誰かの心がまったく別の方向を向くのに、そう、時間なんかちっとも関係がないのだから。 わたしは握り締めたボタンを、自分の体温が移ってしまうくらい長い間、どうすることもできなかった。 開け放した窓からは、おばあちゃんが入院してから少しずつ荒れていく庭が見える。青々としているのは、おばあちゃんが手塩にかけて育ててきた花ではなく、どこからともなく種が運ばれてきて、いつの間にか根付いてしまう雑草のたぐい。 あいつの心にも、きっと、どこからともなく運ばれてきただけ。――真剣な瞳を向ける相手が。 唇を噛んだら、鼻の奥がツンとした。 あの瞬間には晴れていた空は、今、灰色の雲を広げ、雨を落とそうとしている。 恋……なんかじゃなかった。 ボタンを握り締めて、わたしは自分の心を確かめた。ボタンを貰ったとき、それは恋と呼べるようなものじゃなかった。一番親しい友達。それがピッタリの相手だった。 でもあの瞬間。 あいつの真剣な瞳が別の誰かに向けられているのを見た瞬間、わたしは思い知った。 恋と呼べる気持ちは、現実よりずっとずっと、遅れてやってくる。 「ちくしょー! 大野のやつ! ばかばかばか!」 わざと子どもっぽく叫ぶと、わたしは握り締めていたボタンを窓の外に放り投げた。 ボタンはキラリと光ることもなく、今やポツポツと雨の降り出した庭で何度か跳ねて転がって、見えなくなった。 もう二度と見たくないと思った。 * 「大野、ねえ、ボタンちょうだいよ」 わたしは自転車置き場にいた大野をやっとのことでつかまえた。中学の卒業式のあと。みんなはまだ記念写真を撮っている中で、大野はさっさと帰ろうとしていた。 大野はみんなと撮る写真が嫌い。わたしは知っている。標準より低い自分の身長を気にして、でもそれを気にしていないようなフリをしつつ、そんな記念写真なんかには興味がないというポーズを取る。 わたしは大野に一歩近付いた。短い影が、大野の靴先に触れそうなくらい。 「聞こえた? ボタン、ちょうだい」 「は……?」 「ボタン、そこについてるやつ」 指差すと、大野はまるでそこを拳銃で撃たれたみたいに手で押さえ、首を九十度に折るようにしてボタンを見た。 「そこについてるって、これ……」 「そう。第二ボタン。知ってる? うちらの母親たちの世代には、第二ボタンを貰うのが流行ってたんだって」 知ってるという言葉を、大野は喉元で飲み込んだ……そんな顔をした。戸惑いと気恥ずかしさが、大野の肩のあたりで踊り狂っているみたいだった。 だから、わたしは最初から用意していた言葉をその次に続けた。 「記念にさ。別に、深い意味はなくって」 冗談めかして、胸がドキドキしている理由からはわざと目をそらして、わたしは言った。その途端に大野は、ブチッと音がするくらい乱暴にブレザーからボタンをもぎ取った。 無言で、それをわたしに差し出してきた。 やるよ、も、ほらよ、も、なかった。 ただの無言が、わたしには嬉しかった。その無言の中には言葉にできない"なにか"を、込めていてくれたのだと思っていたから。 それが自分の勘違いだと、あの瞬間に打ちのめされるまでは。 * 翌朝はよく晴れていた。カーテンを開ける前から、東の空にかかる太陽からの熱を感じた。 カーテンをあけると、部屋の中に、真っ白な絨毯をひいたみたいに朝日が射し込んできた。裸足のつま先が、普段は感じない太陽の熱を吸ってヒリヒリする。 昨夜はよく眠れなかった……なんてこともなかった。 布団の中でしばらくは眠るのを躊躇うようにグズグズしていたけれど、寝返りを打った後は覚えていない。なにか、夢をみたような感覚はあるけれど、その夢の内容は覚えていなかった。 大きな口をあけてアクビをして、それからわたしは見覚えのない花を見つけた。昨日まではなかった。一晩で咲いた花。そういう花の種類もあるのかもしれない。 けれどそれだけですませられないものが、その花にはあった。 たとえるなら平べったい菊のような花だった。