道を踏み外す予感はまるでなかった。それも藤好の歩んできた人生と同じだ。いつも気付けば谷間にいて、いつも気付けば傷ついている。 藤好は背中の痛みに顔をしかめ、暮れていく山の空をしばらく眺めた。そうしたいと思ったわけでも、動けないほど大きな怪我をしたわけでもなかった。 ただ放心していた。何をやっているんだろうという気持ちが強くなる。 ため息は、不思議と出なかった。それ以上に重いなにかが、胸の中にあったせいだった。 「ほんと、なにやってんだろ」 林道から一直線に滑り落ちた。前をよく見ていなかった。手には一通の手紙を握り締めて、ただそればかりを見ていたら、気付けば谷間に滑り落ちていた。 * 藤好が生まれ育った町に戻ってきたのは、急逝した父親の墓参りをしてから三ヵ月後のことだった。 しばらくは何もしなかった。できなかったというのが正しい。 職はなく、無軌道な人生の終焉が、ただ音もなく、実感もなく、じわじわと近付いてきているような狂おしい焦りばかりが募っていた。 その間、胸を焼くほどの思いがあった。 どうして戻ってきてしまったのか。 どうして過ちを繰り返そうとしているのか。 無性に惚れっぽい自分の性格を、藤好は自覚していた。惚れると、何をおいても惚れた相手のところへすっ飛んでいってしまう。そのせいで、何度も職を変えた。何度も住む場所を変えた。 自分はまた同じ過ちを繰り返そうとしているんじゃないのか。 いいや、父親のいない家で母親をひとりにしたくなかっただけだ。 なんども、眠れない夜をひとり、布団の中で煩悶した。それを考えている間に浮かんでいる顔は、父親の顔でも母親の顔でもなかった。ただひとりの女性の顔だった。道に迷った藤好を迎え入れてくれた女性の笑顔。客の来ない店の中には、あたたかな空気と、ひそやかな優しさが満ちていた。 胸にはあれ以来 鳥が住み付き、チルチルとやっている。鳥が鳴けば、藤好の心臓はドキドキと高鳴った。 あの店が、実家からそれほど遠くないところにあると知った。 それを知ってからほどなくして、藤好は職を得た。民営化した郵便局の配達員になった。割り当てられた集配エリアの中には、あの店の前のポストも含まれていた。 運命だと、昔の藤好であればすぐに思い込んだだろう。 今も、そうだったらいいと思う。……なんの進歩もない。 * あれだけ寒かった季節はめぐり、今はただじっとしているだけでも汗がにじんでくる。 この暑さに加えて、集配にはバイクを使うのでヘルメットをかぶる。いったい何の苦行だろうかと思うほど暑い。 「よおっ」 バイクにまたがろうとしたところで声をかけられて、藤好は振り返った。ひとりの男が藤好と同じデザインのヘルメットをかぶりながら、日に焼けた顔をゆるめていた。 「聞いたぞ、お前。都会の方で、女をとっかえひっかえだったらしいじゃないか。うらやましいことだな」 そんなんじゃない。喉元まで出かかった言葉を、藤好は苦労して飲み込んだ。 噂話は、広がらないように折りたたもうと思えば思うほど、余計なしわが出来てしまう。そのしわを、たいていの人間は面白がるのだ。 藤好は曖昧に笑ってバイクをスタートさせた。湿った風でも、汗の浮いた首筋には涼しかった。 連日のように続く暑さのせいか、道を歩く人の姿はない。さびれていながらもそれなりに続く商店街を抜けると、藤好はバイクの鼻先を細い林道に向けた。 細い道、バイクを走らせながら藤好は呟いた。そんなんじゃない。舌打ちに近い呟きだった。 一度呟いたら、そこからは止まらなくなった。そんなんじゃない。そんなんじゃない。そんなんじゃない。 女をとっかえひっかえ? そんなんじゃない。 いつも、ふられるのは藤好の方だった。惚れた相手以外には何もいらない。単純に、ほとんど馬鹿のひとつ覚えのごとく、藤好は思う。本当に馬鹿だと思う。惚れた相手さえ傍にいれば、他のものはあってもなくてもどうでもよかった。どうでもよいわけもないのに。 相手も、恋の始めはそうだった。 けれど藤好以外に何もいらないと言っていた女たちは、しばらくするとすべてを求めてきた。仕事、お金、安定。藤好がそれに応えられないと分かると、女たちは去っていった。 それが当然だと分かっている。 分かっているからこそ、悔しかった。 惚れた相手にすぐ見限られる程度の男なのだと、ふられる度にひどく落ち込んだ。落ち込んで、そしてまたすぐに別のだれかに惚れた。 どうしようもない男だと思う。 分かっているからこそ、悔しかった。 藤好は人影のない道にぽつんと置いてあるポストをあけた。手紙や葉書のたぐいは、何も入っていなかった。何の冗談なのか、青々とした大きな葉が一枚、入っているだけだった。 顔をあげたところで、店の中にいた店員と目があった。今は名前も知っている。若林みちか。直接聞いたわけではなかった。封筒に書いてある名前で、そうだと知った。 「暑い中、大変ですね」 にこにこと笑うみちかに、藤好は笑ってみせた。店の中に入り、冷たいお茶を買う。