3. 空というものが、宇宙の一部なんだとハッキリ知覚できるほど真っ黒く染まった頃。 日付も変わり、夜の闇が無言で窓の外に佇んでいた。 「……ッふぅ」 息苦しい。 お風呂のお湯が熱すぎた時みたいに、僕の身体がポッポッと燃え始める。身体の内部に溜まった熱が、出口を求めて、喉や頭に集まってくる。 熱いよ、苦しいよ。 お母さぁ〜ん、と続けそうになって、ぐっと堪える。 僕はもう中学生なんだから。小学生じゃないんだから。すぐにお母さんを呼んでしまう子供じゃないんだから。我慢しなくちゃあ。 はぁはぁはぁ…… 魂と身体が入れ替わると、拒否反応が出るんだ。 39度近く熱が出るよ? これがその拒否反応で、確かにかなりの高熱が出ているんだろうということは、蒔田の言葉で分かってる。 でも、分かってても、苦しいことに変わりはない。 じわりと、目に涙がたまった。 はぁはぁはぁはぁ…… シンと静まり返った夜の中で、僕の呼吸音だけが、ひたすら忙しなく落ち着きなく繰り返されている。 熱くて苦しくて、たまらなかった。 そんなとき。 ピトリ――と、冷たいものが触れてきた。 「……?」 うっすらと開いた目に、僕を覗き込んでくる顔が2つ見えた。 蒔田のお兄さんと、妹らしき女の子だ。 お兄さんは少し首を傾げて、僕の額に手を当てている。その横で、女の子はジッと僕を見詰めていた。 ああ、冷たくて気持ちいい。 ありがとう。 そう言いたかったんだけど、熱でまぶたが溶かされてしまったように、僕の瞳は閉じてしまった。
ゴトン―― という、何か硬いものが落下する音で、目が覚めた。 太陽は空のてっぺんに昇っていて、部屋の中を白に近い色に染めていた。 「あ、ごめん。起こした」 床からビンを拾い上げながら、僕の顔をした蒔田が言った。そのままトコトコと歩いて来て、ベッドの中にいる僕の額に手を当ててきた。 「うん、熱は下がったみたいだね」 そう言うと、蒔田はもう片方の手に持っていたビンをシャツのポケットに入れようとした。だけど、ポケットの入口が小さすぎてビンが入らなくて、それでも無理やり入れようと悪戦苦闘し始めた。 その様子を、僕は横になったままボンヤリ眺めていた。 「昨夜さ、小日向、きみ、晩ごはん食べなかったろ?」 視線をビンとポケットに向けたまま、蒔田が聞いてきた。 「え…?」 「ダイニングに、おかずが出しっぱなしになってた。うちの味、口に合わなかった?」 「ううん、そうじゃないよ」 緊張してて、おなかが空かなかった。 それに、いつの間にか寝ちゃってた。 そんな風なことを言おうとして、さすがに寝転んだままじゃいけないな、と身体を起こそうとした時だ。 ペチョリ… 何か、やけに湿った感触が、僕のすぐ横にあった。 ペチョリ……? ペチョリ……って? 「――ッ?」 ビックリして布団をめくると――、 僕の目に、得体の知れないものが飛び込んできた。形は“ムーミン”に出てくるニョロニョロのようだったけど、全体が紫色だ。 紫で、ニョロッとしていて、ヘビみたいだった。 なにこれ!? 「にょわぁ――ッ!」 叫んで後退って……、ものすごく慌てていたせいだろう、ベッドの幅を考えてなかった。フワリと浮かんだような気がしたら、僕はドスンとお尻から床に落下していた。 痛いと思う余裕すらなかった。 「なっなっなっ……ッ!?」 「ムラサキ!」 蒔田が、紫のニョロッとしたものをそう呼んだ。 その瞬間―― ベッドの上で、そのニョロッとしたものが形を変え始めた。グゥウンと縦に伸びて、どんどん大きくなる。 と、それは、昨日会った蒔田のお兄さんの姿になっていた。 「なっ…えっ……えええ〜〜〜?」 「またおまえ、ベッドに潜り込んで」 「へっへびがっまきたっおっおにいさっ」 「こいつさ〜、あったかくて狭い場所が好きでね」 「むっむらさきっのっへっへびっがっまっまきたっおにっおにいさんっ」 「昨夜、熱が出ただろ。体温上がってるから、潜り込んできたんだな」 「おにいさんがっ」 まるで会話になってなかった。 だってむらさきのヘビがぁぁぁぁぁ〜〜〜〜ッ!