そして、その花の上にちんまりと、正座をして、人が乗っていた。花に乗れるくらい、小さな人が。 わたしは目をこすって、何度も瞬きを繰り返した。 その小さな人に、見覚えがあったせいだ。 「夕菜ちゃん、おはよう」 にこりと笑ったのは、あいつだった。大野――が、もともと背が高い方ではないけど、ちびっこくなって、ちんまりと花の上に座っていた。 わたしは混乱する頭をなんとか働かせて、とりあえずカーテンを閉めた。 「あっ、ひどい。どうしてカーテンを閉めちゃうの?」 窓の外からそんな声が聞こえた。間違いなく、大野の声だった。でも、大野はそんな話し方はしない。そんな、頭の中に花の咲いているようなのんきな話し方は。 わたしの頭はますます混乱した。 夢なら、これは悪夢と呼べるたぐいのものなのだろうかと考えた。 * あの花が咲いている。 学校から戻ったわたしは、カーテンを指先で少しだけ開けて、花の咲いているのを確かめた。その上にちんまりと乗っかっている人の姿も。 あれは、まさか、昨日私の投げたボタンのせいなのだろうか。ふと、そんなことを思った。 大野に貰った第二ボタンから芽が出て花が咲いて、その花の上にミニ大野が乗っかって……? そんなことが起こるはずない。いくらわたしが不安定な年頃だとしても、そのくらいのことは分かる。 でも、それじゃあ、あれはどうして。 わたしは恐る恐るカーテンの隙間から庭を見た。 やっぱりミニ大野はそこにいた。ちんまりと、風に吹かれて揺れる花の上で、落っこちそうになりながらも踏ん張って、こっちが見ていることに気付いた途端に、にこりと笑う。 大野はそんな風に笑顔を安売りしない。 「あんたなんか大っ嫌い!」 胸の中に、ムカムカと、昨日の怒りがこみ上げてきた。 わたしはカーテンを跳ね除けるようにして開けると、窓を開けて、裸足のまま庭に飛び降りた。 引っこ抜いてやる。 こんな花なんて、大野の顔なんて、見たくない。 引っこ抜いて、足で踏んづけてやる。 そう思った。 たった三ヶ月でわたしのことなんて、わたしがボタンをちょだいと言ったことなんて、まるでなかったみたいに、別の誰かと楽しそうに歩く大野なんか……。 わたしはズカズカと花の前まできて、そこで膝の力が抜けた。ガクリと、座り込んでしまった。 菊みたいに平べったい花の上で、ミニ大野がわたしを見上げてくる。夕菜ちゃん。そんな風にわたしのことを呼んで。 本当の大野は、決してわたしのことをそんな風に呼ばない。あんな風に、女の子とふたりっきりで歩くことだってなかった。時代遅れの硬派を気取っていて、根っから堅物で、わたしとだって、歩いてくれなかった。 悔しかった。悲しかった。切なかった。ショックだった。 彼氏彼女の関係なんかじゃなかったけど。 それでもわたしが一番、大野のことを知っていると思っていた。 「泣いてるの、夕菜ちゃん?」 ミニ大野に声をかけられて、わたしは自分の頬が濡れていることに気付いた。昨日、あの瞬間にも、その後にも、涙は出なかったのに。 「うるさい、ばか。あんたなんか枯れちゃえ!」 わたしは花に向かって本気で怒鳴ると、部屋に戻った。泥だらけの足で。もう何もかもどうだっていいと思えた。 でもパートから帰ったおかあさんにはわたしのそんな気持ちが伝わるはずもなく、がっつり怒られた。 * 中学までは、廊下ですれ違うほとんどの子の顔を知っていた。校区は狭く、ほとんどが誰かの友達だった。 高校に入って、校区は広がり、廊下ですれ違うほとんどの子の顔を知らなかった。クラスも増えて、クラスが違うと、中学で仲のよかった子ともまったく話さなくなった。 人と人のつながりの脆さを、わたしは生まれて初めて感じた。 大野とも、校内で会うことはなかった。 それでもわたしは、廊下を歩くとき、昇降口で靴をしまうとき、胸がざわつくのを止められなかった。もしここで大野と出会ったら。わたしの胸はそんなちっぽけな想像だけで、湖に小波が立つように落ち着かなくなる。 胸のざわつきは、不思議と体力を奪っていく。 