初めてアンドロメダ星雲を見たとき――見たと言っても科学の教材に載っていた写真を見たという意味だけど、あのとき、わたしはストレートに思った。 「わ、なんか美味しそう」 赤紫の渦はカシスのムース、小さな光の点は砂糖をまぶしたように見えた。わたしのそんな言葉を聞いて、加賀さんは眼鏡を押し上げながら笑った。 「銀河を美味しそうだなんて言う女は、あんたくらいのものでしょうね」 「ねえ、アンドロメダって、そのうち地球と一緒になるってほんと?」 「地球のある銀河系とぶつかるだろうって言われているのよ」 「ふうん」 「数十億年後にね。そう教わったじゃない」 「そうだっけ?」 わたしは授業よりも、授業中に回す手紙にウサギのマークを描くことの方に熱中していて、数十億年後にアンドロメダと銀河系が引き合ってぶつかるなんてことには関心がなかった。――昨日までは。 「で? これがなんなの?」 加賀さんはクールに眼鏡を光らせながら、突然アンドロメダ星雲について聞いてきたわたしを見上げた。加賀さんは椅子に座っていて、わたしは立っている。場所は学校の図書室。人はまばらで、知っている顔はひとつもなかった。今なら大丈夫かもしれない。 「あのね、みどり町の商店街があるじゃない」 「あるわね」 「その商店街の一番奥に、喫茶店があるの、知らない?」 加賀さんはちょっとの間黙っていて、それから「ああ」という気の抜けた声を出した。その気の抜けた声のまま、 「喫茶アンドロメダでしょ」 と、どこか鼻で笑うように言った。 その態度にわたしはちょっと不安を覚えながら、それでも話をやめることができなかった。誰かに聞いてほしい気持ちの方が強かった。 「そこのマスター、アンドロメダから来たんだって」 「あんた信じてるの?」 付き合いきれないという風に、加賀さんはアンドロメダ星雲の載っている本を閉じて立ち上がりかけた。 「違う違う。聞いて。それはどうでもいいの」 大事なのは、その後なのだ。 マスターはアンドロメダを出て色んな銀河を旅してまわって、最終的に地球に落ち着いた。地球の環境が気に入ったのもあるけど、地球の娘に恋をしたせい。 それはどうでもいい。加賀さんにも話したけど、わたしだってそんな話を心から信じているわけじゃない。 でも、その話はこう続くのだ。 アンドロメダと地球が引き合うように、あの喫茶店に片思いの人と一緒に行くと両思いになれる。 あくまで噂だけど。 「ふうん?」 加賀さんはどこか意地悪な目をしてわたしを見た。学年一の才女は恋なんて興味ないのかもしれない。もしくは恋もつつきまわして解剖して、それがどういう仕組みになっているのか知っているのかもしれない。だからそんな余裕のある目をしていられるのかもしれない。 一瞬でそこまで考えてしまうくらい、加賀さんの目にはいつになく何かの感情が光っていた。 「そんな馬鹿にした目で見ないでよ」 わたしが頬を膨らませると、加賀さんは表情を緩めた。違う違うと、顔の前で手を左右に振る。 「そういう相手がいるんだなって思っただけよ」 言われて、顔がカーッと熱くなった。 * 積極的に言えば「好き」なのだと思うし、消極的に言えば「気になる」のだと思う。 なんの流れなのか、なんの勢いなのか、わたしは加賀さんと一緒に夕暮れの商店街にいた。あの人がいつも通る道。 わたしは周囲を見回して、酒屋さんの横に積まれたビールケースの陰に隠れた。 隠れる必要はあるのと、加賀さんに聞かれて、わたしは「目があったら恥ずかしいでしょ」と言い返した。そうしたら加賀さんは「隠れているのが見つかった方がよっぽど恥ずかしいと思うけどね」と言い返してきた。 そうかもしれない、けど。 でも隠れたいんだから仕方がない。 ほんとうは、今ここに立っているだけで足がガクガクしている。もうすぐこの道をあの人が通る。そう思っただけで緊張してくる。胸の奥から熱くて息を苦しくさせるものがせりあがってくる。 いっそ今日は通らなければいい、なんて思う。こんなにも苦しいから。でもあの人の姿を見られなかったらきっとガッカリする。会いたいんだか、会いたくないんだか分からない。わけが分からない。 時間は静々と行進している。腕時計の針が音もなく進んでいく。一度でもいいから、えっほ、えっほと威勢よく進んでいってほしい。そうしたら気がまぎれるから。 そんな馬鹿なことをとりとめもなく考えるほど、わたしは緊張していた。緊張がピークに達しようとしていた。 そんな時だった。 商店街の人波の中に、あの人の姿を見つけた。 わたしは耐え切れなくなって、加賀さんの手をぎゅっと握った。 