木々がくすくす笑うように緑の葉を揺らし、お日様もニコニコ笑っているようにさんさんと輝いている。 「ごめん、ごめん。ヲレ、ムラサキのこと、説明してなかったっけ」 蒔田まで笑っている。 ちょうど蒔田の家と僕の家の中間点、地ならしだけしてあるようなオフロードの小路を、僕と蒔田は歩いていた。道の左側にある雑木林は昼間なのに薄暗く、反対側の崖から見える街は強い日差しで光って見えた。 蒔田はポケットに入れることを諦めたのか、手にビンを持って、僕の前を笑いながら歩いていく。 「あの人も、マッシロシロンと同じような、妖精?」 上下に揺れる背中、それは実のところ僕の背中なんだけど、その背中に向けて僕は聞いた。 「ムラサキは妖精というより、竜族の一種だね」 「竜族?」 「そう、竜族はね、昔から人になつきやすくて、人の世界に近いところで生活してる。普段は温厚で大人しいけど、怒らせると大雨を降らせたり雷を落としたり、嵐を呼ぶから、そこはちょっと注意かな」 「ふぅん…」 竜族って、ドラゴンか何かのことかな。 紫のヘビが人の姿になるところを見たせいか、僕は素直に蒔田の説明を受け入れていた。 「ケンカしたら大変なことになりそうだね」 僕がそう言うと、蒔田がクルンと振り返った。 その顔には満面の笑みが浮かんでいる。 「ムラサキとはケンカにならないよ。あいつ、人間のことすっごく好きだから、怒らないんだ。ヲレ、あいつが怒ったところ見たことないよ」 「へえ…」 蒔田に言われて、僕は昨日のことを思い出した。 具合が悪いからゴハンはいらないと言ったとき、あの人は、食べなきゃ駄目だという風にジッと僕の目を覗き込んできた。それでもいらないと首を振ると、ベッドを指差して、ポンポンと僕の背中を叩いてきた。 早く元気になってね。 冷たい手の感触が、何故かしら、そう言っているような気がした。 そんなことがあったせいだろうか。 今朝、紫のニョロッとしたヘビのようなものが、あの人の姿になったとき、僕はものすごく驚きはしたものの、怖いなんてちっとも思わなかった。 小心者で臆病な僕が……。 その事実に、思わず頬がほころびかけたとき―― 「アッ!」 耳がビリビリするくらいの大声が響いた。 「な、なに…?」 「マッシロシロン見っけ!」 言うが早いか、蒔田がすぐさま走り出した。 僕も慌てて追いかける。 「どこ? どこにいるの?」 「ほら、あそこ!」 蒔田が前方の木の陰を指差す。フワッと白いものが跳ねた。雑木林の中だ。 「え、あれって…」 「あれが悪戯妖精マッシロシロンだよ」 「あ、あれが…?」 白いものが、木々の間を跳んでいく。ピョンピョン、ピョンピョン、跳ねていく。 僕は目をこすった。 だけど、やっぱりそれはそのままの姿だった。 僕の目に映るもの…… 真っ白い耳、それも上に伸びる長い耳、ズボンからのぞく丸い尻尾、こっちを振り返った瞬間に見えた瞳は赤く、ヒクヒクと鼻が動いていた。 これがマッシロシロン? 「う、うさぎじゃなく?」 僕の疑問に、走りながら蒔田は吹き出した。 「あんな大きなウサギはいないよ」 「……」 ズボンをはいたうさぎも、ね……。 そう。そいつはまるで、遊園地で風船を配っているような、“うさぎの着ぐるみ”みたいな姿をしていた。サイズは着ぐるみにしては小さく、うさぎにしては大きく、ちょうど隣の家で飼われている柴犬と同じくらいのサイズだった。 