身体がだるくて何もやりたくなくなる。 青い空を見ても、白い雲を見ても、灰色のセロファン越しに見ているように感じる。暗いところから唐突に明るいところに出て、一瞬、色を失った世界が、ずっと、続いているみたいに。 もしかしたら、校内でもう一度、大野と出会った方がよかったのかもしれない。 たとえ隣に別の誰かがいても。 『あれ、彼女できたんだ?』 今度はそんな風に、あの卒業式の後みたいに、冗談めかして言えるかもしれない。そうしたらこの胸のざわつきもなくなるのかもしれない。 その方が…… いっそ、楽になれるのかもしれなかった。 * 「夕菜、庭の水やりをお願いねって、ママ言ったでしょう!」 学校から戻った途端におかあさんにつかまった。おばあちゃんが入院してから、パートと病院と家の往復でおかあさんは苛立っている。 おばあちゃんが元気だった頃は、家はもっと明るくて楽しかった。おばあちゃんは毎日、庭に咲いた花を玄関やテーブルの上に飾った。ハムスターを飼っていた時もあった。 あの頃は、大野はただのクラスメートだった。 ほんの数回しか話したことがなかったけれど。 「ママこれから病院に行くから、庭の水やりお願いね。夕菜、ずっと水あげてなかったでしょ。庭の土がカラカラよ。おばあちゃんが戻ってきたとき、花が枯れていたらかわいそうじゃない。それに花だって生きているんだから」 おかあさんは両手に大きな荷物を持って、玄関でスニーカーをはきながら言う。何十年後にはわたしもこんな風になるんだろうかと、ぼんやり考えた。 「夕菜、分かった? お願いよ」 ねえおかあさん、初めて失恋した時ってどうだった……? 聞きたくて、聞けない。聞く勇気がない。失恋したなんて思われたくない。笑われたらどうしよう。 ちっぽけなプライドと得体の知れない心細さの間で迷っている間に、玄関のドアは閉まった。 途端に家の中は暗くなった。窓の外は真っ白に光って見えるのに。 わたしは首をねじるように窓を見つめて、けれどどうしてもつま先をそっちに向けることができなかった。 庭には行けない。 あの花がある。 ミニ大野がいる。 カーテンの隙間から覗くたび、にこりと笑いかけてくる。 その笑顔が、昨日からは弱々しくなっていることに、庭の他の花と同じように元気がないことに、わたしだって気付いていた。 * 晴天の日が何日も続いた。校庭の土は乾燥して、風が吹くたびに土埃を舞い上げる。強い日差しがまるで胸の中にまで射し込んできたみたいに、わたしの胸をチクチクさせる。 心から追い払いたかった。 庭のあの花のことも、本物の大野のことも。 「夕菜、ちょっと痩せたんじゃない? ダイエットでもしてるの?」 「まぁねー、これから夏だしさ、やっぱねー」 何が”やっぱねー”なんだろう、自分で自分の言葉に突っ込みを入れたくなる。教室で友達と話している時も、明るく笑う自分の内側に、暗くてジメジメしたものを感じる。平気じゃないのに平気なふりして、そんな自分がとても惨めに思える。 友達は腕の肉を指先でつまみながら明るく笑った。 「うわー、やばい、水泳の授業っていつからだっけ?」 「今更あがいたって無駄だってー」 あはは。あはは。笑い声がどこかヒラヒラ剥離して聞こえる。 同じように笑おうとして、わたしは急に喉が詰まった。咳き込んだわたしを、友達が「だいじょうぶー?」なんて笑いながら覗き込んでくる。 大丈夫じゃない。 大丈夫なんかじゃ、ない。 「夕菜、ちょっと、どうしたの……」 その場にいた友達みんなが、凍りついたみたいにわたしを見た。まるで初めて会った人を見るみたいに。今初めて、わたしを本当に見たみたいに。 「ごめん、帰る!」 わたしは椅子を蹴飛ばす勢いで教室を出た。昇降口で靴をはいているとき、チャイムが鳴っていた。それでもわたしは学校を飛び出した。校庭をまっすぐに突っ切った。 校庭のプラタナスの葉の隙間から零れ落ちた日の光が、影を追い払うようにさわさわ揺れている。