それが日課になっていた。 こんな風に道草をしていることがばれたら、せっかく得た職も失ってしまうかもしれなかった。けれど素通りはできなかった。 「お客さんはどうっすか?」 藤好が聞くと、みちかは小さく頭を振って、それでもにっこり笑って答えた。 「常連さんは藤好さんだけですよ」 「まあ、こんな立地じゃあ難しいっすよね」 さりげなく、藤好はみちかから目をそらした。窓の外を、意味もなく凝視する。 みちかはいつの間にか藤好の名前を知っていた。小さな町だ。それなりに噂も耳に入ってくるだろう。 あの日と同じ丸椅子に座って、藤好は冷えたペットボトルのキャップをひねった。プシッというなんでもない小さな音さえ、大げさに響くほど大きく聞こえた。静かだった。 小さなペットボトルのお茶を飲んでいる間、みちかはソワソワと藤好の前で待っている。最初こそ世間話もしたけれど、最近では無言の時間の方が増えた。 分かっている。 あの一通の手紙からだ。 藤好はふさいでいく気分を持て余していた。胸のあたりが重い。その理由も分かっていた。 無意識のうちに胸のポケットを触っていた。カサッとした感触。その感触にどこか怯えるように、藤好は手を離した。 「それじゃ、また」 お茶を飲んでしまうと、藤好はそれをゴミ箱に入れて腰を上げた。みちかはガッカリした顔を隠さずに、藤好の後について店のドアまでついてきた。 胸の中でチルチルと鳴く鳥は、今や大群となって藤好の胸を乱す。油蝉の大合唱のように、聞いているとぼんやりして思考能力を奪っていく。 藤好はドアの前で立ち止まった。古いけれど、よく磨かれた窓ガラスにみちかが映っている。優しそうな顔には、どこか悲しそうな影が落ちていた。 抱きしめたい。 唐突に思った。 汗にまみれて、なにを考えているんだと思う。思うのに、衝動とも呼べるその思いは藤好の体をくまなく駆け巡る。 本当に渡さなくていいのか――? 不意に、誰かが目には見えない銃弾で、胸ポケットを射抜いたように思った。ズキリとした痛みを生々しく感じた。 やめておけ。そんなことをしてはいけない。踏みとどまれ。 胸ポケットのかさついた感触。 藤好の胸は乱される。鳥たちは大群で藤好をせきたてる。チルチル、チルチルと。握りつぶしてしまいたい。せきたてる鳥を、この思いを。そうできるなら。 藤好は自分の気持ちを振り切るようにもう一度「それじゃ、また」と言うと、店を出た。 * 握りつぶしたかったのは、胸の中の鳥の声のはずだった。 林道から一直線に落ちた場所で、藤好は一通の手紙を握り締めていた。握り締めた拳の両端から突き出している手紙は、暮れかけていく世界とは真逆をいくように白く見えた。 落ちる時についたのだろう。手紙には草の汁や湿った土による汚れがついていた。宛名のところには、若林みちかと書いてある。裏には、知らない名前が――。 「なにやってんだろ」 藤好はようやく立ち上がり、林道を見上げた。薄闇に溶けてしまいそうな細い道は、下から見上げるとただの区切りにしか見えなかった。 くしゃくしゃになった手紙を握り締めたまま、藤好は崖を登り始めた。 一通の手紙を、みちかに差し出した時のことを藤好は鮮明に覚えている。みちかは手紙を受け取ると、裏側の名前を確かめたあと、とても喜んだ。小柄な身体でぴょんぴょん跳ねてみせたりもした。 その喜びように、藤好も思わず笑顔になった。裏側の名前など気にもしていなかった。その笑顔と、そのかわいらしい喜びようを見ることができただけで満足だった。配達員になってよかったと心の底から思った。 それから、みちか宛ての手紙が増えた。 その回数が増えるほど、藤好の胸には得体の知れない黒いものが巣食っていった。 知らない男の名前で、週に何度か届く手紙。それを受け取るみちかの、輝くばかりの笑顔。 恋人からの手紙だろうか。考えた瞬間から、手紙を届けている自分が間抜けな伝書鳩のように思えた。 悶々とした。好きだと言ってしまおうかと思った。 惚れっぽい自分の性格を、もう諦めて開き直って、認めてしまおうかと思った。 もともと恋心を秘めることが苦手な藤好の心は、確実に開き直りの方向に傾いていた。 突然だった。 ほぼ毎週のように届いていた手紙が、ぱたりと止まった。藤好は胸を撫で下ろした。もう二度と来なければいいとさえ思った。 そうして、今日は届いていないことを告げた時のみちかの淋しそうな顔をみて、胃からすっぱいものがこみ上げてくるほどの罪悪感を覚えた。 名前しか知らない相手に嫉妬していた。 藤好は林道まで這い上がり、そのままトボトボと道を下り始めた。バイクは明日にでも引き上げてもらおうと思った。 町へと戻る途中で、みちかの店に寄った。虫が明かりを求めて近寄るように、どうしても足がそっちに向いていった。 泥だらけの藤好を見て、みちかは大いに慌てた。奥からタオルを取ってくると言うみちかが、藤好の手に握られている手紙に気付いた。手紙と藤好との間に視線をさまよわせている。 藤好は握り締めていた手紙を差し出した。 