それも、うさぎや柴犬と同じように、すばしっこい。 追いかけても追いかけても、逃げる逃げる。木々の間を信じられない跳躍力で跳ね回るものだから、僕と蒔田が息を切らして全力疾走しても、ちっとも追いつけなかった。ただでさえ雑木林の中は、地面がデコボコしていて走りにくい。 「小日向、あっち側に回って!」 挟みうちにしよう、蒔田が喉をゼェゼェさせながら言った。 「わ、分かった」 「絶対に逃がしちゃ駄目だからね!」 「分かってる!」 僕と蒔田は左右に別れて、今は木の陰で鼻をヒクヒクさせているマッシロシロンに、そうっと、そうっと、近付いていった。 マッシロシロンは僕と蒔田を交互に見ては、ヒクヒク鼻を動かし続けている。警戒しているのかもしれない。 僕は喉がカラカラだった。 緊張して、膝から力が抜けそうだった。 そして、マッシロシロンまであと2メートルというところまで近付いたとき、蒔田がピタリと足を止めた。手の平を僕のほうに向けてきて、僕にも止まるように示す。 『せーの、で行くよ?』 蒔田が口の動きだけで伝えてきた。 僕も『オッケー』と声を出さずに口を動かした。 「せーのッ!」 次の瞬間――、 蒔田は軽い身のこなしでマッシロシロンに飛びかかった。一方の僕は、木の根につまずいて、ベチャッと前のめりで転んでしまった。 「ああっ、なにやってんの、小日向!」 という蒔田の言葉とほとんど同時に、マッシロシロンが僕の横を、悠々とピョンピョン跳ねていった。
「ごめんなさいッ!」 結局……、 あの後でマッシロシロンを追いかけたんだけど、捕まえるどころか、完全に見失ってしまった。 「まいったな〜」 「ほんと、ごめんね。次はぜったい転ばないから」 僕と蒔田は今、自動販売機の前でジュースを飲んでいた。追いかけっこで渇いた喉を潤すために、小路からテクテク歩いて大通りまでやって来ていた。 大通りからも見える小さな雑木林。 ついさっき、あそこで走り回っていた時には、サッカー場を走り回っているかのように広く感じたのに、ここから見ると、サッカーボールより小さく見える。ビルが突き出て、雑木林のほとんどを隠しているから、とてもとても小さく見えた。 「まいったな〜」 そんな虫食いだらけの雑木林を見上げたまま、蒔田はもう一度同じことを言った。それから、飲みかけのまま持っていたジュースを一気に飲み干すと、缶をゴミ箱へ。 カランと、缶がゴミ箱の底を転がった音がした。 「――24時間以内にマッシロシロンを捕まえないと、ヲレたち、元に戻れなくなっちゃうんだ」 「え…?」 「ごめん、黙ってて」 「え? それって、入れ替わってから24時間?」 「うん、そう…」 「元に戻れなくなるって、一生?」 「……うん」 「え? 一生、このまま?」 「……うん」 「そんな――…」 硬直している僕に向かって、蒔田が慌てたように笑顔を見せた。 「だいじょうぶだって。まだ時間あるし、きっと捕まえられる」 「………」 「小日向〜、落ち込んでる場合じゃないって。まだ諦めるには早いよ」 「……でもさっき、僕がヘマしたから」 「あれは仕方ないよ」 「でも……」 「ほらほら。落ち込んでたってマッシロシロンを捕まえられるわけじゃないんだから、元気出して捕まえに行こうよ!」 蒔田はニッコリ笑って、僕の背中をポンと叩いてきた。 |
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