日の光に照らされた地面は白っぽく、まるで砂漠みたいに乾燥していた。 わたしは泣きながら走った。 枯れちゃえと怒鳴った。 枯れてしまえばいいと思った。 あんな花。 ミニ大野なんか。 大嫌い、大嫌い。大嫌い……だけど。 * わたしが走って庭にやって来たとき、ミニ大野は平べったい花から半分落っこちそうになっていた。腕をダラリと花の外に出したまま。 「待ってて!」 叫ぶと、わたしはゴムホース目掛けて走った。水道の蛇口をめいっぱい時計回りにまわすと、わたしは庭に向けて勢いよく水を撒いた。 制服はびしょぬれ。 入学祝に買ってもらった革靴は泥でドロドロに汚れた。 花はキラキラ光る水の粒を、大事そうに花びらいっぱいで抱いていた。ミニ大野は、それでもグッタリしていた。 「どうしよう……どうしよう……!」 わたしのせいだ。 わたしが、水をあげなかったからだ。 こうなると分かっていて、わたしは水をあげなかった。どうしても庭に出たくなかった。大野の顔を見たら、また、泣いてしまうから。 自分勝手なわたし。 嗚咽がこみ上げてくる。 「ごめん、ごめ……ん」 乾いた土に吸収できなかった濁った水が、しゃがみこんでいるわたしのスカートを濡らす。そこまで身を低くして、しゃがみこんで、もうほとんど土下座みたいな格好になっていたからだ。 細い声がわたしの耳に届いたのは。 「……夕菜ちゃん」 ミニ大野が、真っ青な顔で笑った。こんな状態で、笑った。その瞬間、わたしは胸の奥が、なにか、弾けたように思った。痛くて、痛くて、仕方がなかった。 でも逆に、弾けたせいで、少し楽にもなった。 「そうだ、栄養剤とか、確か、植物のやつがあった」 子どもの頃、おばあちゃんの手伝いで庭の植物たちの世話をしたことがあった。 わたしは垂直とびをするように立ち上がった。 「待ってて。絶対に待ってて。わたしが帰ってくるまで絶対に、死なないで」 ミニ大野は青い顔を少し、傾けたように思った。うなずいたのか、ただ疲れて顔を伏せたのか、分からなかった。 わたしは走った。 制服はびしょ濡れ。スカートは泥だらけ。革靴はドロドロ。そんな格好で走った。まっすぐに行った先は、コンビニ。自動ドアが開くのも待てずに、肩をぶつけながらレジカウンターに走り寄った。 「花の、栄養剤って置いてますか」 店員は困った顔をしていた。 家から一番近いお店はコンビニくらいしかなかった。ない――という気はしていた。でもそれじゃあ、どこに行けばいい? 園芸店はここからバスで二十分もかかる。 泣きそうになっているわたしの傍に、髪の毛の真っ白なおばあさんが近寄ってきた。 「木酢液なら、薬局にも置いていると思うわよ。あれは栄養剤にもなるから」 事情は分からないながらも、なにかのっぴきならないものを感じたのだろう。白髪のおばあさんはわたしを見て、まるで力づけるように微笑んだ。その微笑に、わたしは自分のおばあちゃんを思い出した。 わたしは何度も何度もお礼を言いながら、コンビニを飛び出した。 薬局ならここから五分のところにある。 * 木酢液を握り締めて、わたしが庭に戻ってきたとき。――ミニ大野は平べったい花の上には見当たらなかった。 「ちょっと、どこ行ったの!」 わたしは庭の真ん中で立ち尽くして、大声を出した。どうしてなのか、どうしても、花の傍には近寄れなかった。 「これ、買ってきたんだから。これのせいで、お小遣いなくなったんだから。どこ行ったのよ……。わたしが戻るまで、死なないでって……言ったじゃない……!」 足が震えた。ずっと走っていたせいで息が上がっていた。頭がクラクラした。しゃがみ込むと、自然と膝の間に顔が沈んだ。 視線を花に向けることができなかった。 もしも花の下に、ミニ大野の死……そこまで考えて、わたしはその考えを握りつぶすように木酢液のボトルを強く握り締めた。 その時だった。 「……夕菜ちゃん」 細く、細く、ほとんど消え入りそうな声が聞こえてきた。 わたしは弾かれたように顔をあげると、花の近くまでにじり寄った。