「ちょっと、あんたなによ」 加賀さんは突然手を握られて面食らった声を出したけれど、わたしの手を振り払うことまではしなかった。 「あそこ、あのショルダーバッグを斜めにかけてる人」 指をさすなんてことはできなかった。すぐに顔もそらした。ビールケースの陰で肩を縮めて、できるなら透明人間になりたいと思った。 加賀さんはあの人を見つけるのに苦労しているようだった。どこよ、どこにいるのよ、と何度も聞いてくる。 ほら、今はパーマをかけたおばさんの隣。 自転車のおじいさんが横を通り過ぎたでしょ。 大売出しののぼりが立っているところ。 何度かあの人のいる場所を教えてようやく、加賀さんはあの人を見つけることができたみたいだった。 でも、見つけた後が変だった。 「あ、あーー……?」 というような声を出して、ビタンという音がするくらい酒屋の壁に背中をくっつけた。隠れる必要はあるのか聞いてきた人が、今は全力で隠れている。 「なに、どうしたの?」 わたしの声に、加賀さんはひどくびっくりした顔を向けてきた。 「あれはダメよ、ダメダメ」 「え?」 その、あまりに容赦のない言い方にわたしは戸惑った。握っていた手から力が抜けた。それを敏感に察知して、加賀さんはわたしの手を強く握りなおした。そして無理に作った笑顔をわたしに向けてくる。 「あんな頼りなさそうな人じゃなくて、もっとしっかりしてて、洗練された人を選びなさいよ」 「……加賀さん、あの人のこと知ってるの?」 わたしが聞くと、加賀さんは眼鏡の奥の瞳を不自然に細めた。そのまま、うん、も、いいえ、も言わずに歩き出した。つないでいた手がいつ解かれたのか、わたしには分からなかった。 あの人もいつの間にか商店街から消えていた。 * 少し前までは暑くてたまらなかったのに、今は涼しいというより、肌寒い。季節は確実に流れていく。 みどり町の商店街はハロウィンの飾りでどこもオレンジ色だった。ただ喫茶アンドロメダだけは地球のお祭りに興味がないのか、いつも通りの赤紫のシェードで目立っていた。 だから、なのだと思う。 ふと視線を向けた。 その先に―― 加賀さんとあの人の姿があった。 背中の内側と言えばいいのか、胸の一番奥と言えばいいのか、そんなところからドッと汗が噴出したように感じた。暑くもないのに顔がカッカと燃える。 そういうことだったのか。 まだよく事態が飲み込めていないのに、なにか本能とでもいうような原始的な心でわたしは思った。 『あれはダメよ、ダメダメ』 『あんな頼りなさそうな人じゃなくて、もっとしっかりしてて、洗練された人を選びなさいよ』 『地球のある銀河系とぶつかるだろうって言われているのよ』 『喫茶アンドロメダでしょ』 『そういう相手がいるんだなって思っただけよ』 そうよ、そう思っただけ。加賀さんにも、そういう人がいるんだなって、思っただけ。ただその相手があの人だった、ってだけ。 加賀さんとあの人はカウンターに肘をついて何か話している。その肘のつき方が、もう何年も一緒に過ごしてきたかのように似ていた。 喫茶アンドロメダのこと、本当は知っていたんじゃないの。だからあの人と来たわけ? ショックという嵐が胸の中をかき混ぜるだけかき混ぜて去っていく途中で、どこから掬ってきたのか猛烈な怒りを落としていった。ムカムカした。 知ってて、あんな馬鹿にした目をしたのかと思うと腹が立った。 でも、きれいに磨かれたお店のドアを蹴散らして入っていく勇気はなかった。逃げようと思った。逃げて、今夜は一晩中泣いてやろうと思った。 そう思った瞬間に、加賀さんに見つかった。わたしの異常な視線を感じたのかもしれない。 加賀さんは「あっ」という顔をして、カウンターから肘を離した。こちらに駆けてくる。 さっきまで逃げようとしていたわたしの足は、今はせっかちな北風に凍らせられでもしたのか、ちっとも動かない。 それでも加賀さんがドアから顔を出した瞬間に、弾かれたように動いた。あまりに遅い反応だったせいで、二歩もいかないうちに腕を掴まれた。 「なんで逃げるのよ」 「だって!」 逃げたいんだから仕方がない。隠れたいのと同じ。まともにぶつかっていくことが怖くて、でも完全にフェードアウトできるほど潔くもなくて、だからグズグズして足が動かなかった。 涙をこらえた。 こらえたつもりなのに、頬に熱いものが流れていった。 だってと言ったまま、わたしの口からは言葉というようなものは何も出ていかなかった。ひぇっ、ふぅっと、嗚咽の間に漏れる息が変な音を出しているだけ。 「ねえ、泣かないで。