2. 小学生の頃に通っていたピアノ教室。 教室と言ったって、先生の自宅の一室を防音にして教えているという代物で、僕は毎週土曜日の午後3時になると、いつも憂鬱だった。 先生の家の前に立って、何度もため息をついていた。 誰かの家に、その誰かを伴わないで出向くのは、やけに気が引ける。僕は、人の家に勝手に上がり込もうとしている怪しい小学生なんじゃないか。 何故かしら、そう思った。 でも、ピアノ教室はまだいい。先生が待っててくれる。僕の顔を見て、よく来たね、と言ってくれる。そこで僕は、怪しい小学生から、ピアノ教室に通う生徒になれる。 でも今は…… バクバクと、心臓が胸の中で宙返りを繰り返している。4回転ジャンプぐらい楽勝で決めているかもしれない。 そこで僕は拍手を送る代わりに、ため息をつく。 蒔田の家の前に立って、拍手のように盛大なため息を、何度もついていた。 『うちはミドリ町のレンガの家、分かる? そう、それで、玄関あけたら真正面に階段があるから、2階に上がって、右側の1番奥がヲレの部屋だから』 蒔田は丁寧に説明してくれた。 そのおかげで、何となく蒔田の家の見取り図は、僕の頭の中にあった。あとはその見取り図に従って、蒔田の部屋に行けばいい。 分かっちゃいるけど…… 僕の足はピクリとも動かなかった。僕の足というより、蒔田の足なんだけど、僕の意志で動かせる足。ああ、ややこしい。 「はぁ…」 何度目だか分からないため息をついて、僕はレンガ造りの家を見上げた。こういう家をなんて呼ぶのか分からないけど、洋風、ヨーロッパ風、なんか、そんな感じ。玄関の外灯も、イギリスのガス灯みたいな雰囲気があった。 僕の家、あのどこにでもある建売住宅とは違う……。 蒔田は今ごろ、僕の家で上手くやっているだろうか。 きっと上手くやっているだろう。 「……よし」 僕は一応の決心をして、玄関のドアに目を据えた。でも、すぐに挫ける。決心がグラグラ揺らぐ。 やっぱり無理だよ。 再びため息をつこうとした時だった。 カチャンと音がして、玄関のドアが開いた。ひょっこりと、背の高い男の人が現れる。僕を見て、笑みを浮かべたようだった。 蒔田の家族? 父親? 「あ――」 何か言わなくては。 僕はぐるぐる回る頭の中で、咄嗟に浮かんだ言葉を口にしていた。 「おっ、お邪魔しましゅッ!」 って…… バカ〜〜〜〜ッ! 蒔田が自分の家に帰るのに、『お邪魔します』はないだろう。しかも途中でマズイと意識したせいで、後半『しましゅ』って思い切り噛んでるし! 何気に幼児言葉だし! 臨機応変に対応できない、自分の不器用さに、僕はウワーンと声を上げて、シャベルで穴掘って自分で自分を埋めてしまいたくなったけど、蒔田の父親らしき人はニコニコ笑って手招きする。不審そうな顔はしていない。 もしかして、聞こえなかった? ら、ラッキー。 「…た、ただいま」 今度はちゃんとそう言ってから、僕はようやく蒔田の家の玄関をくぐった。
「あの、ぼ…」 言いかけて、僕は慌てて言い直した。 蒔田は自分のこと『僕』とは言わないんだった。 「おれ、その、具合悪いから、もう寝るね」 すぐに切り出した。蒔田の家の玄関に足を踏み入れて、2歩も進んでいない。まだ靴を脱いでもいない状態だった。 背の高い男の人は、キョトンとしたような顔で僕を見下ろしてきた。 その時になって初めて、僕は、この男の人が蒔田の父親にしては若すぎると気付いた。どう見ても20代前半に見えた。派手な紫色のシャツを着て、一見するとビジュアル系のバンドでもやっていそうな、退廃的な雰囲気がある。 もしかして、お兄さん、かな。 それにしても、無口な人だ。おかえりすら言ってこない。 だからといって無愛想にムスっとしているわけでもなく、ジッと何かを待っているような瞳で僕を見下ろしてくる。 「あの、そ、そういうことだから」 僕はドギマギして、思わず視線をそらした。ジッと見詰められていると、僕が蒔田ではないと見破られてしまいそうに感じた。 とにかく蒔田の部屋に閉じこもって、何とかやり過ごすしかない。 そう思った僕が、靴を脱ごうとすると…… 「――」 蒔田のお兄さんらしき人に、急に腕をつかまれた。大きくて、ヒヤリとした手だった。そのヒヤリとした冷たい感触は、瞬時に僕の中に潜り込んできて、僕を内側から一気に縮み上がらせた。 