頭を下げようと思った。 それが勢いあまって、気付けば藤好は土下座をしていた。床に額をつけて、すいません、と何度も謝った。 みちかの声は聞こえなかった。 一度、偶然にも中身を見てしまった。みちかが手紙を開けたのが、藤好の方からも見えた。 中身は白紙だった。 最初は奇異に思った。何も書かないで、どうして手紙を送ってくるのか理解ができなかった。そのうちに、それは合図なのだと思えた。手紙を届けた次の日は、午後から店の閉まっていることが多かった。 言葉のいらない間柄なのだと思った。 だから嫉妬した。 それよりももっと気持ちの深いところで、手紙が届かなくなってガッカリしているみちかを、なんとかしてあげたかった。 「どうして……?」 ようやく聞こえてきたみちかの声は小さく震えていた。その震えが床を通して伝わってきたかのように、藤好は床につけた額がしびれたように感じた。 「すいません、ほんと、何やってんだろ。手紙を楽しみにしていたみたいだから、どうにかしたかったんすよ。ほんと、すいません。中身を、この間チラッと見てしまって、白紙だったし、だから、その、すいません、それは俺が書いたやつなんっすよ」 みちかにガッカリされるたび、藤好の胸は乱れた。 そのガッカリを与えているのが、自分のように思った。これは天罰だと思った。自分が軽はずみに二度と手紙が来なくなればいいなんて思ったから、こんな思いをしなければならないのだと思った。 すいませんと繰り返す藤好の耳に、ギイッという音が聞こえた。古びた店の床がきしむ音だった。目をあげると、藤好の前にみちかが座り込んでいた。 その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。 「白紙じゃないんですよ、あれ」 何故なのか、とても楽しそうにみちかは言った。どこから出してきたのか、別の手紙をあけると中身を藤好に差し出してきた。見たくないと思う間もなく、藤好はそれを受け取っていた。 みちかの言ったとおり、白紙ではなかった。便箋の最後の行、下の方になにかが書かれている。かなり乱れた文字で、藤好はそれが『母』と書かれていると分かるまでにずいぶん時間を費やした。 「リハビリのついでに、わたしに手紙を出してって言ったんです。母が事故の後遺症のせいで、ペンを握ることもできなくなった時に。ようやく届いて、とっても嬉しかった。手紙が届いたことより、母がリハビリに向き合ってくれたことが嬉しかった」 恐らく、まだ本文を書けるほどには回復していないのだろう。藤好は便箋を見つめた。真っ白な便箋にただ一文字、母とある。それだけ書くのに、どれほどの時間と努力を重ねたのだろう。 それを自分は……。 藤好は恥ずかしくなって、けれど気になっていたことを素直に口にしていた。 「でも名前が、男の……」 「母の再婚相手なんですよ。たぶん、自分がついているから安心してくださいっていうアピールなんだろうなと思います」 みちかは屈託なく笑った。嘘をついているとは思えなかった。なにより、『母』と書かれた文字の、その魂を込めたような一筆一筆に、邪推をはさむ余地は何もなかった。 踏みとどまってよかった。 藤好は心から思った。 もしも、素知らぬふりをして偽の手紙を渡していたら。それを考えるとゾッとする。どうしてそんなことをしようと思ったのか、今となってはよく分からない。 そう、道を踏み外す予感はまるでなかった。あと一歩で、人としての道を踏み外すところだったというのに。 藤好が息を吐くと、真っ白い便箋がまるで頷くように静かに揺れた。 * いつものように藤好は丸椅子に座って小さなペットボトルのお茶を飲んでいた。みちかの店は、今日もやはり客らしき人の姿はなかった。 さっき、一週間ぶりに届いた手紙をみちかに渡した。みちかはまるでウサギが跳ねるようにぴょんぴょん飛んで喜んだ。 ふと、「あれ」という不思議そうなみちかの声が聞こえた。のんびりお茶を飲んでいた藤好は、みちかから便箋を差し出された。 「なんっすか?」 「藤好さんに、みたい」 みちかの母からの手紙だ。受け取った便箋には、ずいぶん回復したらしい文字で藤好様と書いてあった。本文には何もない。 けれど、最後の行に『未来の義母より』と書いてあった。未来と義母というふたつの言葉の意味することは―― 藤好は思わず顔を上げてみちかを見た。 みちかは真っ赤な顔をしていた。 「母のところに行った時には、藤好さんの話ばかりしていたから」 一瞬の間はあった。 けれどほんの一瞬だった。 藤好は、胸の中を大群でチルチルやっている鳥たちと共に、喜びを声に出していた。
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| 本文のない手紙。 見守っているよと、伝えるために。 (2008.08.13) |
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