聞いて」 「やだ!」 加賀さんの落ち着いた声が、余計にわたしの心をグチャグチャにした。 あの人とすれ違うだけで胸がドキドキした。声を聞いた日は一日中 耳を押さえていたかった。あの人の声がどこかに逃げていかないように。 その気持ちの盛り上がりが、急にポキンと折られてしまって痛くてたまらなかった。 わたしは腕を振り回して、なんとか加賀さんの手から逃げようとした。つながれた手を振りほどこうと暴れている内に、わたしの手が、加賀さんの顔に当たった。 そのはずみで、加賀さんの眼鏡が店のドアまで飛んでいった。 カチャンという軽い音のあと、加賀さんが怒鳴った。 「いいから聞きなさいよ!」 思わず肩がビクッとするほど大きな声だった。学年一の秀才で、ほとんど感情を表さないクールな加賀さんが、真っ赤な顔をしてわたしを見つめていた。眼鏡もなしで。 「あれは私の兄貴で、ここは私の親父がやっている店なの!」 しばらく、息をするのを忘れた。 言葉というものが軽いウエハースになったみたいに、パリパリ、わたしの目の前で割れていくようだった。 「え?」 ウエハースは昔から苦手だった。口の中の水分を奪って、飲み込むのに苦労するから。 「だから、あの噂を作ったのは私なの。店がちょっとでも繁盛すればいいなと思って、ほんの軽い気持ちだったのよ。それが……」 加賀さんが恥ずかしそうに語るには、そういうことだった。 喫茶アンドロメダはあまり客入りがよくなかった。せっかくお洒落な内装にしても、商店街の一番奥という立地からして、あまり人目につくことがなかった。 そこで加賀さんはその条件を逆手にとって、あんな噂を流したのだ。 人目につきにくい喫茶店。片思いの人と一緒に入っても、あまり噂にならないかもしれない。ひっそりと、愛を育むのにちょうどいい。 どこか怒っているように早口で言う加賀さんに、わたしは当然抱いた疑問をぶつけてみた。 「なんで聞いたとき知らないふりしたの?」 「だってさ!」 加賀さんは言葉が喉に引っかかったみたいに顔をよけいに赤くして、しばらく黙っていたけど、観念したように「恥ずかしいじゃない」と答えた。 アンドロメダと地球が引き合うように、あの喫茶店に片思いの人と一緒に行くと両思いになれる。 そんなロマンチックな噂を学年一のクールな才女が作り出したかと思うと、わたしは涙も忘れて笑っていた。 「笑うことないでしょっ?」 加賀さんにすねた声を出されて、わたしは違う違うと顔の前で手を振った。 「そういう一面があるんだなって思っただけ」 図書室で加賀さんが言ったように口調を真似て言うと、加賀さんはわたしを叩くフリをしてきた。眼鏡のない顔はアンドロメダより真っ赤に染まっていた。 泣いて、怒って、笑って。 心も、アンドロメダと地球と同じように引き合っているのかなと思った。思った途端、ロマンチックでステキな噂だと思えた。 「でも実はお父さんはアンドロメダ星人じゃないの?」 「なによ、それじゃ私がアンドロメダ星人と地球人のハーフになるじゃない」 わたしと加賀さんは声をあげて笑いあった。 その笑い声を聞きつけたのか、ドアを開けて加賀さんのお兄さんがキョトンとした顔で出てきた。 緊張で、わたしの笑い声が止まる。加賀さんも笑い声は止めて、でも眼鏡のない顔で笑ったままわたしを見ている。 「あの、わたし加賀さんの友達の――」 勇気を出して名乗ろうと思った。好きですとはまだ言えなくても、一歩近付きたかった。アンドロメダと地球みたいに、ゆっくりでも。 「あ、なんかよく出会うよね?」 加賀さんのお兄さんは、隠れていたわたしに気付いていたみたいだった。 わたしが恥ずかしさに息を呑み、加賀さんがニヤリと笑ったところで、なにかがバリンと音を立てた。加賀さんのお兄さんの足元には、なにか光る破片があった。銀河の星というのは大げさだけど、まるで、そう、レンズみたいな……。 「あれ、なにか踏んだ?」 加賀さんのお兄さんが再び足を動かした瞬間、またバリンと音がした。 わたしは思わず加賀さんの顔を見た。加賀さんの眼鏡がドアのところまで吹っ飛んでいったのは、さっき。 その事実は、加賀さんとわたしに「ぎゃーっ」という叫び声を仲良く上げさせた。
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| 喫茶アンドロメダでは、 恋だけでなく友情もしっかり育めます。 (2008.09.25) |
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