「ごっ、ごめんなさ…」 咄嗟に、ほとんど習性のように謝ろうとした僕の前で、蒔田のお兄さんらしき人は無言のまましゃがみ込んだ。 そして、背の高いヒョロリとした身体を折り曲げるようにして、靴の紐を丁寧に解き始めた。僕の…、いや、蒔田の靴の紐を、だ。 「え…?」 またひとつ気付いた。 蒔田のお兄さんらしき人、玄関に裸足のまま下りちゃってる。足の裏が汚れるとか、考えないのだろうか。 もしかして…… 僕の疑問がひとつの結論に達しようとしたとき、不意に、蒔田のお兄さんらしき人が顔を上げた。どうやら靴紐がすべて解けたようだ。 「あ、ありがとう」 僕がお礼を言うと、お兄さんはニタリと笑う。派手な外見のせいでニタリと笑ったように感じるけど、たぶん、ニコリと嬉しそうに笑ったんだ、と思った。 そこで僕の結論。 蒔田のお兄さんは、外見の年齢より、中身がほんの少し子供なんだろう。 弟の世話をしたくてたまらないんだろう。 僕の姉ちゃんも、ほっといてよ、と言いたくなるほど世話を焼いてくることがある。たぶん、その感覚なんだ。
2階へと続く階段を上っているとき、階下でジッと僕を見上げるお兄さんの顔が印象的だった。 何て言うのか、つまんないよ、とハッキリ顔に書いてあるんだ。無言なのに、ひしひしと伝わってくる。 ちょっと後ろ髪を引かれた。 それでも、あんまり一緒にいたら僕が蒔田じゃないことがバレてしまうから、振り切るように階段を上った。 そして、右側の1番奥の部屋に逃げ込んだ。 蒔田の部屋だ。 「……ふぅ」 自然と息がもれた。ため息ではなくて、安堵の息だ。ピッタリ閉じたドアに背中をつけて、僕はしばらく放心していた。 ここまで“どんぶりこ、どんぶりこ”と川に流される桃のように、どんどん流されてきたものの、ふと立ち止まって考えるとわけの分からないことだらけだ。 頭の中で、ちょっとおさらいしてみる。 僕は、学校に忘れた宿題を取りに戻る最中だった。 少しでも早く学校に戻るため、必死だった。 オフロードみたいな小路、地元の人でも知ってる人は少ないような小路。 僕も普段はあまり通らない。 そこで―― 突如、白いものが目の前に現れた。 形を思い出そうとしても、どうしても思い出せない。 だからとりあえず、白いもの。 その白いものに驚いてブレーキを踏んで、バランスを崩した瞬間……、 フッと意識の途切れを感じた。 目を開けたとき、“僕”が僕を覗き込んできた。 それが6年生の時に同じクラスだった蒔田だと分かった。 つまり、僕の身体の中に蒔田の魂が……。 僕の魂は、蒔田の身体の中に……。 そして蒔田は言った。 悪戯妖精“マッシロシロン”が、僕と蒔田の魂を入れ替えた。 自分は妖精使いなんだ、って……。 元に戻るためには、その“マッシロシロン”を捕まえなきゃいけないらしい。 でも、その“マッシロシロン”って妖精、夜は陰に隠れているみたいで……。 今夜のところはお互いの家にホームステイすることになった。 「……」 おさらいしても、納得できない部分はたくさんあった。 僕はふと思いついて、部屋の中を見回した。 蒔田の部屋は、僕の部屋とは比べ物にならないくらい広かった。 出窓の下にローチェストが置いてあって、その横には勉強机が置かれている。机の上には教科書や参考書、辞書などが整然と並べられていて、何に使うのか分からない瓶詰めの砂らしきものも一緒に並べられていた。 その机からすぐの場所、放り投げられたように床に転がっているスポーツバッグ。上部のジッパーチャックが開いていて、そこからチラリと白い体操服がのぞいている。 その向こう、壁に寄せて置かれているベッドの上には、脱ぎ散らかしたパジャマ。シーツは花柄で、ちょっと少女趣味だった。蒔田の母親が選んだものかもしれない。 壁紙も小さな花模様がたくさん縦に並んだデザインだった。 そんな花畑のような壁を横断する横木に、ハンガーで学生服がかけてあった。 開襟シャツと黒の学生ズボン。 もしかしたら冬は詰襟なのかもしれない。容易にそれが推し量れるほど、それは古めかしいスタイルの開襟シャツと学生ズボンだった。 そして、僕は目的のものをようやく見つけた。 恐る恐るという感じで、足を進めた。 「う〜ん…?」 