スカートだけじゃない、膝まで泥だらけになった。 ミニ大野は花の下で、花の茎に寄りかかるように立っていた。 その小さな身体に、わたしは木酢液のボトルを近づけた。 「これ、これが、花の栄養剤になるって聞いた」 焦って出ない言葉を懸命に口にするわたしの提案を、けれどミニ大野は笑って首を振って退けた。 「いいんだ。最初から夕菜ちゃんが元気になるまでって約束だったから」 どういう意味……? 息が苦しくて言葉が出ない間に、ミニ大野はふらつく足でわたしに近付いてきて、わたしを見上げた。やっぱり、笑顔だった。 「前は、約束を守れなかったから。これ、取ってごめんね」 ミニ大野は謎めいたことを言い、古ぼけたボタンを差し出してきた。 そのボタンを見た瞬間、わたしの身体に震えが起こった。 「これ……」 震える指先で、そのボタンを受け取ると、ミニ大野はもうひとつのボタンを背中の後ろから取り出した。 「これも、返すよ」 それはブレザーのボタンだった。本物の大野のブレザーについていたボタン。卒業式の後でもらったボタン。わたしが窓から放り投げたボタン。 ミニ大野はわたしを見上げて言った。 「もう大丈夫だよ。夕菜ちゃんは強いから」 ぜんぜん、強くなんかない。 言葉は、涙に吸い取られて出なかった。 ミニ大野は笑ってボタンを差し出している。わたしは手の甲で涙を拭いて、その手をゆっくりと近づけた。 そうして、ボタンを受け取った瞬間、ミニ大野はまるで空気に溶けてしまうみたいに薄くなって消えてしまった。 最後まで、笑顔だった。 「夕菜、どうしたの。あら、やだ、制服が泥だらけじゃない!」 泣きじゃくっているわたしの背後から、おかあさんの声が聞こえた。そして、その尖りかかった声が、ふとしんみりしたものになる。 「チュースケのお墓、こんなところにあったのね」 そう。 そうだった。 おばあちゃんがまだ元気だったころ、わたしの家ではハムスターを飼っていた。名前はチュースケ。 チュースケはひまわりの種とボタンが大好きで、いつもボタンを巣の中に持って帰ってしまう。お気に入りの服のボタンが、ひとつだけ違う、なんてこともよくあった。 わたしは古ぼけたボタンと新しいボタンをひとつの手で握り締めて、緑陰に佇むソフトボール大の石を見つめた。 チュースケが死んだとき、わたしは傍にいられなかった。学校から帰ると、もうチュースケは小さな箱の中に入れられて動かなくなっていた。 朝、学校に行く前にわたしはチュースケを見下ろして、帰ってくるまで待ってて、ぜったいにわたしが帰るまで死なないで、がんばってと、何度も話しかけた。 約束を守れなかったから―― そんな風に言ってくれたチュースケに、わたしはなんてひどいことをしたんだろう。 わたしは子どもみたいに泣きじゃくった。おかあさんは何故か理由をひとつも聞かずに、わたしをひとりっきりにしてくれた。 大野のことだけじゃない。 病院にだって、わたしは行けなかった。 おかあさんが忙しいのを分かっていて、手伝おうか、その一言が言えなかった。病気になったおばあちゃんに会うのがつらかった。 そう、わたしが、自分が、つらかったから、行けなかった。 おばあちゃんはもっとつらいだろうに。 わたしは古ぼけたボタンと新しいボタンを握り締めると、涙を拭いて立ち上がった。そして家の中に大きな声を放り投げた。 「おかあさん、明日、おばあちゃんのお見舞い、わたしが行くから!」 ふと見ると、あの平べったい花はもう庭のどこを探しても見当たらなかった。
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| 失うことの苦しみは、 全力を尽くさなければ、よけいにつらい。 そして、 目に見える暗い影はひとつでも、 ふたつのものの重なった影かもしれない。 (2008.06.07) |
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