その前に立って、ジッと目を凝らす。 僕の前には、少しだけ左側に首を傾けて、ジッとこちらを見詰め返してくる蒔田の顔があった。 鏡だ。 僕は鏡を覗き込んでいた。 やっぱり、蒔田だ…… 小学校を卒業して、3ヶ月か…、その間一度も会ってないけど、蒔田に間違いない。 意志の強さを象徴するようなクッキリした眉、切れ長で大人びた光を宿している瞳、通った鼻筋、常に口角が上がっていて微笑んでいるような唇。 大人っぽくて、誰からも好かれていた蒔田の顔がそこにあった。 僕は鏡を見たらいつもやってしまう癖で、キリリと表情を引き締めてみた。 「わ…ッ」 鏡の中の僕、いや、蒔田は、思わず仰け反ってしまうほど凛々しい顔になった。ポヤンとした子供っぽさなんて、微塵も残さず、消し去ってしまう。 「……」 いいなぁ。 ちょっと、メラッと、嫉妬というか羨望というか、ライバル心みたいなものが、僕の中で炎になった。 でもそれは燃え上がることなく、瞬く間に消えてしまう。 これは現実なのか。 それとも夢なのか。 鏡の中、大人びた顔をしている蒔田を見詰めたまま、僕は頬をつねってみた。 痛かった……。 やっぱりこれは現実なのか……。 信じられないことばかりで、でも信じるしかない現実が、今まさに僕の目に映っている。 摩訶不思議なことが、普通に、僕の身に起きている。 「でもやっぱり信じられないよなぁ…」 独り言がポロンと、舌の上を転がって出てきた。 信じられない信じられないと呟きながら、僕は鏡を凝視していた。それはまるで、思いがけず福引で1等賞を当てた人のように、どこか熱っぽい響きを帯び始めていた。 僕は色んな表情をしてみた。 色んな角度で、鏡を覗き込んでいた。 いつしか夢中になっていた。 鏡に映っているのは僕ではなかったけれど、裏を返せば、僕じゃないからこそウットリしてきた。 何せ蒔田はみんなの人気者だった。 常にみんなの中心だった。 僕と蒔田は、学校にいる間はちょこっとだけ会話を交わすけれど、それほど親しいって間柄でもなかった。内気でポヤンとした僕には、とうてい想像もつかない世界に、蒔田はいたんだ。 あの、卒業記念に同級生の有志で真夜中の学校に忍び込もうという話だって、真っ先にリーダーとして推薦されたのは蒔田だった。 要するに僕は、なりたい自分を、思いがけず手に入れたようなものだった。 鏡の中の顔が笑みを浮かべる。 「えへ…えへへ……えへへへへへっ」 どんな表情をしても様になるものだから、僕は知らず笑ってしまっていた。満足感によるものだった。 そのとき。 一通り色んな顔を試して満足した結果なのか、僕の意識が周囲に散った。 ふと、部屋のドアが開いていることに気付いた。 「あ――ッ…」 隙間から、小さな影がこちらを覗いていた。10歳ぐらいだろうか、黒い巻き毛が印象的な女の子だった。西洋人形のような格好をしている。 蒔田の妹だろうか? それにしては、あまり似ていない。どちらかと言えば蒔田は陽気なタイプで、始終笑顔のイメージだけど、こちらを覗いている女の子は暗いと言うか、年齢より大人びた表情、と言うより、ほとんど無表情だった。 ほんの一瞬視線が交錯して、女の子は無言のままドアを閉めた。 「……」 それにしても、かわいい子だなぁ。 まるで本当に人形が動いているみたい……。 でもどうして、声をかけてくれないんだろう。 何か用があったから、ドアを開けて、こっちを見ていたんじゃないのか。 こっちを見て………… 僕が落ち着いて考えられたのは、そこまでだった。 次の瞬間、ボッと顔に火がついた。 「うわー、ひえーッ!」 恥ずかしくてたまらなかった。無防備な姿を見られてしまった。ナルシストだとか思われたろうか。バカみたいと思われたろうか。 鏡を見て笑っている兄の姿なんて、妹から見たら、この世の中で最も間抜けな姿に決まってる。 僕だって、姉ちゃんがコッソリ鏡に向かって笑顔の練習をしてるのを見ちゃったとき、しゃがみ込みたくなるほど脱力したもんな……。 さ、サイテーかも…… 蒔田にどんな言い訳をしよう。 願わくば、あの女の子が『あのとき何やってたの?』と蒔田に聞かないことを祈るばかりだ。 |
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